篠沢至、最大の危機
女の子とサッカー観戦に行っても、リア充になれた訳ではない。
「暇だ……」
次の授業の大講義室で過ごす、独りぼっちの昼休み。俺や今宮が通う花峰学院大学では、フォレザン花峰が劇的逆転勝利を収めた翌々日も何も変わることなくいつもの日常が続いている。当たり前だけど。
俺の日常も変わることなく、フォレザン花峰の月刊誌「フォルツァ!フォレザン花峰」を今日も読む。四月号はほぼ暗記するくらい読んでしまったので、今日は先月号を持って来た。
そういえば、今日はまだ今宮の姿を見ていない。初めて会った日から試合日の前日まで、大学で何度か姿を見ていた。見かけただけで話はしていないのだが。
今宮はこの長い昼休みをどう過ごしているんだろう。ふと疑問が浮かび、気付けば俺は大講義室を見回して今宮を探していた。俺の何席か後ろにいて本を読んでいた真面目そうな女子が、驚いた表情で俺をまじまじと見ている。性格の悪そうな女子グループが俺を指さして笑っている。一番後ろの席にいるカップルは俺の様子などお構いなしに濃厚ないちゃつきを見せている。ホテル行けホテル。
俺は姿勢を戻して大きくため息をつく。なぜか今宮のことが頭から離れない。恋愛感情ではない、と思う。同年代の女の子と一緒にサッカー観戦に行って浮かれているだけだ。それだけだ。それだけなんだ。
「え〜! 姫にそういうこと言うとか最低〜!」
にわかに大講義室が騒がしくなった。男女混合の大人数グループが大講義室に入ってきたのだ。
「悪い、姫ちゃん! 新発売のキャラメルナッツフラペチーノ奢るから許して!」
「しょうがないなあ、かずっちってば。私がいつも飲んでいる抹茶ラテで良いよ」
「安くなった! 姫ちゃん神かよ!」
姫と呼ばれているふわふわロングヘアでロリータファッションの女子に、髪をワックスで立てたチャラ男が拝むように手を合わせる。心底どうでも良い、でも俺には絶対に辿り着けない世界。話の内容は下らないが、こういう会話ができないと派手グループには加入できない。
この「姫」を中心とした男女混合グループは、新入生の中で特に幅を利かせている。姫本人は誰にでも優しいらしいが、その取り巻きがなかなかに横柄だ。
「まだ講義まで二十分以上あるよ? ここにいる人達、真面目かよ」
「友達いないじゃね?」
「アハハハハ! ウケる!」
取り巻き達は手を叩きながら馬鹿笑いをする。大講義室の空気がピリッと張り詰めた。
「やめなよ、ゆみりん、かずっち、なおたん」
姫がぴしゃりと言うと、取り巻き達は「ごめんごめん」と姫に謝り、途端に静かになる。
皆、姫には頭が上がらないようで、加えて姫にあだ名で呼んでもらえると姫に認められたことになるそうだ。同級生達は姫にあだ名で呼んでもらおうと必死になっているらしい。ちなみにこれは先週俺の隣にいた二人の学生による情報。盗み聞きとも言う。
俺の経験則によると、こういうグループにはあまり近寄らないのが吉だ。下手に近づいても俺みたいなぼっち野郎は気持ち悪がられるだけ。派手キャラの男女混合グループが羨ましくない訳ではないが、何より俺の性格とは決定的に合わない。かずっちが姫にどんな失言をしたのかは知る由も無いが、俺がもし同じ失言をしたら取り巻きから「姫に何言ってんの? 死ね」と言われて終了だろう。身の丈に合わないことはすべきではない。
派手グループは大抵大講義室の中央から後ろの席に座る。俺のように前の席に座ることはまず無いと言い切れ――。
「ねえ、今日はここに座ろ」
そして姫御一行は姫の一声で、最前列にいる俺の真後ろの席を陣取った。
「な、何で……?」
俺は思わず頭を抱える。今から昼休み終了まで、もしくは講義終了まで、派手グループのリア充トークを聞かされなければならなくなる。今週末はどこに遊びに行くだとか、次の合コンはどうするとか、新発売のキャラメルナッツフラペチーノとか、きっとそういう話をするのだ。
我ながら偏見の塊だと思ったが、その見方もあながち間違いではなかった。
「ねえ、今週の土曜日どこ行く~?」
「海見たい!」
「良いね、海! 行こう行こう!」
出た、ここ海なし県の定番の台詞。他県のJリーグクラブのサポーターに聞いたのだが、海がある県の住人が海なし県の住人の「海に行ってきた」という自慢を聞くと、かなり滑稽に思えるらしい。俺達の県に山が当たり前にあるように、他県には海が当たり前にあるのだ。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があるように、どんなに大学内で幅を利かせていても、結局は小さな海なし県の一大学に過ぎない。所詮こいつらはカエルなんだ――とかなり無理矢理自分を納得させた。
「……ざわさん、……のざわさん、篠沢さん!」
いきなり名前を呼ばれ、俺は「ホア!」と素っ頓狂な声を上げる。驚いて前を向くと、目の前に今宮が立っていた。
「何か頷きながら考え事をされていたみたいですけど、大丈夫ですか? 私が呼びかけてもずっと目を閉じて頷いていましたよ」
今宮は眉をひそめて口をへの字にし不服そうだ。というか俺、自分を納得させる過程で頷いていたのか。どこか隠れられる穴をください。
「え、い、いや別に。で、何の用?」
「今週土曜日のフォレザン花峰の試合も一緒に応援したいのですが、篠沢さん的にはどうかなって。私、結構目立ってしまったので……」
顔を赤らめてもじもじとする今宮。何ともいじらしいその姿に、俺は自然と頬が緩んだ。
「もちろん良いに決まっているだろ。今宮はもう花峰サポーターだからな」
我ながらカッコいいことを言えた。今宮は俺の言葉に口を手で抑えて目を見開き、だんだん泣きそうな顔になる。ただ、こんなところで泣かれても困るので、俺は慌てて謎の身振り手振りを交え「ここ大学だから!」と今宮に気付かせた。
「まだ無料券が一枚あるから使ってくれ」
「でも……。今後、篠沢さんがご自身のお友達を招待することだってあると思うので大丈夫です」
「俺に友達がいるように見えるか?」
「それは……」
今宮との間に流れる気まずい沈黙。こういうところがお互い派手グループに入れない要因なのではないかと思う。
「と、とにかく、あるものは使ってくれ」
「ありがとうございます。週末、楽しみにしていますっ」
今宮はぺこっと頭を下げて、俺の目の前から去っていった。一言カッコいいことを言えても、結局は気まずさだけが残ってしまった。先ほどまで散々馬鹿にしていた姫グループのかずっちに、女の子と上手く話す方法を聞き出したくなる。結局、こういうスキルも才能の一つなのかもしれない。
「俺がリア充になれる日はいつなんだ……」
来るかも分からない、というか来ない可能性の高い日を待ち望んでいる自分に失望し、俺は力なく机に突っ伏した。
◆◆◆
……やっぱり。
あの子が読んでいた雑誌のタイトルを目にしてからずっと確かめたかったけど、今日この席に座ったことは正解だった。ようやく大学内に花峰サポ仲間が出来るかもしれない。
でも、みんなにはまだ私の魂がフォレザン花峰色に染まっていることを話せていない。話したら、みんなはどんな顔をするだろうか。こんなに沢山の友達に囲まれていても、大学で気兼ねなく話せる花峰サポ仲間は一人もいない。そしてそんなサポ仲間を私は心の底から欲している。
「えー! また土曜日に用事あるの? 毎週用事があるみたいだけど、何なのー気になるー!」
本当は用事ではない。私は「戦い」に行くのだから。
◆◆◆
今日の講義が全て終わり、俺は特にサークル活動をすることもなく大学の校舎を出る。構内は夕暮れのオレンジ色に染まり、少しだけ切ない気持ちになる。
「早く週末にならんかな……」
そう呟いても今日は月曜日、明日が土曜日になる訳ではない。俺は何だか虚しくなり、そのまま大学の敷地を出ようとした。
「しーのーざーわーさああああん!」
背後から聞こえてきた甲高い大声がみるみる近くなり、俺が振り返った瞬間やわらかい何かとものすごい勢いでぶつかった。俺がよろけつつ足元を見ると、今宮が地面に倒れ込んでいた。
「ブレーキが故障していました……」
俺に対して物理的にアタックしてきた今宮に手を差し出すと、今宮はその手を取ってすぐに立ち上がった。
「あの! 今時間ありますか!? フォレザン花峰の選手について教えてください! 私全然分からないので!」
物理的アタックの勢いそのままに、今宮は俺の眼前に食いつくように迫ってきた。まずは心のブレーキを何とかしろ。
「分かった! 分かったから! とにかくラウンジに移動するぞ! 近い近い近い!」
周囲からの視線が痛い。俺が両手で今宮の顔を遮ると、今宮はハッと我に返り引き下がった。
「すみません……。次の試合も行かせていただくことになったとはいえ、フォレザン花峰の選手について何も知らないことに気付いて……今篠沢さんの姿を見かけたので、つい……」
仲良くなった異性を見かけるとつい体当たりしたくなる女の子って何だよ。気持ちが高ぶると見境の無い今宮は本当に危なっかしい。俺だから良いけど、もし危ない男に引っかかったらどうなることか。「もしも」のことがあったら守りきれないぞ。いや、そもそも俺はカッコ悪い男だから女の子を守るなんて大層なことは出来ないか――。
「い、行くぞ」
しゅんとする今宮の返事も聞かず、俺は心に渦巻く考えを振り払うべくラウンジに向かって歩き出す。しばらくしてトコトコと俺の後ろをついて来た今宮を見て、俺は自分で情けなくなるくらい安堵した。
◆◆◆
図書館の隣にあるラウンジには丸い机と椅子がいくつも置かれている。外はそろそろ暗くなり始める時間帯だが、ラウンジ内は照明で明るく照らされ開放的な雰囲気だ。人はまばらで、皆構内のコンビニやカフェで買ってきた食べ物や飲み物を持ち込んでいた。ただ俺は節約のためラウンジ内にある自動販売機で缶コーヒーを買い、窓際の席に座る。向かい合わせで座った今宮はマイボトルを取り出し一口飲んだ。何ともリーズナブルな二人だ。
「それで、どの選手のことを知りたいんだ?」
「全員です!」
早押しクイズのような即答。
「フォレザン花峰の選手、全員教えてくださいっ。全員の顔と名前とポジションを覚えないといけないんですよね?」
食い気味で聞いてくる今宮をまあまあと制し、俺はスマートフォンを取り出す。
「今三十一人が在籍しているけど、今ここで全員覚えるつもりか?」
「はっ、はい! 頑張ります!」
人数を言った時に今宮は少したじろいだが、強気に言ってのけた。今宮の目はあまりにも真剣で、完全なる花峰サポーターになりたい気持ちが痛いくらいに伝わってくる。
「今宮、最初は全員なんて覚えなくても良いんだぞ。今日はポジションごとの主力選手を一人ずつ教えるから、他の選手は少しずつ覚えていけばいいんだ。俺もサポーターになりたての頃は、花峰の選手は一人も知らなかったからな」
「そ、そうなんですか!?」
今宮は目を丸くし、口を三角にして驚く。
「おう。……じゃあ最初はゴールキーパー、背番号一番笹岡朝基選手な」
俺はスマートフォンでフォレザン花峰の公式サイトの選手一覧ページを開き、笹岡選手のプロフィールを今宮に見せる。
「ゴールキーパーは唯一手を使うことが許されているポジション。その名の通り、ゴールを守って相手に点を入れさせない役割を担っているんだ。笹岡選手は二年前に花峰に加入してからずっとスタメン起用されている花峰の守護神なんだ」
今宮は目を丸くしたまま、コクコクと頷いた。
「一昨日の試合にも出ていましたよね。対戦相手が蹴ったボールを沢山止めていたような……」
「そう、よく見ていたな! 笹岡選手のおかげで勝てた試合も沢山ある。ゴールキーパーは失点シーンでよくテレビに映される損な役回りのイメージがあるけど、実はチームの勝利を下支えするすごく重要なポジションなんだ。失点をしなければ負けることは無いからな」
「ほおおおお、イメージ変わりました……! しかも笹岡選手、ワイルドでカッコいい……!」
笹岡選手の顔写真をまじまじと見た今宮は目を輝かせ、うっとりと頬を紅潮させる。
「じゃあ次、ディフェンダー背番号五番の笠木法太選手。ディフェンダーはゴールキーパーの前に位置して守備を担うポジションのこと。守備はゴールキーパーだけがやっている訳じゃないんだ。ちなみに笠木選手は背が高いから、守備だけでなく攻撃に顔を出すこともある。すでに今シーズンの試合でヘディングからゴールも決めているぞ」
笠木選手のプロフィール画面を出して解説していると、どこからか女性の振り絞るような声で「ほ、ほうちゃん……?」と聞こえた。その声はさながら幽霊のようで、俺も今宮も思わず辺りを見回す。
「な、何だよ今の」
辺りをぐるりと見ても、俺達に話しかけてきそうな人は見当たらない。俺も今宮も一応窓の外を見たが、それらしき人影も無い。まさか本物の幽霊なのか――?
「い、今、ほうちゃんのこと話していたよね……?」
ふと窓から室内に視線を戻すと、俺の隣に色素の薄いロングヘアでフリフリのロリータファッションに身を包んだ色白の女の子が立っていた。
「ヒエア!」
俺は奇声を上げ、思わず椅子から転げ落ちそうになる。よくよく見ると、そこにはなんと「姫」が立っていた。学年最強の男女混合グループの中心人物、あの「姫」だ。
「ひひひひひ姫……さん!? な、何の用でしょう……!?」
頭が混乱している俺に、姫は頬を膨らませて不満そうだ。くりっとした大きな目が俺を見下ろしている。
「今ほうちゃんの話をしていたよね、って言ったの」
あの派手グループのトップである姫が何で俺に話しかけているんだ? 「ほうちゃん」って笠木法太選手のことか? まさかあの姫がフォレザン花峰のサポーター? 頭でいくつもの疑問が渦を巻き、まともな返事が出来ない。
「え、あ、はい……すみませんごめんなさい……」
ようやく出てきた返事がこれ。俺はもう駄目かもしれない。
「何で謝るのよ。私もその話に混ぜて」
思わず「はい?」という言葉が口をついて出る。しかし、姫は俺の反応などお構いなしに今宮の隣に座る。今宮も目を見開き緊張した様子だった。
「あ、あの、取り巻き……じゃなくて、グループの皆さんは?」
俺がおそるおそる尋ねると、姫は不敵な笑みを見せる。
「用事があるからって言って先に帰ってもらったよ。私、篠沢くんがお昼休みに『フォルツァ!フォレザン花峰』を読んでいたのを見て、ようやく私にも大学にサポ仲間が出来るなあって思ったの。そして今日、篠沢くんと今宮さんが花峰の話をしていたから、これはもう話しかけるしかないって確信したの。それで、さっきちょうど二人がラウンジの方に向かったのが見えたから、みんなと別れてここに来たってわけ」
昼休みに暇つぶしで読んでいたフォレザン花峰の雑誌に、女の子と話せるという効力があったとは。家に帰ったら雑誌を神棚に祀ろうかな。
「二人とも花峰サポなんだね? 今宮さんは最近花峰サポになったみたいだけど」
姫が尋ねると、今宮はものすごい速さでただひたすら頷く。緊張してろくに声も出せないようだ。
「えっと、姫……さんも花峰サポ?」
俺の問いかけに、姫はにっこりと笑って頷いた。
「そうだよっ」
「でもゴール裏では見たことない……よ?」
これだけ目立つ人ならゴール裏にいれば一発で分かるのだが、今まで姫の姿を見たことは一度も無い。
「私、メインスタンドだから」
「あ、何だメインか……」
俺は正直落胆した。むぎやスタジアムの席種の中で、メインスタンドとバックスタンドは座って観戦する席だ。ゴール裏のように歌うことも跳びはねることも無く、熱烈なサポーターはあまりいない印象がある。
「ちょっと、メインだからって馬鹿にしたでしょ。あまり熱心なサポーターじゃないな、って」
険のある姫の声に俺は必死に取り繕おうとしたが、姫は俺の心を完全に見透かしていた。この人の前で嘘はつけない、と直感でそう思った。
「席がどこであっても花峰を応援している人はみんな花峰サポでしょ? 勘違いしているみたいだけど、ゴール裏だけが花峰サポじゃないんだよ?」
姫は口を尖らせて本気で怒っている。学年随一の派手グループのトップに怒られているなんて、これは大学生活終了の危機か?
「今宮さんはこんな考え、持っちゃ駄目だよ。フォレザン花峰を応援する気持ちがあればみんなが花峰サポーターなんだからね」
姫は今宮の方に身体を向けて、今宮の両手を握る。今宮は落ち込む俺を心配そうな目で見つつ「は、はい」と答えて頷くのが精一杯という様子だった。
すると姫は「そうだ!」と何か思いついたように、手をパチンと合わせた。
「今宮さん、次の試合は私と一緒に観ない? チケット無料券があるから、今宮さんに使ってほしいな」
え、ちょっと待て。話が思わぬ方向に進んでしまい、俺はうろたえる。
「で、でも、私は篠沢さんと――」
「花峰サポになりたての今宮さんに、メインスタンドの良さも知ってほしいの。私の連絡先を教えるから、ちょっとこっちに来て」
姫は慌てる俺を一瞥し、強引に今宮の手を引いてラウンジから出て行った。急転直下の出来事に、ぽつんと取り残された俺は呆然とするしかなかった。
何ということだ。女の子と話せるようになり、さらには派手グループの女の子とも話せそうになる寸前で、俺の失言により全てが無に帰した。姫がいつも飲んでいるという抹茶ラテをお詫びに買いに行こうとしたが、立ち上がって歩きだした瞬間に足がもつれて盛大に転んだ。
俺は本当にもう駄目かもしれない。