大願と消ゆ
新選組を崩壊へと導いた伊東甲子太郎。
伊東がとった行動のその本心とはいったいなにか。
そして伊東が夢見た新たな日本とは。
近藤から、一通の書状が届いた。
「我らの間には大きな誤解が生じている。今一度、胸襟を開き心の内を語り明かしたい」
といった旨の内容が綴られていた。
伊東は先日、およそ三年間籍を置いた新選組を抜け、新たに禁裏御陵衛士を組織していた。
新選組には、
『局ヲ脱スルヲ許サズ』
という隊規がある。破れば切腹しなければならないのだが、伊東は巧みに立ち回り、半ば強引に、しかし穏便に新選組を脱することに成功した。
「これは脱退ではない。我らは違う角度から攘夷の実行を行いたい。新選組とは互いに助け合う、いわば同志であり、護国の想いをともにする仲間である」
というのが脱退する際の名目であった。
「罠ですな、まず間違いなく」
そういったのは、新選組加入以前からの同志である服部武雄である。
「書状には一人で来いとあります。兄さんを誘い出し、密かに殺すつもりに間違いありません!」
弟の鈴木三樹三郎が続いた。
伊東は応えない。
彼らの心配は、それが杞憂ではないという根拠があった。
伊東らが新選組を脱する際、志をともにし、伊東の意思に共鳴した隊士たちを約十名と少し、ともに引き抜いたのだ。そのなかには古参隊士である藤堂平助や斎藤一もおり、近藤の見せた動揺は一様のものではなかった。心中は察するに余りある。
「以後、隊士の行き来の一切を禁ずる」
という譲歩案が土方から出された。
伊東自身、新選組の瓦解を望んでいたわけでなく、真実ともに攘夷を果たす同志として付き合っていきたいと考えていたため、土方の出した譲歩案は当然のけじめとして受け入れた。
だが事件は起こった。
つい先日、新選組から御陵衛士への移籍を望んだ四人が金戒光明寺の会津本陣で自害したのである。彼らはみな、伊東が脱退を表明する際には追従せず、新選組に残った面々である。
しかし後日、
「新選組にいたのでは我らの志は遂げられない」
と、思い定め、御陵衛士への受け入れを懇願した。
理由は、新選組の幕臣取り立てであった。
「口では尊王攘夷といいながら幕臣に取り立てられ喜び舞い上がる、あのような奸物たちの下で働くことなどできません」
男らはほとんど泣きそうであった。
想いは痛いほど理解できた。だが、新選組とのあいだで決めた約束を、自分から反故にすることはできない。それは伊東の、武士としての矜持が許さなかった。
「いずれ時期を見て必ず迎えいれる。とにかく今は新選組に戻りなさい」
そう答えるのが精一杯であった。
それが悲劇を生んだ。
彼らは会津藩に仲立ちを頼み、しかし断られ、進退窮まった末に自害した、というのが会津藩からの報告である。
「自害ではなく新選組に粛清されたのではないか」
という声が、御陵衛士内ではあがっている。
事実、新選組の内部において、「局中法度に背いた」として粛清された隊士の数は、十や二十ではきかない。
そして今、伊東宛に書状が届いた。罠ではないと思う方が難しい。
「藤堂、君はどう思う?」
伊東は、古くから近藤、土方と付き合いのある藤堂平助に話をむけた。
藤堂は、近藤、土方とは新選組結成以前からの付き合いで、近藤がまだ江戸で天然理心流試衛館道場の師範代をしているときからの付き合いである。御陵衛士のなかではもっとも近藤、土方の人となりを知っている。
「近藤先生は闇討ちや騙し討ちのような真似を好みません。一本気で、真面目で、とても純粋なお人です」
ただ、と藤堂は苦々しげに言葉を継いだ。
「土方さんがなにを考えているのか、私には分かりません。あの人は我々のような武士とは違う」
「所詮は農民だ、ということだろう?」
服部の言葉に藤堂は首を振る。
「型にはまらない、という事です。あの人の前では武士の誇りや格式など、路傍の石くれのようなものなのだと思います。目的を達するためには手段を選ばない。だからこそ怖ろしい」
押し黙る面々を前に、伊東が口をひらいた。
「いずれにせよ、背を向けるわけにはいかない」
「まさか、応じるつもりですか?」
場が激しく騒つく。
「どう考えても罠だ、行く必要はありません!」
三樹三郎が静止する。
「どうしても行くというのであれば、我らもともに参ります!」
語気を強める三樹三郎に、伊東は常と変わらない柔らかな口調で返す。
「三樹三郎、書状には一人で、と書いてある。皆を引き連れていっては、私は自らを臆病者だと喧伝することになる」
それにまだ罠だと決まったわけではない、と伊東は続けた。
「確かに土方歳三という男は私にも計り知れない。藤堂のいうとおり、我々武士の型にはまらない人間なのだろう。だからこそ、誠をもって世の情勢を説けば、幕府に尽す愚を理解してもらえるのではないかと思う」
伊東のいっていることはこうである。
長きにわたる泰平で腑抜けた幕府の屋台骨はすでに腐りきっており、三百諸侯の長たる責を果たすことはできなくなっている。
遠からず徳川幕府は瓦解するであろう。
そうなれば、新選組もその崩落に巻き込まれ、塵芥のひとつとして消えることとなるのは必定。近藤も土方も、旗本でもなければそもそも武士ですらない。ならばこそ、今の幕府に忠義を尽くす愚を理解してもらうことができるはずだ。
「新選組は彼らが心血を注いで作り上げた組織だ。むざむざ壊したくはないだろう。だからこそ、私の話にも耳を傾けるはずだ」
「説き伏せる自信がある、と?」
篠原泰之進の言葉に、伊東が苦笑する。
「篠原君、私は今まで一度だって、相手を説き伏せる、などと思いあがったことを考えたことはない。ただ私の誠をぶつけるだけだよ」
「だからといってひとりでいくというというのは……」
「すでに大政奉還はなされた。彼らとて、これ以上幕府に固執する理由はあるまい。大丈夫、私にも考えはある」
それ以上、誰も伊東の決意に意を唱えることはできなかった。
「これは積もりそうだな」
伊東は重く垂れこめた曇天にちらりと舞う雪を見て、そう呟いた。
宴は、醒ヶ井にある近藤の妾宅で行われた。
「お腰のものをお預かり致します」
そういって玄関で膝をつき、深々と頭を下げて出迎えたのは、近藤の妾であるお考だった。
お考は近藤が身請けした島原の花魁、深雪太夫の妹でかつては大阪の茶屋で『御幸太夫』の名で座敷にあがっていた。先年病没する際、天涯孤独の身となる妹の身を案じた深雪太夫が近藤に頼み、お考の身請けを引き受けさせた。
一方で、近藤は江戸に、つね、という名の妻がおり、そのあいだに一女をもうけていたが、京においても数人の妾を囲っている。なかでもお考とのあいだには子をもうけていたが、そのことは妻には話していない。人が良いのか悪いのか。
(英雄いろを好む、か)
妻以外の女に関心のない、ましてや関係をもとうなど考えたこともない伊東からすれば、そうした近藤の癖は理解できない。だが言いかえれば、それだけ近藤に人間的な魅力がある、ということなのかも知れない。
お考に案内され、近藤が待つ部屋へと入った。
「伊東先生、ようこそお越しくださいました」
近藤が慇懃に頭をさげる。その隣では、土方がいつもの不機嫌そうな顔で、むっつりと腕を組んでいた。
近藤にうながされ座につく。
部屋には近藤と土方がいるだけで、他の隊士は誰もいない。
(永倉くんあたりはいるのかと思ったが)
意外な思いで周囲の気配を探る。
多勢が潜んでいるような気配はない。とりあえず、いきなり囲まれてなますなますにされるというような心配はなさそうだった。
「ささ、まずは一献」
そういって、近藤が伊東の杯に酒を注ぐ。
「伊東先生、今宵はわだかまりを捨て、存分に語り合いましょう」
伊東は杯に注がれた酒を一息に飲み干すと、
「ええ、もちろんそのつもりです」
と爽やかな笑みで応えた。
宴は和やかに進む。
互いの近況や隊の状況など、ほとんど毒にも薬にもなりそうにない会話がひとしきり続いたところで、伊東が近藤の腹を探る。
「先日、会津本陣で隊士が自害した、と聞き及びました」
伊東の言葉に近藤は沈痛な面持ちで頷いた。
「あれは事故だったのです」
四人の男たちは、会津藩に仲立ちを頼もうとし、断られた末に自害した、と伊東は聞いている。だが真相はこうだ、と近藤はいう。
「会津藩から四名の隊士が隊からの脱退、及び御陵衛士への移籍を望んでいる、という連絡が入り、我らは聞き取りを行うべく会津本陣におもむいたのです」
だが会津藩の誰かが四人に新選組のものが向かっている、と告げた。そのため局中法度による粛清を怖れた男らが自ら果てた、というのがことの顛末だという。
「行き違いだったのです。法度は無情に適用されるものではなく、そのものに理があれば、処罰したりはしないのです。我らは一部で囁かれるような殺人集団では断じてない」
事実、新選組発足以来、何人かの隊士は脱退を認められている。理由は長子が早逝したため家業を継ぐためであったり、老いた母を放ってはおけない、などであった。
もっとも、それらは新選組が今のような巨大な組織になるよりも以前の話ではある。
「有為の人材をむざむざ失ってしまい、言葉もありません」
眉間にしわを寄せ、握った拳が小刻みに震えている。
(嘘をいっているようには見えない……)
近藤は朴訥な男で、およそ嘘というものをついたことがない、というのがひとつの誇りになっていた。
つかの間、重たい空気が流れる。
「ところで斎藤の様子はどうです? あれはずいぶんと変わったところがありますが……」
近藤が、話の矛先を変えた。
「斎藤くんは新選組にいたときのままですよ。寡黙で、群れることを好まない。それでもみな、彼には一目置いている」
「はっはっは、斎藤らしいですな」
機嫌がよさそうに笑う近藤の横で、土方は相変わらずむっつりと、一語も発することがない。いったいなにを考えているのか。
宴は進む。
伊東はすすめられるままに杯を重ね、干した杯の倍の数、言葉を重ねた
酒が進むほど、伊東の話は核心に迫る。
黒船来航いらい顕になった腑抜けた譜代大名への憤懣や、大政奉還により訪れるであろう新たな時代、そのなかでなにを成すことができるのか、それらをとうとうと語っていく。
近藤は、伊東が杯を干しては言葉を発するたび、ときには目を閉じ大きく頷いたり、あるいは組んだ腕をほどいて膝を叩きながら、
「如何にも左様」
だとか、
「さすがは伊東先生、慧眼をお持ちだ」
などと、半ばおだてるような相槌を返していた。
その間も土方はほとんど伊東と目を合わせることなく、聞いているのかいないのか、相変わらずちびちびと杯を舐めていた。
だが、伊東の話が新選組が今後とるべき道に及んだとき、にわかに言葉を挟んだ。
「あんたはもう新選組の人間ではない。隊のいくべき道などと、したり顔で指図するのはやめていただきたい」
声音こそ静かだが、明らかに怒気を含んでいる。
そんな土方を、近藤が嗜める。
「トシ、飲みすぎだ。少し座を外して夜風に当たってこい。おい、お考——」
近藤に呼ばれ、隣室に控えていたお考が土方を縁側へと連れていった。
「失礼しました。それで伊東先生、新選組が今後とるべき道について、ですが」
近藤は、一対一の対話を望んでいるようだった。
(それは私も望むところ)
伊東のみたところ、土方にはおよそ志と呼べるものはない。ただひたすら、近藤勇という男をたて、新選組を大なる存在へと押し上げたい、という思想があるだけだ。
であれば、近藤がひとこと、
「勤皇に尽くす」
と宣言すれば、土方はそのために奔走し、尽力するに違いない。
新選組をひとつの組織として差配しているのは土方だが、結局その舵をどう切るかは、近藤の志ひとつなのだ。
(ここが山だ)
酒がいくぶん舌を滑らかにしていたが、理性はまるで失われていはいない。
伊東は言葉の限りを尽くし説いた。
近藤は黙念と伊東の言葉に耳を傾けている。
やがて話は昨年行われた二度目の長州征討に及んだ。
江戸幕府と長州藩とのあいだで行われたこの戦は、幕府軍十五万に対し、長州藩七千というほとんど絶望的な兵力差であったところを、最新式の銃と高い士気をもつ長州藩が連戦連勝、将軍家茂の病死をきっかけに講和を結び終了したが、その内実は幕府軍の大敗であった。もはや徳川幕府の衰退は誰の目にも明らかだった。
さらに伊東は続ける。
「すでに大政奉還はなされました。事実上徳川幕府はもうないのです。そのようなときに朝廷と幕府が相争っていては、みすみす外国につけ込まれる元。今こそ天子様の下、勤皇に励み、外国に負けない日本をともにつくりあげましょう」
伊東の言葉を、近藤は目を閉じ、腕を組んだまま聞き入っていた。
長い沈黙がふたりの間に流れる。
「近藤先生、こちらをご覧ください」
そういって、伊東は懐から一通の書状を取り出した。
近藤は書状を手に取りゆっくりと開く。
それは伊東が考えに考え抜いた、朝廷にあげるための建白書であった。
そこには、畿内五カ国を新政府の直轄領にすることや、一和同心の旗印のもと、朝廷を中心に日本中が心をひとつにし、ただ外国を排斥するのではなく、むしろ積極的開国によって優れた技術を取り入れ国力を高めるべき、といった考えが記されている。驚くべきは、徳川家をさえ新たな政治に参画させる、という一文で、これは伊東自身が武力倒幕をまるで望んでいない、ということへの証左であった。
「——伊東先生」
近藤が口を開く。
「伊東先生のお説、いちいちごもっともにござる。この近藤、感服いたしました」
「では——」
「しかしながら」
喜色を浮かべる伊東を、近藤は手をひろげ制する。
「不肖この近藤勇、如何なる道理があろうとも、徳川家に弓を引くことはできません」
「……なぜ?」
「忠にござる」
「——しかし!」
薩摩や長州は、大政奉還がなされた今でもなお、あくまで武力によって徳川家を滅ぼそうとしている。だが朝廷がその建白書を受け入れることで、少なくとも徳川家を守ることができるのだ。
そう言いかけて、伊東は言葉を呑んだ。
(ああ、そうか。このお人は真の武士なのだな)
そして唐突に、近藤勇という漢のことを理解した。
「相分かりました」
そういって伊東は立ちあがり、
「今宵は楽しませていただきました。ありがとうございます」
といつもの爽やかな笑顔を見せ、近藤の妾宅をあとにした。
外に出るとすでに日はとっぷりと暮れており、大地はうっすらと雪化粧に覆われていた。夜気はしんと冷えている。
ふと一陣の風が、伊東の頬をなぶった。
冷たい夜風が酒で火照った身体に心地よかった。
ぼんやりと灯る提灯を下げ、ほたほたと歩く。
伊東自身なにがそれほど己の気分を良くさせているのかよくわからない。少なくとも、酒のせいではなさそうだった。
(やはり近藤先生のあの言葉だろうな)
と、つい先ほど近藤がいった言葉を反芻し、くつくつと笑う。
近藤は、確かに忠、といった。
譜代大名たちがどれも腰抜けぞろいの世で、農民あがりの男にあれほどの忠義が備わっているというのはなんとも皮肉な話である。
伊東はふう、と長い息を吐いた。
白い息が束の間宙空をたゆたい霧消する。いつのまにか雪は止み、雲ひとつなくなっていた。
伊東は天を支配するように輝く満月を見あげ、
(そろそろかな)
と思った。
油小路にある本光寺の門前にさしかかったとき、ひとつの影が道の先に立っているのが見えた。
「やはり討手は君か」
月明かりが浮かびあがらせたのは、新選組を抜け御陵衛士に加わったはずの同志、斎藤一であった。
「土方くんの差し金、といったところかな?」
斎藤は口を開かず、代わりに剣を抜いた。
伊東は小さくため息をつく。
「君が新選組を抜け我らの同志になどなるわけがないと思っていたが、やはり密偵だったのだね」
「……なぜ?」
伊東の言葉に斎藤の剣先がわずかに揺れる。
「俺を密偵と疑っておきながら、なぜ受け入れたのです?」
斎藤の疑問に伊東は心外な、といった表情を浮かべ、唇の端をわずかに持ち上げた。
「脱退を表明するときに言ったはずだよ。我らと新選組は攘夷を志す同志だと」
例え密偵として潜入しているのだとしても、寝食をともにし、志を語り合うことでいずれはその志を理解してもらえるだろう、と伊東は考えていた。
「土方くんには理解してもらえなかったようだが、私は真実、新選組とは攘夷を志す同志だと思っていた。だが——」
伊東は言葉を切り、わずかに唇を噛んだ。
「近藤先生は私が考えていた以上に、武士として幕府への忠勤に励んでおられた。である以上、我らは今日を持って敵となる」
語気を強め提灯を投げると剣を抜き、正眼に構えた。
伊東には、己を過信しすぎるという欠点があった。
眉目秀麗で弁がたち、目下のものに対しても細やかな心配りを忘れない。奢ったところは微塵もなく、伊東に対する評をたずねれば、誰もが人格者と答えるだろう。おまけに北辰一刀流の免許皆伝で、そこらの剣客などお呼びもつかないほどの剣の達人でもある。
だが、ほとんど唯一といってもいいその欠点が、伊東の生死を分けた。
確かに伊東は北辰一刀流の達人だったが、斎藤もまた剣の達人なのだ。その腕は、新選組で三指の使い手といわれる永倉新八をして『無敵』といわしめるほどであった。
このとき伊東が持っていた提灯を斎藤に投げ、暗闇に乗じて逃走していれば、その後の運命も変わっていたかもしれない。
だが伊東は剣を抜き、斎藤と向かい合っている。あるいは、酒が気を大きくさせていたのかもしれない。
(逃げも隠れもしない。私は伊東甲子太郎だ)
立ち合いはほんの一瞬であった。
伊東は初太刀を斎藤に擦り上げられると、返す刀で胴を割られ崩れ落ちた。
即死であった。
その後、伊東の死体は御陵衛士の残党をおびき寄せるための餌として、油小路の路上に放置された。
一八六八年一月三日、王政復古の大号令により、およそ三百年続いた徳川幕府は幕を閉じた。それはまさに、伊東が望んだ、朝廷を中心とした新たな政体が名実ともに誕生した瞬間である。
伊東の死後、わずか三週間後のことであった。