木偶の姫
密林に生い茂る葉から零れた翡翠色の光と、縦横無尽に絡み合う枝の影模様の元に、その宮殿はありました。
周囲を囲うマングローブ林に習い、幾千本もの長い支柱の上に建てられた宮殿は、乾期に訪れた者の目には奇妙な程高床式の建物に映りますが、雨期ともなれば皆感嘆される事でしょう。
宮殿の建つ一帯は、大量の雨で水没し湖となるのです。
すると宮殿は水上に揺蕩う真っ当な姿となり、水面から絶えず立ちこめる濃い霧の中、水鏡に自身の対を生み出すのでした。
特に、レェスを模した板の柵の廻廊に色とりどりのランタンをみっしりと灯した夜の宮殿は、妖しくも涼しげで夢幻からやって来た様なのです。
もっとも、湖は深く、この神秘的で美しい姿が人目に触れる事は、稀な事でございました。
この神秘の宮殿の君主は、マハラジャの末の弟ラアヒットヒャ様といいます。
マハラジャはこの不便な土地を納める事となった不憫な末の弟へ、兄弟の愛情の印としてこのような美しい宮殿をお贈りになられたのでした。
ラアヒットヒャ様は美しい宮殿に満足し、お妃様を娶りました。
お妃様は、異国の棘だらけの薔薇の様な、シヴァンシカという名の女性です。
妃は一年の変化が厳しい熱帯湿地の土地に慣れなかったのでしょう、なかなか子を授かる事が出来ずに心を痛める日々が続いておりました。
跡継ぎを産まねばならない立場としては、自分の将来もかかっておりますので、気も狂わんばかりだった事でしょう。
それを見かねたラアヒットヒャ様は、子を授けてくれるよう神へ祈りました。
するとある晩、雨期の過ぎた湖上の宮殿へ、大鬼蓮に乗った六歳程の幼子が無数の蛍火を伴って流れて来ました。
黄金と見紛う小麦色の小さな身体を、金とも銀ともとれない白い光の様な波打つ髪で覆い、大鬼蓮の葉の上にきちんと正座をしてやって来たのです。
緑遊色を湛えたオパールの瞳をもつ美しい少女でした。
小さな膝の上に、たくさんの財宝が山盛りになって零れていたそうです。
それよりも目を引いたのは、額に飾られた瞳の色と同じ宝石でした。
ラアヒットヒャ様はすぐにこの幼子を神から贈られた我が子と決め、サンパギータ姫と名付けました。
その名前は、異国の使者が茉莉花をそう呼んだ事を覚えていて、娘を持つ事があれば名つけようとシヴァンシカ妃に甘く語った名前でした。
シヴァンシカ妃は自身では子を産めぬと神に烙印を押された様な、侮辱を受けた様な酷い気分であられましたが、夫が余りにも喜ぶので強い屈辱を感じつつ、夫と自分の為に渋々頷きました。
しかし、サンパギータ姫の名を呼ぶ事も、世話をする事も一切なさりませんでした。
微笑みかける事すら、なさらなかったのです。
そしてあろう事か、額を飾っていた宝石を奪ってしまわれたのです。
宝石は額の一部だった様で、サンパギータは額から血を噴き出し床に倒れてしまいました。
そしてそれからというもの、サンパギータ姫は虚空に瞳を彷徨わすだけの木偶となってしまったのです。
この事で、シヴァンシカ妃の心はさらに幼子から遠く離れていきました。
そしてそのまま不幸な一年が過ぎた頃、妃はお腹に念願の子を宿しました。
生まれた赤ん坊は美しい女の子で、ファティマ姫と名付けられました。
それからの十年は想像も容易いかと……。
*
クスクスと笑い声が上がる中、わたしはサンパギータの手を引いて、震える足で宮殿の廻廊を進んでおりました。
廻廊の先ではわたくしとサンパギータを呼びつけた、ファティマ姫とその取り巻きの娘達が待ち構えていて、山猫のように笑っています。
彼女達が身に纏う豪奢なサリーに施された刺繍ビーズが、ギラギラと光って悪夢のようです。
「サンパギータ、いつ見ても醜い額の傷だこと」
「ファティマ様の地位を盗もうとした罪印だわ」
「奴隷よりも卑しい身分の女に手を引かれて歩くだなんて、なんて恥知らずなんでしょう」
そう罵りながら、奴隷達に運ばせた泥を、彼らの手を使ってわたしとサンパギータへぶつけ、笑い声をあげています。
ファティマ姫は十を数えたばかりの子供ですので、こういう遊びに関して容赦がありません。
息も吐けない程の泥が飛んでくるので、前も見えなくなり惨めに蹲るわたくしの傍らで、サンパギータは立ち尽くしされるがままに頭から泥を滴らせています。
「ちょっと、お前はサンパギータの世話係なのに、ちゃんと庇ってあげないの? サンパギータ、卑しい世話係にすら見捨てられているのね」
ファティマ姫がわたくしを叱り、サンパギータを貶めました。
わたしは慌てて立ち上がり、サンパギータを庇います。
身分の低いわたしは、姫様方に「もうお止しください」とも言えません。
許し無く口をきけば、激しい体罰が待っています。
サンパギータの細い身体を抱きしめて耐えるしかありませんでした。
「何をしているの?」
と、声がして、泥が飛んでくるのが止みました。
「お母様……」
わたしたちから少し離れたところで、ファティマ姫の母君シヴァンシカ妃が顔をしかめておられました。
母の前でこんな事酷い仕打ちをしていらっしゃるというのに、ファティマ姫は花の様に微笑んでいいました。
「サンパギータと卑しい女に、泥で仕置きをしていましたの」
「まぁファティマ……泥だなんて」
シヴァンシカ妃は泥だらけのサンパギータを見て美しい顔をしかめ、仰りました。
「優しいのね。此奴らは泥より汚らわしいのだから、穢れが落ちてちょうど良いではないか。仕置きというなら今度は泥に石も混ぜなさい。廻廊が汚れるのは困りますから、外で思い切りやると良い」
わたしはサンパギータの細い身体に、守る体で縋り付き震えていました。
そこへ、冷たく厳しい声が突き刺さってきます。
「目障りだわ、宮殿にお前達の居場所は無い。さっさと泥を掃除して別邸へ戻りなさい!! 別邸を抜け出した罰も、後で受けさせるように」
わたしは、ファティマ姫に呼ばれて……などと口答え出来る筈もありません。
大人しく廻廊の掃除を始めましたが、床にはいくら拭っても新しい泥が降ってきます。
悪魔のような鳴き方をする娘様方が飽きるまで、泥は床に降り続けるのでした。
サンパギータは、その間もただただ立ち尽くしているだけです。
その姿はいっそ清々しい程で、どれほど泥に汚れていようとも、どこか高貴なのでございました。
わたしは唇を噛んで、床を拭い続けました。
*
日が落ちた頃、ようやく泥だらけのサンパギータを連れて別邸へ戻ると、召使いの長が入り口で丸太の様な腕を組んで通せんぼをしていました。
「こんな時間に、宮殿で何をしていたのだ」
泥を投げた奴隷達に昼下がりの出来事は聞いているでしょうに、彼はわたしへ詰問します。
召使いの長は、サンパギータを憎んでいました。
彼は、別邸で一番大きくて豪華な長の部屋が与えられる事を夢見て、人生の半分以上をその為の努力に費やしていました。
しかしファティマ様がご誕生されて、召使いと奴隷用の別邸の部屋へ移り暮らす事となったサンパギータの為に、別邸で一番良い長の部屋を奪われてしまったのです。
半生をかけた夢を木偶の小娘から鼻先で奪われる気持ちを考えると、なんとも言えない気持ちになります。
彼は悪い人でしょうか?
この宮殿の、何人の人が「そうだ」と頷いてくれるでしょうか?
わたしは平伏して申し開きをしました。
「申し訳ありません、ファティマ姫様から宮殿へ呼ばれその帰りでございます」
「嘘を吐くな、ファティマ姫様が卑しい貴様らを宮殿へ呼ぶなどあり得ぬ」
「……」
「宮殿へ行って何故泥だらけなのだ。盗みを働いていたのではなかろうな」
「滅相もございま……あっ」
着ていたヘレンガのストールを剥がされ、羞恥に身を固くするわたしの前で、召使いの長は目をギラギラさせてストールを調べながら言いました。
「おまえは人以下であろう、豊かな言葉を使うでない」
「申し訳……」
「それだ! 人の言葉を使うな!! 人以下なのであれば、家畜のように鳴くのが筋であろう! おまえと同じ者達は、そうするというのに、何故お前は言葉を巧みに操るのだ、忌々しい!!」
ストールを奪われ露わになった髪を掴まれ、サンパギータの部屋へ引きずられました。
サンパギータは静かにわたしの後をついてきます。
サンパギータがわたしの後についてくるのを知っていて、彼らはわたしを動かします。
一度はラアヒットヒャ様が姫と決めたサンパギータに直接手を下すのを恐れている分だけ、わたしが乱暴に扱われるのでした。
「さあ、おまえらには勿体ない部屋へ消えてしまえ!!」
部屋へ投げ入れられ、わたしは床に伏してしばらく動くことが出来ませんでした。
しかし、戸口でぼんやりと立ったままのサンパギータの為に起き上がり、彼女の手を引いて部屋の外の小さなバルコニーへと向かいました。
バルコニーからは、見せつけるように幾千ものランタンの明かりに浮かび上がる宮殿が見えます。
隅に置かれた雨を溜めた水瓶から水を掬い、サンパギータの顔と身体を綺麗にしてあげなくては。
水瓶の水は底をつきそうでしたが、雨期まで耐えられる分はある事でしょう。
「サンパギータ、お顔を綺麗にしましょうね」
わたしはせっせとサンパギータを綺麗にします。
サンパギータが綺麗になっていけば、今日あった辛い事を拭い去れる様な気がしました。
ぽっかり空虚に開いた大きな宝石のような瞳を覗き込ば、夢心地になれなくもありません。
この美しい瞳を遠慮無く見られる事が、わたしの心を慰めてくれます。
泥を落とした光り輝く髪を梳けば、わたしの心に光が灯るようです。
サンパギータは、わたしの心の慰めだったのです。
サンパギータを寝台に寝かすと、わたしは彼女に物語を語ります。
わたしがこの宮殿につれてこられて、人以下になるまでに聞いた物語や、自分でつくった物語です。
わたしは、わたしという人格を形作った神話や民話を、辛い日々の中で忘れてしまうのが怖かった。
ですから、毎夜サンパギータに聴かせる体で語り続けていたのです。
わたしが自身で語る物語に酔ってしまうからでしょうか、その時ばかりはサンパギータが少しだけ微笑んでいる様に見えるのでした。
わたしはその微笑みに、心が満たされ思わずサンパギータに語りかけます。
「美しいサンパギータ、貴女も何処かのお姫様なのでしょう? 美しすぎて、貴女を取り合う戦争が起こる前にと捨てられたのかしら。それとも、誰か他の姫や妃に嫉妬されて誘拐されたのかしら。貴女を姫とお呼びし敬いたいけれど、シヴァンシカ妃様に禁じられているの……お可哀想に……」
サンパギータは答えません。
その事に、わたしは失望したり苛立ったりしません。
彼女だけが、人以下となったわたしに言葉を語らせてくれるからです。
*
サンパギータが寝息を立て始めると、わたしは自分の身体とサンパギータの衣服を洗う為に、バルコニーから地上へつづく階段を降りて、近くを流れる川へとむかいました。
マングローブの林をゆったりと静かに抜けていくこの川を、皆「ネハ川」と呼び、乾期の時期はこの川の水で生活をしています。
わたしは川を他の人達と使う事が許されておりませんので、こうして夜皆が寝静まり誰もいない頃に衣服を洗濯したり身を清めているのでした。
わたしはまず、水を掬った両手のひらを皿にして、そっと顔を覆います。
夜に咲くホソバマヤプシキの白い花が、咲き乱れておりました。
腰まで水に浸かると、川の緩やかな水流が床掃除をして痛む腰を撫でて慰めてくれました。
月明かりの中、髪と身を清めるのは気分の良いひとときです。
小声で歌を歌っても、誰にも咎められません。
その微かな歌声を聞き付け誰かがやってくる事に、不用心なわたしはちっとも気づいていませんでした。
川沿いに群生しているニッパヤシが大きくしなった音に驚いて振り向くと、背の高い男性が一人、わたしと同じように驚いた顔をして立っていました。
その男性は、一瞬息をするのも忘れてしまう程、美男子でした。
月明かりしか頼りがないので、色は分かりませんがとても綺麗な瞳の持ち主だと遠目からでも分かりました。
わたしは慌てて胸元を腕でかくし、男性へ背を向けて水の中に身体を沈めました。
誰かが川を使う時に、わたしは川を使ってはいけません。
きっと理不尽に罰せられるに違いない。
なんとか逃れられないだろうかと、恐怖から川の深みの方へ必死で進みました。
すると運の悪いことに、思いがけない深さと強い水流に足をとられてしまいました。
わたしは小さく悲鳴を上げて強い水流の中へ引きずり込まれ、川に流されてしまったのです。
しかしすぐに、水の中でもがいていたわたしの身体を、誰かが抱き上げました。
恐らく先ほどの男性でしょう。
わたしは咳き込みながら必死で彼にしがみつきました。
彼はわたしを岸まで運び、自らの腰に巻いていた飾り布でわたしの身体を隠すと、わたしの衣服まで探して持ってきてくださいました。
「大丈夫ですか?」
低く美しい声でした。
わたしはまだ荒い息のまま平伏して、「申し訳ありません」と繰り返しました。
「そんなに怯えないで。私の方こそ、驚かせてすみません。女性がこんな時間に沐浴をされるとは思わなかったので、女神か精霊かと目を奪われてしまいました。異国から来たものですからご容赦ください」
「滅相もございません……助けて頂きありがとうございました」
――――異国から……。では、わたしを罰する事はしないだろう。
わたしはホッとして顔を上げ、彼の顔を正面から見ました。
彼は少し気圧された様子でしたが、美しい瞳でわたしの不躾な視線を堂々とお受け止めになられました。
近くで見る彼の端正な顔は、とても魅力的でした。
これまでに何人の女性が彼に甘い夢を見たのだろうと、刹那的な焦燥に駆られました。
――――けれど、わたしにはもう見れる夢は残されていない。
「……服を着なければいけませんので、失礼致します」
「待って」
わたしが深く頭を下げてその場を離れようとすると、腕をそっと掴まれました。
何かされるのかと身を固くしたわたしに、彼は乞う様に仰りました。
「服を着てから、少しお時間はありませんか? 貴女の名前を教えてください」
「……」
わたしは激しく動揺しました。
なんとか小さく頷いて彼の手から離れると、ニッパヤシの影へ回り敢えて布擦れの音を立てながら着替えました。
男性は川の流れの方を向いて、こちらに背を向けておられました。
わたしは彼の逞しくもスラリとした背を一瞬だけ熱く見つめ、そろりとその場を後にしたのでございます。
*
駆けて駆けて、駆けました。
あの瞳、あの唇、あの低く美しい声を、振り切るように。
部屋へ戻ると、高鳴る胸を押さえつつ、わたしはサンパギータの寝台の横に置かれた長椅子へ横たわり目を閉じました。
遠くで遠雷が聴こえてきます。
とても遠くからくぐもって聴こえる手の届かないその音は、わたしの愛情や喜び、栄光のようです。
水を含んだ重たい風が、窓から一筋流れて行きました。
もうすぐ、雨期になるのでしょう。
遠雷は遠くかき消え、サンパギータが静かな寝息を立てています。
*
それから数日後の事です。異国の男性が一人、宮殿へと招かれました。
その男性は自身を語り部だと言い、一月ほど前からラアヒットヒャ様の領地で噂になっていたそうです。
誰も聞いた事の無い素晴らしい物語を数多流れる様に語り、その語りの巧みさに誰しもが幻惑を見たかのようになる、と。
それを耳にしたラアヒットヒャ様はご興味を持たれ、宮殿の高貴な女性達も彼が美男子だという噂を聞きつけ色めき立ちました。
噂の語り部を招く為、宮殿では宴が開かれる事になったのでございます。