戦場へと変わるスタジアムにて
「も~う、二人ともどうしたの? 私の姿を見つけても全然こっちに来ないから、嫌われちゃったのかと思ったわ」
西浜さんが取っておいてくれた座席に今宮を連れて行くと、西浜さんは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「すみません。今宮がスタジアムの景色に見惚れていて」
俺はそう答えながら、背負っていたリュックを座席の下の空いたスペースに押し込んでいく。
「あらっ、梓乃ちゃんってば感受性が豊かなのね。私、そういう子大好きよ」
「ありがとうございますっ!」
ぺこっとお辞儀をする今宮に、西浜さんは笑顔でウインクをした。
その時、スタジアム内で流れていた爽やかで軽快な音楽が突如として勇ましい曲調のものへと変わり、音量も格段に上がった。
「サポーターの皆さん!」
スタジアム全体に勢いのある男性の声、スタジアムDJのアナウンスがスピーカーから響き渡る。そして客席にいた人々の一部が一定方向に流れ、一ヶ所に集まっていく。
「我らがフォレザン花峰、選手バスの到着です!」
俺はとっさに今宮の手を取って、人々が集まっている場所に連れて行く。その場所とは観客席の一番端、専用バスでスタジアム入りするフォレザン花峰の選手達を観客席から直接見られるスポットだ。
バスがゆっくりとスタジアムの敷地内に入り完全に停車すると、バスのドアが開いて監督を皮切りにスタッフやスーツ姿の選手が出てくる。
「監督ー!」
「笠木さーん!」
「笹岡ー! 今日も頼むぞー!」
俺達と同じようにバスを出迎えたサポーターが選手に向けて声援を送る。観客席は地面からかなり高くなっているので、サポーター達はバスから降りた選手達を見下ろす格好になり触れることは出来ないが、声はかけられる。試合に向けて精神を集中させている選手が多いが、サポーターからの声援に手を振って応じてくれる選手もいる。
「カッコいい……!」
次々とバスを降りてスタジアムのロッカールームへと入っていくスーツ姿の選手達に、今宮は頬を紅潮させて見惚れている。やがて監督、選手、スタッフが全員バスを降りてロッカールームへと姿を消すと、流れていた音楽は先ほどまでの曲調と音量に戻った。観客席の端に集まっていたサポーター達もそれぞれの場所に戻っていく。
「はあああ、サッカー選手ってスーツも着るんですね……! スラッとしていて本当にカッコいい……!」
自分の席に戻る間、今宮は両手を頬に当ててうっとりしていた。本当にカッコいいのはユニフォームを着ている時だぞ、と言いたかったが、恍惚とした今宮の表情を見ていると今それを言うのは野暮に思えてぐっと我慢した。
席に戻ると、西浜さんがなぜかドヤ顔で俺達を待っていた。
「梓乃ちゃん、選手がウォーミングアップでピッチに出てくるまで、まだ一時間くらいあるわ。それまでスタグルを食べてらっしゃい」
「スタ……グル?」
「スタジアムグルメのことよ。入場する前に見たと思うけど、このスタジアムの周りに屋台がたくさんあったでしょ? あの屋台はここでフォレザン花峰の試合がある時だけ出店しているのよ。珍しい食べ物もたくさんあるから、一度味わってみると良いわよ」
西浜さんは今宮に話しかけているのに、なぜかチラチラと俺の方を見てくる。
「分かりましたっ! ありがとうございます、食べてきます!」
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
俺がリュックから財布を取り出し、今宮をスタグルエリアに連れて行くためその場を離れようとした瞬間、ものすごい力で西浜さんに腕を掴まれ引き留められた。筋肉が盛り上がった西浜さんのたくましい腕が俺の首に回され、半ば羽交い締めのような格好になる。そして、耳元でこう言われた。
「さっき選手バスを見に行こうとして梓乃ちゃんの手を握ったでしょ? 絵に描いたような奥手のタルくんが無意識に女の子の手を握る光景を見られて、私嬉しくって! 梓乃ちゃん、良い子なんだから大切にしなさいよっ」
「な……っ!?」
反論しようとしたが、直後に西浜さんからものすごい力で背中を押されて今宮のもとへ送り出された。思わず振り返ると、西浜さんは投げキッスをしてきたので俺は一瞬で戦意喪失した。
今宮が俺の顔を覗き込む。
「どうしたんですか? 顔、赤いですよ?」
「なななななんでもねーよ!」
恥ずかしさのあまり、スタジアムからいったん外に出てスタグルエリアに到着するまで、今宮の顔は直視できなかった。
◆◆◆
「これ、美味しそう! あ、でもこれも美味しそう! 胃が十個くらいあったら良いのに~! 迷っちゃいます」
今宮がそう言いながら購入したスタグルの数々。屋台の裏手にあるテーブルには、ネギたっぷりの塩ダレがかかった唐揚げ、これでもかというくらい生クリームがたっぷり入ったクレープ、マスコットのレザンくんの形をしたふわふわの人形焼き、肉の脂があふれ出るジューシーなベーコン盛り、食べごたえのあるソース麺に旨味たっぷりのミートソースがかかったトマト焼きそばが並んでいる。これまで何試合かに分けて食べてきた幾つかのスタグルが今、一つの机に大集合している。
「これ……全部食えるのか?」
「はい! 初めてのサッカー観戦で緊張しているのでちょっと少なめにしました」
俺が返事を考えている間に、今宮は「いただきます」と言って何とも幸せそうにスタグルを頬張っていく。今宮、お前自身は気付いていないがきっとお前の胃はすでに十個あるぞ。
俺は次から次へとスタグルをたいらげていく今宮を横目にトマト焼きそば一パックを食べ終え、今宮と一緒に「ごちそうさま」をした。
空になった容器を決められた場所に捨ててスマートフォンで時刻を見ると、そろそろ客席に戻る時間になっていた。今日は天候に恵まれ大勢のサポーターが集まったため、列に並んでスタグルを購入するだけでもかなりの時間がかかってしまった。
「もうすぐアップが始まるから戻ろうぜ」
「はい! ああ、全部美味しかった……。サッカー観戦に来ると、こんなに美味しいものが食べられるんですね……」
今宮は満足そうにふーっと息を吐く。その顔は幸福感に満ちていた。
客席に戻る道中、前方からフォレザン花峰のマスコット、レザンくんとハナミちゃんがやって来た。二人ともニホンカモシカがモチーフで灰色の毛皮にちょこんと立った角、ハナミちゃんは角の間の紫色のリボンがチャームポイント。俺達がスタグルを食べている間にマスコットショーが終わり、二匹はスタジアム内に戻る途中のようだ。
レザンくんもハナミちゃんもサポーターが近づいてくるたびに両手を広げて迎え入れ、写真撮影にも快く応じている。小さな子供が来れば、しゃがんで目線の高さを合わせる。
「かわいいーっ!」
俺が今宮にマスコットの説明をするより先に、今宮は二匹のもとへ突撃していった。レザンくんもハナミちゃんも今宮が首に巻いているマスコット柄のタオルマフラーに気付き、タオルマフラーを指さした後に今宮とハグをした。
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、レンズを今宮の方に向ける。レザンくんとハナミちゃんにぎゅっと挟まれる今宮の、はじける笑顔の写真が撮れた。
今宮は二匹と握手をし、俺も二匹とハイタッチをして別れた。
「かわいすぎますし、何という神対応……! 私、幸せです……!」
興奮した様子の今宮は、しばし胸に手を当てて余韻に浸っていた。俺はスマートフォンに保存された、撮ったばかりの今宮の写真を見る。女の子を撮ることなんて今まで全く無く、そもそも女の子と接触する機会すら無かった。ふと自分の鼓動が速くなっていることに気付き、俺はすぐにスマートフォンの画面を閉じた。
「あ、写真を撮っていただきありがとうございます。後で送ってください」
「お、おう」
そうだ、俺は女の子の連絡先を手に入れているんだった。今宮が初めてづくしのサッカー観戦に心踊らせているように、俺も初めてづくしのエスコートに正直胸が高鳴っている。
しばし歩くと観客席の再入場口に着き、再び俺達は自分の席に戻る。観客席はほぼ埋まっており、西浜さんがニヤニヤしながら俺達を待っていた。
「二人ともおかえりっ。そろそろ選手達が出てくるわよ」
西浜さん含め、俺達の周りのサポーターも立っている人が多い。そうだ、ここは「ゴール裏」。サッカーゴールの真後ろに位置し、選手達に直接声援を送ることが出来る席種だ。今宮はまだ知らないが、ウォーミングアップで選手達が出てきた瞬間、ここの空気は一変する。
右隣にいる今宮を見ると、周囲の雰囲気がだんだん変化していることを感じたのか、不安そうな表情を浮かべている。それもそのはず、今宮が今日ここまで見て感じてきたものは、サッカーの試合の一部に過ぎない。ここからが本番だ。
スタジアムのスピーカーからロック調の音楽が大音量で響き渡る。
「お待たせしました! 我らが守護神達の登場です!」
スタジアムDJのアナウンスと共に、ゴール裏のサポーターも、他の席種のサポーターも立ち上がり、一斉に手を叩く。ウォーミングアップのため、ゴールキーパーの笹岡選手と郷野選手が練習着姿でピッチへと出てきたのだ。
二人はまずメインスタンドのサポーターに一礼し、郷野選手が手のひらサイズのサインボールを観客席へと投げる。そして、俺達のいるゴール裏に向かい再度一礼。二人が頭を上げたのとほぼ同時に、ゴール裏にいるほとんどのサポーターが「ウオォォォイ!」と声を張り上げる。直後、ゴール裏の最前列、最中心部から拡声器で「ササオカァ!」という掛け声がかかった。
「* * * ササオカ! * * * ササオカ!」
拡声器からの掛け声に倣い、ゴール裏のサポーターから手拍子と笹岡選手のコール。俺も西浜さんもいつものように頭の上で手拍子をし、思い切り声を出す。笹岡選手もサインボールを観客席へ投げ、頭の上で手を叩いて俺達のコールに応える。
ほんわかムードから一変したスタジアムの空気。ふと今宮を見ると、何が起きたか分からない様子で前後左右を見回し、目を白黒させていた。笹岡選手のコールが終わったので、今宮に今の状況を説明しようとしたが、直後に「* * * ゴウノ!」と郷野選手のコールが入ってしまったので、可哀想だがそのままにしておいた。
「サーサーオーカーアーサーキー ラララララーラーラー!」
郷野選手のコールが終わると、間髪入れずに笹岡選手のチャント(応援歌)を歌い始める。俺達のいる場所はゴール裏の中心部のため、ほぼ全員が歌いながらその場で跳びはねる。今宮は四方八方の人々が全員歌い跳ねている中で目を見開き口を真一文字に結んで、今の状況を全く飲み込めない様子だった。チャントを歌っている間でも今宮に一声かけたかったが、周囲は跳びはねているし、特に西浜さんがドスの利いた声で全力で歌っているので、話しかけても声がかき消される。チャントが一通り終わった後「こんなはずじゃなかった」と足早に去っていく今宮を一瞬想像してしまった。
笹岡選手のチャントが終わったかと思うと、今度はゴールキーパー以外の選手達が同じくウォーミングアップのためピッチに出てきた。ピッチに並んだ選手達は一礼した後、メインスタンド、バックスタンド、そしてゴール裏、それぞれの席種の近くに散らばり、サインボールを観客席に投げ込んでいく。俺が思わず手を伸ばすと、幸運にも一つのボールが俺の手の中に収まった。
「これ、記念にやるよ」
俺は困りきっている様子の今宮の手を取り、サインボールを渡す。今宮の気弱そうな目に再び光が宿った。
「え、いいんですか?」
「おう。遠慮せずもらってくれ」
俺が恥ずかしくなって頬をかいていると、今宮は受け取ったサインボールを胸の前で大事そうに両手で包み込んだ。
「ありがとうございます」
目を細めて、花が咲いたような笑顔を俺に向ける。俺の顔はカーッと熱くなり、心拍数が急激に上がった。女の子から初めてこんな表情を向けられ、俺も心の中で先ほどの今宮と同じようにうろたえる。
「* * *** フォレザン花峰! * * *** フォレザン花峰!」
ゴール裏のサポーター達から発せられる手拍子とフォレザン花峰コールでハッと我に返った。俺も慌ててコールに加わる。全ての感情を振り払うように、無心でコールをし続けた。
コールを何度か繰り返していると、今宮はサインボールをカバンに入れて両手を空け、遠慮がちに手拍子とコールをし始めた。その後の選手一人一人の個人チャントも、口をぱくぱく動かし体を上下させて必死で周りについていこうとしていた。そんな今宮の姿に俺は少し安堵した。
俺達がいるゴール裏の真反対、もう一つ設置されているサッカーゴールの後ろの観客席は、黄色とオレンジ色のユニフォームを着た桑穂エレクレールサポーターで半分以上が埋まっていた。彼らも桑穂エレクレールのチャントを歌い、ピッチでウォーミングアップをしている桑穂の選手達を鼓舞している。
ウォーミングアップ開始からしばらく経って両チームの選手紹介に入り、花峰のサポーターも桑穂のサポーターもチャントを止める。まず最初に桑穂エレクレールのスターティングメンバー十一人とサブメンバー七人、監督の名前が、女性のアシスタントDJから読み上げられる。相手チームだが聞き馴染みのある名前が多く、今宮も「この選手のお名前、聞いたことがあります」と小声で俺に伝えてきた。それもそのはず、桑穂エレクレールは関西屈指のビッグクラブで日本代表選手が数多く在籍しているからだ。今年、二部リーグに相当するJ2からトップリーグのJ1に昇格してきたとはいえ、その実力は折り紙付き。一昨年に成績不振でJ1からJ2に降格したのだが、クラブ内の体制を一新したところ昨年のJ2リーグにてぶっちぎりで優勝を果たした。一度J2に降格したら、いくら二部リーグとはいえ再度昇格するのは容易ではない。その中で一年でのJ1復帰を果たした桑穂エレクレールは、決して油断ならない強敵だ。
対戦相手の選手紹介が終わると、今度はフォレザン花峰の選手紹介に入る。対戦相手の淡々とした選手紹介とは打って変わり、激しいギターリフが特徴的な洋楽が流れ、スタジアム内の大型ビジョンに「FORISIN HANAMINE STARTING LINEUP」と表示された。そしてクラブカラーの紫と黄緑を基調とした凝ったCGと共に、選手の写真、背番号、名前が一人ずつ映り、スタジアムDJが高らかに背番号と名前を読み上げる。それに続いて、ゴール裏からも各選手のコールをスタジアムに響かせる。
今宮は各選手ごとに違うコールに戸惑いながらも、俺達と同じように手拍子をしたり手を前に突き出したりして、周りに合わせようとしている。周囲のサポーター達が思い切り声を張り上げている中で、わずかながら今宮の声も聞こえた。
花峰の選手紹介も終わり、スタジアムには再び「* * *** フォレザン花峰!」とフォレザン花峰コールが響き渡る。
「** ** * エレークレール!」
反対側のゴール裏からは、フォレザン花峰コールをかき消さんとばかりに桑穂エレクレールコールが聞こえてきた。スタジアム内でぶつかり合う両チームのコール。ウォーミングアップをしていた選手達も、試合開始前の正式な入場のためにいったん全員ロッカールームへと戻っていく。スタジアムの空気はピリピリと張り詰め、いよいよ試合開始が近づいてきたと肌で実感する。
花峰コールが終わったタイミングで、「お疲れ様です!」とゴール裏に拡声器で若い男性の声が響いた。声の主は、ゴール裏のサポーター達が同じタイミングで同じチャントやコールを出来るようにリードしている「コールリーダー」のハチローさんだ。風にたなびく紫色のマフラーが印象的なハチローさんは、ゴール裏の最前列、最中心部の席の前に置かれた小さな脚立の上に立ち、トランジスタメガホンを持ってゴール裏を見渡しながら声を張り上げる。
「桑穂エレクレール、昇格組とはいえ正直めちゃくちゃ強いです! でも、相手が強いからって諦めるような人はここにはいないですよねぇ! 相手がビッグクラブだろうと、日本代表が大勢いようと関係ありません! 俺達が全力で歌って、全力で選手の背中を後押しすれば絶対勝てます! 九十分間歌い跳ねるのはきついかもしれませんがそれは選手達も同じです! 試合終了まで選手と共に戦って、今日こそ絶対勝ちましょう!」
ハチローさんがゴール裏を鼓舞し、ゴール裏のサポーター達は一斉に「ウオォォォイ!」と雄叫びを上げる。先ほどまでの穏やかな空気など今のむぎやスタジアムには無く、まさに戦場の緊張感に満ちている。
「大丈夫か?」
俺は右隣の今宮に声をかける。今宮は真剣な表情でまっすぐ俺の目を見た。
「大丈夫です。……いよいよ、試合が始まるんですね」
「ああ」
今宮の目には恐怖の色も困惑の色も無かった。もちろん緊張はしているようだが、まるで戦地に赴く戦士のような、驚くほど力強い眼差しをしている。先ほどの泣きそうな顔が嘘のようだ。
「相手はかなり強いみたいですけど、ここにいる人達は絶対に諦めないんですね。それなら、私も絶対に諦めません。……皆さんの仲間になりたいから」
ハチローさんの言葉を真正面から受け止めた純粋な今宮に、俺は胸がすく思いがした。そして、「仲間になりたいから」と言った時に一瞬だけ見せた今宮の寂しげな表情の意味は、今の俺には知る由も無かった。