無垢なあの子をサッカー色に
よく眠れないまま試合日を迎えてしまった。
女の子相手にカッコつけて誘ったホームゲーム、桑穂エレクレール戦。桑穂エレクレールは今年J2からJ1に復帰したということもあってか、俺達のホームスタジアムである「むぎやスタジアム」周辺には桑穂サポーターが大勢来ていた。ちょうど晴天に恵まれ、四月だというのに暑い。
俺は眠い目をこすりながら今宮梓乃との集合場所、スタジアムの入場待機列の近くにある銅像近くに向かう。紫色と黄緑色のフォレザン花峰カラーのユニフォーム、または黄色とオレンジ色の桑穂エレクレールカラーのユニフォームを着た人々の中に、ひときわ地味な装いの今宮がいた。大学で初めて会った時とあまり変わらない、パーカーにジーパンの出で立ち。髪はゆるい三つ編みのおさげ。そして不安そうにきょろきょろと辺りを見回している。
「悪い悪い。遅くなった」
俺がそう言って近づくと、今宮の顔がパァァァと明るくなった。まるで子供のような無垢な表情に俺は一瞬たじろいだが、気を取り直して言うべきことを言う。
「今日は来てくれてありがとな。俺、誰かをサッカーに誘うのは初めてだから色々不手際があるかもしれないけど、楽しんでいってくれ」
急にかしこまって言うのは恥ずかしいが、今宮の反応を楽しもうと誘ってしまった俺が悪い。今宮に楽しんでもらうことがせめてもの罪滅ぼしだ。
「こっ、こちらこそお誘いいただき、ありがとうございますっ」
俺がかしこまってしまったせいか、今宮もピッと背筋を伸ばして深々と頭を下げる。
「私、スポーツ観戦自体が初めてなので色々至らぬ点があるかと思いますが、足手まといにならぬよう気を付けますので、何卒よろしくお願いします……!」
深々と、どころか九十度以上に頭を下げられる。知らない人が見れば不穏な空気が漂う光景だ。
「ちょ、今宮、頭上げろって! これじゃまるで……」
「私の感謝の気持ちですっ」
埒が明かないので、今宮の上体を無理やり起こさせる。顔を上げた今宮は、焦る俺を前にきょとんとしていた。
「た、待機列に行くぞ!」
俺は今宮の返事も聞かず、入場待機列の方へ歩き出す。少し歩いてから後ろを振り返ると、今宮は辺りを目新しそうに見回しながら、俺の後ろを付いてきていた。
待機列に着き、事前にサポーター仲間が場所取りをしていてくれた区画に入る。その仲間はすでにその区画に並んでいた。
「あらっタルくん、ついに彼女が出来たの!? 嬉しいわぁ」
俺と今宮を見るなり顔をほころばせる、やたらガタイの良い三十代男性。スタジアムでいつも一緒に応援している、サポーター仲間の西浜さんだ。
「彼女じゃないですよ。大学の同級生です」
「そうなのぉ? タルくんもついに大学デビューしてリア充になったのかと思ったわぁ」
俺の心の傷がズキッと痛む。しかし、西浜さんはそんなことを知る由もなく今宮の方を向く。
「お名前、教えてくれるかしら?」
独特過ぎる口調で、しなを付けて今宮を覗き込む。そんな西浜さんに今宮はドン引きしている、かと思いきや。
「今宮梓乃です! どうぞよろしくお願いしますっ!」
満面の笑みで返事をする今宮。
「可愛いお名前ね! 私、西浜成雄よ。よろしくねっ!」
「はいっ!」
変わり者同士何か惹かれ合うものでもあったのか、スタジアムへの入場開始時刻になるまで今宮と西浜さんはずっと楽しそうに話をしていた。その中で今宮がサッカー観戦に来る経緯を説明し、俺が大学デビューに失敗したこともバレた。俺が盛大にスベった自己紹介の場に今宮は居なかったそうだが、人づてに聞いたらしい。穴があったら入りたい。
鬱々とした気持ちになっていたが、スタジアムへの入場開始時刻になり待機列が動き始める。
「タルくん、そういえば梓乃ちゃんはシーズンシート会員じゃないわよね?」
そうだった、すっかり忘れていた。今宮が首を傾げたので説明をする。俺も西浜さんも、スタジアムに足繁く通うほとんどのサポーターは「シーズンシート」という、いわば年間パスポートのようなチケットを事前に購入しているということ。そしてシーズンシート会員は一般のチケットを持っている人より十五分早く入場できるということ。今宮が持っている電子チケット(俺が譲った無料招待券)は一般チケットに振り分けられるので、俺や西浜さんのようなシーズンシート会員と一緒に入場は出来ないということ。それを俺が忘れて、シーズンシート会員優先待機列に今宮も一緒に並ばせてしまったということ。
「私がタルくんと梓乃ちゃんの席も取っておくから、一般開門時刻まで一緒にどこかで待っているといいわ」
「そうします。よろしくお願いします」
西浜さんは「任せて!」と親指をグッと立ててウインクをする。俺と今宮は待機列を離れ、スタジアム外の木陰に入った。
「悪いな、バタバタしちゃって」
「全然そんなことないです! 西浜さん、すごく良い人ですね」
「お、おう」
今宮が目をきらきらと輝かせるので、俺は中途半端な返事しか出来なかった。
「そういえば、篠沢さんに聞きたいことがあるんですけど」
今宮は視線を落として物憂げな表情になる。なんだなんだ、また大学デビュー失敗の話か?
「篠沢さんが着ているTシャツに書いてある『むぎや』って何ですか?」
今宮の視線は、単に俺が着ているフォレザン花峰のユニフォームの胸部分に向けられているだけだった。確かに紫と黄緑のユニフォームの胸部分に大きく白字で「むぎや」と書いてあるから、目立つことは間違いない。
「ああ、これのこと? 『むぎや』っていうのは県内の企業で、フォレザン花峰のスポンサーだよ。ほら、背中に『花峰中央銀行』とか、袖にも『ドラッグストア・ムーン』って企業のロゴが入っているだろ? これ、全部フォレザン花峰のスポンサーなんだ。選手達も俺達サポーターも、フォレザン花峰のために出資してくれるスポンサーのロゴを背負って戦っているんだ」
今宮は目を大きく見開いてコクコクと頷く。理解してくれているのかどうかは微妙だが、そもそもサッカー初観戦の人にスポンサーがどうとか理解を求めるのは無理があるのかもしれない。
「サポーターって、さっき西浜さんも言っていたシーズンシート会員のことですか?」
「いや、サポーターっていうのは特定のクラブを一生懸命応援している人、という意味だよ。シーズンシート会員じゃなくてもサポーターは沢山いる。例えば県外に住んでいてなかなか試合に来られないけどフォレザン花峰を応援している人、とかな。今宮だって今日の試合で花峰を応援してくれれば立派な花峰サポーターだぞ」
「私も花峰サポーター……! 何だかわくわくしてきました……!」
今宮は再び目を輝かせた。眩しいほど純真だ。
「……あ、そうだ。今宮、ちょっとついて来て」
思い出したことがあったので、木陰を離れてとあるブースに今宮を連れて行く。場当たり的で段取りが悪すぎるが、まだ一般開門時刻まで時間はある。両チームのサポーターはスタジアムに入場しているか待機列に並んでいる人がほとんどだったので、ブースに着くまでの道のりはかなり空いていた。
目的のブースとは、フォレザン花峰のありとあらゆるグッズが販売されているグッズ販売ブースだ。試合の応援に必要なアイテムからアクセサリーや生活雑貨、文房具まで揃っている。
「応援の時にタオルマフラーが必要だし、せっかく試合に来てくれたんだから一枚買ってやるよ。どれでも好きなものを選んでくれ」
タオルマフラーは種類が豊富で、色こそフォレザン花峰のクラブカラーである紫と黄緑で統一されているが、クラブロゴが入ったポピュラーなもの、選手やマスコットキャラクターの名前が入ったもの、地元の特産品のイラストが入ったものまである。
「えっ、良いんですか!? 嬉しい~!」
まるでおもちゃ売り場に来た子供のように、今宮ははしゃいだ様子で「どれも可愛くて迷っちゃう」とタオルマフラーの品定めをする。しばらく悩んだ後「これに決めました!」と一枚のタオルマフラーを手に取って俺に見せてきた。フォレザン花峰のマスコットキャラクターであるカモシカの「レザンくん」と「ハナミちゃん」のイラストが入ったタオルマフラーだった。
俺が支払いを終えると、今宮は早速タオルマフラーを首に巻く。
「これで少しだけ皆さんの仲間になれたようで嬉しいです!」
今宮は腰に手を当てて胸を張り、誇らしげな表情を俺に見せる。確かに、グッズを身に付けるとそれだけで仲間に入れたような気分になる。俺も最初はそうだった。
「そろそろ一般開門時刻だ。戻ろうぜ」
「はいっ!」
俺と今宮は先ほどまでいた待機列――正確には先程まで並んでいた待機列の隣にある一般チケット待機列――の最後尾に一緒に並ぶ。俺はシーズンシートを持っているので一般チケット待機列に並ばくても良いのだが、今宮が持っているのは一般チケットのため、初観戦の女の子を一人で並ばせるのも可哀想だと思ったのだ。
よく晴れているためか、一般チケット待機列にもそこそこ人が並んでいる。待機列が動き始めて入場するまでしばらくかかった。俺はシーズンシートの会員証を読み取り機にタッチし、今宮は電子チケットのためスマートフォンのQRコードを読み込んでもらう。入場の手続きを終えて、その先にある階段を上りきると客席の最上階に着いて視界が開け、むぎやスタジアム全体が見渡せるようになる。
客席の中央、前から三番目の席で「ここよー!」と笑顔で手を振る西浜さんはすぐに見つかった。俺はすぐその席に向かおうとしたが、今宮はその場を動かなかった。
「今宮?」
俺が今宮の顔を覗き込んでも、今宮は動こうとしない。
「……綺麗」
今宮の口からぽろっと出た言葉を聞いて、俺も今宮の視線の方向を向く。綺麗もなにも、視線の先にはむぎやスタジアムが広がっているだけだ。
「綺麗……か?」
「はい、綺麗です。青々とした芝生も、オレンジ色の陸上トラックも、ここから見える山々も、全部全部綺麗です」
今宮は心奪われたように、むぎやスタジアムの景色に見入ったまま答える。
「花峰市にこんなに素敵な場所があったなんて」
むぎやスタジアムは球技専用スタジアムではなく、陸上競技場だ。サッカーの試合を行う芝生、いわゆるピッチの周りに陸上トラックがある分ピッチが客席から遠く、観客にしてみれば臨場感は球技専用スタジアムより薄れる。サッカーのサポーターとしては、やはり球技専用スタジアムの方が臨場感も味わえるし、応援の声も選手達により届く気がする。県では球技専用スタジアムの建設の話もあり、署名活動も行ったがまだ建設決定には至っておらず、花峰サポーターとしては陸上競技場で試合を行うことに歯がゆさもある。
しかし、今宮はその景色に見惚れていた。サッカーに関してはまだ何も知らない純真無垢な目はさらに輝いている。
そして俺は正直戸惑った。この汚れなき女の子をこれから始まる死闘に巻き込んで良いのか。
なぜならこの席種は試合が始まると、どんなに温和な人々の気質も一瞬で豹変するエリア、通称「ゴール裏」の中心部なのだから。