過去が希望に、希望が過去に
「あらっ? タルくん、梓乃ちゃんはどうしたの? 一緒じゃないの?」
試合日当日、俺が入場待機列に入るなり、西浜さんが不思議そうに聞いてきた。
「俺の大学生活は終了しました」
「答えになってないわよ」
俺は西浜さんのツッコミに答える気力も無く、長いため息をついてうなだれる。
「……何があったの?」
西浜さんが心配そうに俺の顔をのぞき込む。俺は事の顛末を説明した。今宮とこの試合も一緒に観戦する約束をしたというところから、俺の失言に怒った姫が強引に今宮の手を引いて連れて行き、それからというもの今宮が大学内で俺の姿を見ても話しかけてこないというところまで。
「その『姫』って子が梓乃ちゃんを強引に連れて行った後、タルくんはどうしたの?」
「しばらく呆然として、お詫びの品を買いに行こうとしたら派手に転んで、自分が情けなくなってそのまま帰りました」
「バーカーねー!」
西浜さんは頭を抱えて天を仰ぐ。
「梓乃ちゃんも連れて行かれる時に戸惑っていたんでしょう!? それなら梓乃ちゃんが帰ってくるまで待つのが普通じゃない! それで梓乃ちゃんが帰ってきた時に一言フォローしてあげれば、梓乃ちゃんも安心するでしょ!? 自分だけさっさと帰ったなんて、そりゃ梓乃ちゃんも口を利いてくれなくなるわよ!」
西浜さんによる待機列での公開説教。内容がごもっとも過ぎて自分のふがいなさを思い知らされると同時に、周囲からの視線も集中しており、俺はひたすらうつむいて聞くことしか出来なかった。
「もう、先週タルくんが梓乃ちゃんをエスコートする姿を見た時『タルくんもやれば出来る』って思って、私ものすごく嬉しかったのに……」
西浜さんの言葉が胸に突き刺さる。そして、西浜さんの優しさがグンと胸に迫った。それだけに自分が情けなさすぎる。
「梓乃ちゃん、スタジアムに来ているんでしょ? 席を確保したら探しに行ってらっしゃい」
「はい……」
今宮に会って話がしたいが、怖くて会いたくない。何とも矛盾した思いを抱え、開門時刻は刻一刻と近づいていった。
◆◆◆
私が先週初めてサッカー観戦に来た時と同じ、よく晴れた空。篠沢さんに買ってもらったタオルマフラーを今日も首元に巻いているけど正直ちょっと暑い。
「今宮さん、お待たせー!」
待機列近くのベンチにいる私のもとへ、優先入場して席を確保した姫さんが小走りでやって来た。色素の薄いふわふわのロングヘア、紫に黄緑のラインが入ったユニフォームに紫のフレアスカート、紫のショートブーツという出で立ちの姫さんは、同じユニフォームを着ている人達の中でもひときわ目立っていた。
「待たせて、ごめんね、良い席、取れたから……」
姫さんは私の隣に座ると、荒くなった呼吸を整えようとする。しかし、なかなか呼吸が落ち着かない。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫、ごめんね……」
しばらく経ってようやく落ち着き、姫さんはふーっと大きく息を吐いた。
「そういえば私、今の今まで自己紹介していなかったね。私、加賀野莉璃。よろしくねっ」
「今宮梓乃です。こちらこそよろしくお願いします」
「あずのん、だね」
姫さんにいきなりあだ名で呼ばれた――。大学でも限られた人しか姫さんからあだ名で呼ばれていないらしいのに、私があだ名で呼ばれて良いのだろうか。私が固まっていると、姫さんは不思議そうな顔をした。
「あずのんもそうだけど、ずっと私に対して緊張していない?」
もちろん緊張している。なぜなら学年トップグループの姫さんが今、地味で友達のいない私と向かい合って話をしているから。でもどう説明して良いのか分からず、私はそのまま固まっていた。すると姫さんは私の手を握ってニコッと笑う。
「私達、同じ大学で同じ学年で、そして同じ花峰サポーター仲間でしょ? それなら緊張する必要なんて全然無いよ! だって仲間なんだから」
仲間――。先週も篠沢さんから言われたけど、やっぱりこの言葉を聞くと胸にグッと来る。私がどんなに欲しても、高校卒業まで結局無縁だったこの言葉。それが今、こうして私に投げかけられている。
「あ、ありがとうございますっ!」
私が深々とお辞儀をすると、姫さんは手をひらひらさせて苦笑いをした。
「そんなにかしこまらなくて良いよ~。それに敬語も~」
「で、でも私、どうしても敬語を使ってしまうんです。姫さんに粗相のないようにしたくて」
その瞬間、高校のクラスメートの顔が脳裏をよぎり、私は思わず姫さんから目をそらす。私をあざ笑うクラスメートの歪んだ顔。何でこんな時にこんな場面を思い出してしまうのか。私は目をそらしたまま、姫さんの方へ視線を戻すことが出来なかった。
「あずのんって、きっとものすごく優しい人だよね」
思わずハッとして姫さんを見てしまう。姫さんは笑顔だったが、その顔には少し憂いも含んでいた。
「あずのん、今一瞬辛そうな表情をしたけど、何があったのか私には分からない。でも、初対面で強引にメインスタンドに誘った私にもすごく気を遣ってくれるあずのんは、きっと、ううん絶対優しい人だよね。私には分かるよ」
姫さんはすっくと立ち上がり、太陽のような笑顔を私に向けた。
「だから、今日をめいっぱい楽しもうよ! もうそろそろ一般チケットの入場時間だよ、行こっ!」
姫さんは私に手を差し伸べ、私はおそるおそるその手を握る。姫さんのあたたかな気持ちが直接伝わってきて、私は泣きそうになった。
◆◆◆
今宮を探して三千里。というのは盛りすぎだが、とにかく今宮が見つからない。
今日のヴェレジーク船岩戦は、先週の桑穂エレクレール戦よりキックオフ時刻が二時間遅く、現在午後二時四十五分。いくら今宮が大食漢とはいえ、さすがに今の時間はスタグルエリアにはいないだろう。ということで、マスコットショーが行われるステージや、その他ブースをくまなく探したが、今宮の姿も姫の姿も無い。
今宮に会って、この前の一件を謝りたい。姫にもメインスタンドを馬鹿にしてしまったことを詫びたい。しかし、二人は一向に見つからず、モヤモヤした気持ちは増すばかりで焦りも募る。ゴール裏の席を確保した時にコールリーダーのハチローさんから言われた「彼女は『ゴール裏の希望』なんだから絶対連れ戻してきて」という言葉が頭から離れない。
「むぎやスタジアム」と書かれたスタジアムの正面入口で膝に手をついてうなだれていると、若いカップルが正面入口を背景に写真を撮っていた。カップルの幸せキラキラな写真に、ゾンビのような疲れ顔の地味男が映り込んでしまってはあまりに申し訳ないので、俺は沈んだ気持ちのままその場を離れた。
◆◆◆
「あずのん、そんなに食べて大丈夫なの……?」
スタグルエリア横のテーブルでチョコバナナクレープを食べ終えた私を、姫さんは引きつった顔でまじまじと見ている。姫さんの手には食べかけのイチゴカスタードクレープがあり、あまり食が進んでいないようだ。
「姫さんこそ大丈夫ですか……? 食欲無いみたいですけど」
「あずのんがクレープ三個目に突入したのを見ただけでお腹いっぱい、かな……」
姫さんはそう言いつつ、イチゴカスタードクレープをはむはむと食べる。姫さんが食べ終わると、私達はメインスタンドに戻ることにした。
スタジアム前の広場は先週と変わらず賑やかで、仲間同士話に花を咲かせる人達や知り合いと会って挨拶をする人達がそこかしこにいる。共通しているのは、みんな笑顔だということ。行き交う人がみんな楽しそうな表情をしているのだ。今まで私を取り巻いていた環境は笑顔とは無縁だったから、すごく新鮮な感動を覚える。
そして、姫さんが着ているユニフォームの背中が目に留まる。白字で大きく「5」と背番号が入っており、下には「HOTA」と書かれていた。
「ほた?」
私が思わず口に出してしまうと姫さんは立ち止まり、私に背中を見せてきた。
「私の推し選手、笠木法太選手だよっ。ほうちゃん、今日もスタメンだからよく見てみてね」
「推し……」
「そう! どんなに背が高いフォワードとの競り合いにも勝っちゃうの! やんちゃそうな笑顔もかわいくて、何より熱い気持ちで戦うところがカッコいいんだよ! 時々熱くなりすぎることもあるけどね」
笠木選手について話す姫さんの目はひときわ輝いていた。好きな人の良いところを嬉しそうに語るその姿は、見ているだけで私も嬉しくなる。姫さんのキラキラした輝きが私にも宿ったかのように、自然と胸が高鳴った。
「そういえば、あずのんは推し選手、いるの?」
急に私に振られ、ハッと我に返る。
「私、まだ選手のことはよく分からないんです……。篠沢さんが笹岡選手と笠木選手のことを教えてくれて、私も自主的に勉強はしたのですが、いまいちピンと来なくて……」
「あ、篠沢くんがほうちゃんの紹介をしていた時に、私が思わず遮っちゃったからね。ゴメンゴメン」
姫さんは頭に手を当てて、ばつが悪そうに笑う。
「まあでも、試合観戦を重ねていくうちに選手のことは自然と覚えられるよ。あずのんも背番号入りのユニフォームを買いたくなるような推し選手が見つかると良いね」
「ありがとうございますっ。ちなみに推し選手ってどう決めれば良いのでしょうか? 活躍している選手とか……、あとは直感とか?」
「それはもう人それぞれだね。プレーが好き、人柄が好き、顔が好き、直感、色々だよ。ちなみに私は――」
姫さんは急に視線をそらし、表情を曇らせる。姫さんの気に障るようなことを言ってしまったのか、今の質問は愚問だったか、私はパニックになった。姫さんは言おうかどうしようか考えていたようだったが、意を決してこう切り出した。
「ほうちゃんを推そうと決めたのはね、私が入院している時だったんだ」
「え……」
私が言葉を失っていると、姫さんは辛そうにうつむいたまま、ぎゅっと握った拳を自分の胸に当てる。
「私ね、生まれつき身体が弱くて、数年前まで入退院を繰り返していたの。当時の私は暗い性格だったから、友達も全然いなくてすごく寂しかった。でも毎年、小児科病棟にフォレザン花峰の選手が訪問してくれて、一緒にミニゲームをしたりサインをもらったりして、それがすごく嬉しかったの」
姫さんは憂いを含んだ表情のまま、ふっと笑みを見せる。
「最初は知らないお兄さんばかりで怖かったけど、みんなすごく優しくてね。一人でいた私に声をかけてくれて『俺も頑張るから、一緒に頑張ろう』って言ってくれた選手がいたの。今はもう他のクラブに行っちゃった選手だけどね。私はあまり走れないから、試合中継を見る時はその選手がピッチを走る姿に自分を重ねて、一緒に走っているような気になっていたの。辛い治療の時も、ピッチで走る選手の姿と、私にかけてくれた言葉を思い出して『私も一緒に頑張る』って自分に言い聞かせていたんだよ。そして病気がだいぶ良くなって、最後の退院が決まった年の訪問で来てくれたのが、その年大卒でフォレザン花峰に加入したほうちゃんだったんだ」
伏し目がちだった姫さんの目に輝きが再び宿った。
「看護師さんが私の退院が決まったことをほうちゃんに伝えたら『よく頑張ったね』って言ってくれたの。私、本当に報われた気がして、その時からずっと私はほうちゃん推し。もちろん、最初に私に話しかけてくれた選手も応援しているけどね。二人ともフォレザン花峰では背番号が五番だから、私にとっては奇跡みたいに思えるんだ。二人には本当に感謝しきれないし、歌い跳ねて応援は出来ないけれど、これからも全力で応援して出来る限り恩返ししていくつもり」
そう言い終わると、姫さんは急にハッとして照れ笑いを浮かべた。
「あーもう、急にこんな話をしちゃってゴメンね。もうすぐピッチ内アップが始まる時間だよね、急がなきゃ!」
メインスタンドに戻ろうとする姫さんの手を、私はとっさに包み込むように握る。
「あ、あずのん……!?」
姫さんは戸惑うが、私はその手を離さなかった。姫さんと真正面から向き合い、姫さんの大きな目をまっすぐ見つめる。とっさのことでも、自分の行動に迷いはない。
「『素敵』とか『感動』という言葉では片付けられないほど、姫さんにとっては辛いことも沢山あったと思います。でも、姫さんが今こうして元気でいてくれて、私はすごく嬉しいです。私だけでなく、元気になった姫さんを見て二人の選手も絶対喜んでいると思います!」
辛気臭い言葉を姫さんは嫌がるかもしれない。でも、これが私の本心だ。
私が両手で包んでいた姫さんの手は、ゆっくりと私の両手を包む。そして姫さんは少し首をかしげて、ぱあっと花が咲いたような笑顔を見せた。
「あずのん、ありがとう……!」
姫さんのシンプルな感謝の言葉。それだけで姫さんの思いがぐんと伝わってくる。
姫さんの目には光るものが見え、つうっと頬を伝っていった。
◆◆◆
「スタジアム周回ゾンビ」というあだ名が付きそうなほど死にものぐるいでスタジアムを周回し、今宮と姫を探した俺が最終的に目の当たりにした光景。
メインスタンドの再入場口付近で手をつないで笑い合っている今宮と姫。
ゾンビ顔になってまで探していたとはいえ、ハチローさんからの「『ゴール裏の希望』を連れ戻せ」という命令があったとはいえ、二人のあまりの仲睦まじさに俺は声をかけられないどころか近づくことすら出来ない。二人が放つ聖なるパワーに、浄化消滅させられそうだ。最期に残す言葉があるとすれば、
ゴール裏の希望は、消えた。