青い柿は蟹を撲殺できるほど頑固で渋い。
離婚寸前の夫婦仲を何とかして欲しいと教え子に泣きつかれた。
教師生活125日目の童貞相手にとんだ無茶振りである。
博士課程一年目で諸々の壁にぶつかり展望もなく大学院を辞めたロクデナシを拾ってくれた恩義はあるが、名目上は産休代理で一年契約の身でもある。来年度以降の人生設計さえままならない自分が果たして勝ち組夫婦を正攻法で説得できるかと言われれば、もちろん否である。
「だからといって『娘さんと結婚を前提に交際させていただいている』とは、やりすぎではないかな」
「クビになるなら試用期間中の方が傷も少ないかなと思いまして」
せめて娘が自立するまではと仮面を被った夫婦生活。
よりを戻すことは不可能でも子を想う気持ちに偽りはなく、娘の尻を鷲掴みにしながら挨拶してきた屑教師に対して彼らは驚くほど息の合った動きで天誅を下し娘を救出した。
全治一週間。
幸か不幸か警察沙汰は回避し入院せずに済んだのだが、諸々の事情もあって学年主任の山部先生より「季節外れのインフルエンザに罹患した」ということになった。なお素人役者の狂言芝居にどれだけ効果があったのか甚だ不安だったが、冷めきった夫婦仲が再び燃え上がる程度には火力があったらしい。両目にそれぞれ大きさの異なる拳痕がパンダ柄を描いた己の顔を見て、謝罪に来た筈の御両親が笑い転げていたのはまあ余談と言える。
【君が、セピア色になる前に #1】
本来教師というのは殺人的な忙しさに追われるものである。
実際、最初の三か月くらいは勉強会だの報告会だのに出席したし交流会という名の飲み会への参加も強要されたりもしたのだが。教え子の家庭問題に取り組む前後でそういう面倒くさいイベントに声が掛からなくなった。
「……職場内いじめって奴ですかね?」
『君のアパートに1-Cの柿本さんが逃げ込んで相談した際、御両親に取り入ろうとしていた【匿名希望反社会的宗教団体】の人達にしたことが伝わったんじゃないかな』
携帯端末に表示される山部学年主任のメッセージはなかなか容赦がない。
だって仕方がないじゃないか。
家庭崩壊寸前の資産家夫婦なんて、詐欺師にとってみれば暗証番号を油性ペンで直書きしたキャッシュカードみたいなものだ。解雇前提で動いていたとはいえ、教師としては教え子にそれとわかる不幸が迫ることを許容することは出来ない。特に今回の連中は学生時代に先輩二人を性犯罪者にでっち上げて自主退学に追い込んだ団体の残党であり、事情を説明したら当時をよく知る卒業生や在校生が全力で手を貸してくれた。
あ、教職員の関係者に彼等のシンパがいたんですか。
御愁傷さまです。容赦もしねえが。
帳簿類も軒並み確保してるんで、後ろ暗い金のやり取りしてなければ問題ないと思いますよ。などと簡単な世間話を交えた連絡事項を交わしてから自室に視線を向ける。
殺風景な部屋だ。
研究の道を諦める前、ほとんどの私物を処分してしまった。今の仕事も産休代理としての起用なので、長くても来年度中には出産と最低限の育児を終えた本来の採用者が教壇に立つ予定である……立つよな?
食中毒が怖いので冷蔵庫と電子レンジは買った。が、通販サイトで買い置きしたゼリー飲料とドリンク剤とサプリメントが主食だったので、それら文明の機器すら最低限しか活用した記憶がない。下手に近場のコンビニや飲食店を利用すると教え子やその身内と遭遇する可能性があって、歪で間抜けなパンダ顔を見せようものなら即日全校生徒の晒しものになること必至である。
個人的には既に晒しもの扱いじゃないかとは思うのだけど。
災害時の非常食にと買い置きした物の中に乾麺がある。茹でてもいいが面倒くさいし、そもそもザルさえ買っていなかったことに気付いてしまったので乾麺のままポリポリ食ってやろうか──と考えていたら、呼び鈴が鳴った。
「フジワラ先生、もうゴハン食べました?」
施錠しなかった己も間抜けだが勝手知ったる感じで玄関を開けたのは、黒縁メガネのおとなしそうな少女。
いや、実際におとなしかったら両親の仲を修復するために教師の人生を再起不能にはさせないし、夏休みだからと言って教師の家に押し掛けてくる道理もない。制服姿であれば一発アウトだが、私服姿でも十分すぎるほど事案である。
「柿本ひとみ君」自宅謹慎の原因となった女子生徒の名を口にする「先生の胃袋を気に掛けるよりも、自分のことを大切にしなさい。せっかく仲直りした御両親が悲しむぞ」
「はい。その両親ですが仲が良すぎて逆に居辛いというか」
ブランド柄のエコバッグ片手に玄関先に立つ少女は何故だか頬を赤くしながら視線を逸らす。庶民の住まい付近でも悪目立ちしないように野暮ったい服装を意識しているようだが、元々の素材が素材なので昭和時代の名作映画に出てきそうな良家令嬢といった雰囲気だ。実に惜しい。
「……らぶらぶ、っすか?」
「ギシアンです」
事案じゃねーかよ御両親。
殴られて二日経つけど勢いは止まらないどころか、むしろ娘に気取られないギリギリのところを楽しむプレイに目覚めてしまったとかなんとか。
全部娘さんにバレてるんですけど御両親。
「父も母もすっかり二人目を作る気で」
「お、おう」
「こうなってしまった責任を先生に取っていただきたく、押しかけました。人間やはり一日八時間の睡眠は健康維持に不可欠だと思うので」
こちらの返答を待つことなく、勝手知ったる感じで部屋に上がった柿本君は殺風景な部屋を一瞥し、ここ数か月の主食を積み重ねた箱を確認するとわざとらしい程肩を落として息を吐いた。
「フジワラ先生、わたし言いましたよね。きちんと固形物も買いましょうって。お布団だって無いじゃないですか」
「独り暮らしだし寝袋とか慣れると便利なんだぞー」
修士課程の頃、実験機材の使用スケジュールの都合上どうしても研究室に泊まることが多かった。
急ごしらえの実験棟は絶望的なまでにアンペアが足りておらず、超純水どころか蒸留水すら満足に確保できない。旧式の電気泳動装置すら総動員しなければ間に合わない状況を作り出したのは、半分くらいはスポンサー探しのために年の半分も大学にいない指導教官が原因であり、残る半分は就職先や進路先がギリギリまで決まらずさりとて卒論修論を完成できねば内定諸々すべて御破算となってしまうようなキャリアプランを組み立てた学生本人の自業自得である訳で。
……
……
吹っ切れたつもりではあったが、四か月程度では色々と引きずるものが残ってるようだ。
「フジワラ先生?」
おっと、いかんいかん。
戻れぬ古巣よりも、目の前の十五歳Cカップちゃん(自己申告:虚偽の疑い高し)をどうにか穏便に追い返すことが急務じゃないか。
「確か祖父母が同じ市内に住んでいるんだろ、連絡したのかい」
「それって現状をイチから説明することになる訳ですけど、フジワラ先生とのことも一通り白状しちゃいますよ?」
「かめへん、かめへん。もともと一週間の謹慎で済んだのも奇跡みたいなものだしな」
今回の件に関しては保護者会でも反応が真っ二つに分かれたと山部主任が教えてくれた。
家出少女の保護や家庭問題の解決に尽力したことは評価されたが、解決方法が非常に問題視された。婚約宣言については一部保護者が目を輝かせたものの、尻を鷲掴み下種プレイは懲罰動議寸前までこじれたらしい。おそらく「当初は胸の予定でしたが、ブラの詰め物がズレてしまうのを避けるために尻に変更しました」と正直に答えたら、今頃は小倉女子高はワイドショーのいい餌食となっていただろう。
名門校の看板を守るために問題を起こした臨時教師を解雇するのは本来ならば真っ先に行うべきことなのだから。
「むぅ、手ごわい」
「ははは。暗くならない内に帰りなさいよ、玄関で引き返すならお巡りさんも多分見逃してくれそうだし」
建前上はインフルエンザで療養中。
夏休み期間中で補習もない。私学女子高ということで、この時期に予備校講師や家庭教師という形で臨時収入を得る非常勤もいると聞いている。
どう見ても一晩以上過ごすつもりの大荷物を携えていた柿本君は仕方ないですねとタクシーを呼ぶ。もともと祖父母の家に厄介になる予定だったが、悪戯ついでにこちらの様子を見に来たそうだ。
「それじゃあ、フジワラ先生──またね」
はにかみながら手を振る少女。
その左手薬指には見覚えのある指輪が陽光を受けて輝いている。
「ちょ、ま」
「あはははは、フジワラ先生はとんでもないものをまんまと盗んだんです! 責任とりましょーねー!」
タイミングよく到着したタクシーに飛び込み、給料三か月分相当の貴金属を着服した不良少女は高笑いしながら幸せそうに祖父母の家へと走り去るのだった。