人斬り源三郎
新撰組六番隊組長である井上源三郎は凡庸そのものとしか見えない男である。
穏やかで、剣の腕にも冴えはない。
そんな凡庸な男が六番隊組長に座る理由とはいったいなにか。
近藤、土方が源三郎に寄せる信頼とは。
「ああ、気が重たいなあ」
土方の居室を後にした源三郎は、重々しい溜息とともにそうこぼした。抜けるような青が眩しい晴れた空に、似つかわしくないほどどんよりとしたひと息だった。
新撰組に入隊した若い隊士たちにとって、六番隊組長である井上源三郎は、もっとも親しみやすい人間であったに違いない。
例えば一番隊の組長である沖田総司などは、なるほど親しみやすい人間ではあっただろう。いつもにこやかで、冗談をいってはけらけらと笑っている。その顔がいとけない少年のようで、なんとも人懐っこい雰囲気を持っているのだ。
だがそんな人懐っこい雰囲気も、ひとたび道場に立ち竹刀を握ると豹変する。竹刀を持つ手が痺れてしまうほどに打ち込みは激しく、叱責は度をこして厳しい。そのくせ他者への指導はひどく下手くそときているので、平素どれだけ慕っていても、沖田と稽古をしたがる隊士はほとんどいなかった。
人望という意味では総長の山南敬助などは、隊内では出色の存在である。先日に脱走騒ぎを起こし、『局ヲ脱スルヲ許サズ』という法度に触れ切腹をいい渡されたとき、隊のほとんどのものが助命を嘆願したことからも、その人望の厚さはうかがい知ることができる。穏やかで人当たりの良い性格で、よく若い隊士達を居室に招いては様々な話をしていた。
山南の話は論理的で非常に分かりやすく、かつまた面白いと評判であった。ただ、話に熱が入ると思想を説く、という癖があり、感化されるものも少なからずいたものの、とくにこれといった思想を持たずに入隊した若い隊士達にとっては少々話が重く、あえて寄りつこうとしない隊士達も一定数存在していた。
新撰組の本懐は尊王攘夷である。
古参の隊士であれば、みな大なり小なりそれぞれの思想や信念をもっている。だが、先日江戸で二度目の隊士募集において集まってきた者たちは、ほとんどの場合、そういったものを持ちわせていなかった。集まったのは下級武家の次男や三男で、みな継ぐ家もなければ婿養子の先もない、いわば穀潰しである。思想ではなく、実利を求めて入隊している。
そんな彼らにとって、ある意味では沖田や永倉のような天賦の剣才に恵まれたもの、あるいは山南のように思想や理想に熱い思いを抱いているものは、そばにいると窮屈な思いがするのだろう。局長である近藤勇以下、幹部連中の眩いばかりの存在感が、己の矮小さを知らしめ、どこか劣等感を刺激するのかも知れない。
唯一、源三郎だけが例外であった。
源三郎は新撰組の前身である壬生浪士組、さらにその中心にいた近藤、土方を中心とする試衛館道場の出身で、いわば立ち上げから今日に至るまで隊に籍を置く、最古参の人間のひとりである。だが、古参の隊士たちのなかにあって、源三郎には思想や理念というものが露ほどにもなかった。
江戸から京へ上るとき、徴募に応じた男たちは、道中つねに世の情勢について熱く語り明かしていたが、源三郎がその話の輪にはいることはついぞなかった。
近藤について京にのぼったのも、
「勇を頼む」
という、天然理心流三代目宗家である近藤周斎の言葉に従っただけのことであった。もっとも、源三郎自身、若先生と呼ぶこの男のことを、密かに気にかけてはいる。だからこそ周斎の言葉に従い京にまでついてきたのだ。
源三郎は、いかにも凡庸、という言葉がしっくりくる出で立ちをしている。三十三歳になる近藤を五つしか上回らないのだが、薄い頭髪には白いものが多く混じり、年齢以上に老けて見える。剣の腕はそれほどまずくはなく、天然理心流の免許皆伝ではあるものの、目には覇気がなく、剣客がまとう特有の空気も感じさせない。とても幹部として一隊を率いているとは思えず、二本を差さずに歩いていれば、田舎の町人となんら変わるところがない。
だが、決して若い隊士たちから軽んじられているわけではない。むしろある意味では他の誰よりも慕われているといえるかもしれない。
あるとき二十歳ばかりの若い隊士が、縁側に腰掛ける源三郎を見かけ、
「やあ、これは井上先生、今日はいい天気ですね」
と声をかけた。すると源三郎は隙間だらけの歯を剥き出して笑い、
「ああ、本当に。なんというか、茶店でのんびり団子でも食いたくなる天気だ」
とこたえた。こんなやくたいもない言葉をかけられる幹部は源三郎だけであろう。だが、こういったなんでもない会話に、人の心というのは助けられたりするのだ。
さて、源三郎である。
土方からの頼みごとを頭のなかで反芻し、再び重たい溜息をこぼした。頼みごと、とはいっても実質的な副長命令である。
土方の居室に呼び出されたのは、いつものように縁側でひとり風に吹かれていたときのことだった。
「トシ、入るよ」
そういって、源三郎はふすまを開けた。
目をつぶり座す土方の前に腰を下ろす。いやに重々しい空気に、よほど重要な仕事なのだろうと直感した。
土方は軽く会釈をすると、無言で人名の書かれた四枚の短冊を源三郎の前に差し出した。
茨木司。
佐野七五三之助。
富川十郎。
中村五郎。
いずれも尊王攘夷の志が篤い、若い隊士達である。
源三郎は、ひとつひとつじっくりと目を通す。
「明日、黒谷の会津本陣を訪ねるよう手筈を整えてあります」
黒谷とは通称で、正式には金戒光明寺といい、京都守護職である松平容保が藩主を務める会津藩の本陣がおかれている。
「源三郎さん、お願いできますかな」
直接的な表現こそないが、要はこの短冊に書かれた男らを殺せということだった。
「あいよ」
源三郎はまるで近所への使いを引き受けるような調子で答えると、短冊をまとめて土方に返した。
去り際、
「トシ坊、少し顔色が良くないね。ちゃんと眠れているのかい?」
と問うた。
源三郎からすれば、世間から『泣く子も黙る鬼副長』と形容される土方も、江戸にいた頃のバラガキとなんら変わらない。
「トシ坊はよしてください。今は新撰組副長の土方歳三です」
眉間にわずかにしわを寄せる土方を背に、源三郎は静かにふすまを閉めた。
新撰組は今、大きく揺れていた。
およそ二年前に参謀として加入した伊藤甲子太郎が隊からの離脱を表明し、それに共鳴した隊士たちが十三人、伊藤とともに離脱した。そのなかには古参である八番隊組長、藤堂平助もいたのだ。
伊藤らは、先日崩御した孝明帝の御陵を守るためと、それに伴い薩摩藩や長州藩の動向を探るという建前のもと、半ば強引に脱退を申し出ていた。
本来であれば、脱隊は切腹である。だが、
「袂を分かつがこれは脱隊ではない。我らは敵ではなく、夷狄を討ち払うという共通の目的を持ち、護国の思いを共にする、いわば同志である」
というのが伊藤の弁だった。
結局、今後はお互いのあいだで隊士の受け入れはしないという約定を交わし、伊藤以下十三名の離脱は穏やかに済んだ。
現在、伊藤らは月真院にうつり、禁裏御陵衛士という表札を掲げ、自分たちのことを『高台寺党』と称している。
「同志とは上手いこといったものだ」
と、土方はひとりごちた。
だが、離脱を表明する少し前から、伊藤は自身が勤皇家であることを隠そうともせず、さらにはその言説は、倒幕さえ視野に入れているようだった。尊皇佐幕を旨とする新撰組とは必然、敵対せざるを得ない。
源三郎はひとり道場にいた。
天然理心流に特有の太く重たい木刀を手にすると、上段に構えてひとつ、振り下ろした。
速さも鋭さもないが、刃筋にはまるで淀みがない。
剣における源三郎の才能は、例えば沖田や永倉、斎藤らと比べればまるでないに等しい。総司が十年かからずに得た天然理心流の免許皆伝も、源三郎は十三年を要するほどである。
ただ、日々の鍛錬だけは欠かしたことがない。その生真面目さを、ときに沖田にからかわれたりもしたが、刃筋の淀みのなさは、愚直なまでに積み重ねた日々の現れだった。そんな源三郎のことを、古参の人間は『源さん』と呼び慕っている。
無心に素振りを繰り返し、全身がしとどに濡れそぼったころ、不意に背後から声をかけられた。
「精が出ますな、源さん」
振り返るとそこには、近藤が立っていた。
「これは若先生、見苦しいところを見せてしまいましたな」
そういって薄くなった頭をかく。
源三郎は近藤が周斎の養子となった十九歳の頃からずっと、弟弟子にあたる近藤のことを、若先生と呼んできた。近藤が新撰組の局長となった今でも、その癖が抜けない。
「見苦しいなどとご謙遜を。どうですかな、久方ぶりに稽古をつけてはくれますまいか」
試衛館にいた頃、源三郎は兄弟子としてよく近藤に稽古をつけていた。もっとも近藤はめきめきと力をつけ、源三郎はすぐに打ちあうだけで精一杯になってしまった。だが、近藤は兄弟子というよりも、身内という感情を源三郎に抱いている。
「いやはや、私に若先生のお相手が務まるものかどうか」
そういって源三郎は頬をかいた。
結局、二人は道場のなかが暗くなるまでともに汗を流した。
翌朝、憂鬱な面差しで縁側に腰をかける源三郎に、沖田が声をかけた。
「どうしたんです源さん、土方さんに無理難題でも押しつけられたんですか」
いつもにこやかなこの青年は、一見のんびりと構えているように見えても、妙に勘が鋭い。
「いやいや、トシ坊はよく人を見てるからね、無理難題を押しつけたりはしないよ。お前さんだってよく分かっているだろう」
トシ坊という言葉に、沖田はくつくつと笑った。苦虫を噛み潰したような土方の顔が、ありありと浮かんでいるのだろう。
「さて、そろそろ仕事に取りかからんとな」
大儀そうに腰をあげる。
「武運を祈ります」
沖田の言葉に、源三郎は腰に差した二本をぽん、と叩いた。
会津本陣の控えの間に、茨木、佐野、富川、中村の四名が座している。みな、高台寺党の密偵である。決別を宣言する前夜、伊藤から頼まれ、内部情報を流すために新撰組に残った。
「時をみて、必ず迎えいれる。我らは志をともにする同志だ」
そういって、伊藤は彼らひとりひとりの手を固く握った。
伊藤はその巧みな弁舌で、新撰組内部に何人もの同志を残し、そのうちの何人かは密偵として利用している。五番隊組長である武田観柳斎も、密かに伊藤に通じていた。
だが、決別の際、新撰組と高台寺党のあいだで隊士のやり取りはしないという約定を取り交わしている。隊士の受け入れは容易ではない。
伊藤には自分の才を恃みすぎるという癖がある。周囲の人間がみな馬鹿に見えるのだ。
そんな伊藤でも、土方歳三という人間だけは得体が知れなかった。自分よりも優れているとは露ほども思わなかったが、どこか異質な存在感を感じるのだ。
伊藤らが離脱した三ヶ月後に新撰組が幕臣に取り立てられたとき、彼らはそろって伊藤のもとを訪れ、高台寺党に入れてくれるよう頼んだ。勤皇倒幕派である彼らにとって、打ち倒すべきその幕府の臣下になるなど耐えられないほどの屈辱だったのだ。
「時をみてといったはずだ、今はまだその時ではない」
冷たくいい放つ伊藤に、彼らは必死に食い下がった。
「我らの志はどうなるのですか!」
「君たちの志はよく分かっている。だが今はまだその時ではない。新撰組に戻りなさい、いずれ必ず迎えいれる」
結局、伊藤は新撰組の報復を怖れ、彼らとの約束をあっさり反故にした。
進退窮まった彼らは会津藩に、新撰組から高台寺党への受け入れの仲介を頼んだのだが、そこに土方の張った罠があった。
土方は隊内に伊藤の密偵がいることを知っていた。知っていて、あえて泳がせていたのだ。
「遠からず、高台寺党への仲介を頼むものが現れます。そのときは我らに一報をいただきたい」
伊藤は討幕派であり、いずれ必ず幕府に仇をなす、と。
仲介を頼んだ会津藩からの呼び出しであれば、まとめて呼び出されたところで疑問は抱かない。
果たして土方の計略どおり、彼らは会津藩に呼び出され、控えの間に座していた。
源三郎は、控えの間の外で、見届け人の男に頭をさげる。
「お勤めご苦労様です」
男は声をひそめ、源三郎に応える。
(まるでくたびれた百姓の爺さまみたいだ)
男は源三郎の外貌を見てそんなことを思った。
「隊の不始末は隊のもので」
と土方はいう。それは当然のことなのだが、それにしても大丈夫か、と思わせるほど、源三郎の立ち姿には覇気がなかった。
そのころ屯所では近藤が土方の居室を訪れていた。
「トシ、伊藤の密偵の件だが、源三郎さんに任せたというのは本当か?」
「ああ、耳が早いな」
土方は、さほど大きな事案でもない限り、ほとんど独断でものごとを進めていく。
近藤もまた、土方に全幅の信頼をよせているからこそ、余計な口出しをしない。
「お前の考えることだ、間違いはないんだろうが、本当に大丈夫だろうか」
近藤は心配そうな面持ちで土方の隣に腰を下ろした。
「源三郎さんは心の優しい人だ。若いものの命を奪うというのは、心に苦しいものがあるのではないか。それに、相手は四人というではないか」
「確かに源三郎さんの剣の腕は総司や永倉、斎藤とは比べるべくもない。下手すりゃ……」
土方はくつくつと笑い、近藤を見る。
「竹刀を握ったあんたより弱いかも知れん」
近藤は苦々しそうに視線をそらした。
「だが、実戦において最も強い剣は、最も迷いのない剣だと俺は思う。相手が誰であれ、源三郎さんはあんたの害になるものには容赦しない。適任さ」
確信めいた土方の表情に、近藤はそれ以上なにもいわなかった。
「では、失礼つかまつる」
そういうと、源三郎は刀を抜き、無造作にふすまを開いた。
「井上先生、なぜここに——」
言うが早いか、あっ、と思ったときにはひとりを背中から斬り下げていた。
ぱっ、と鮮血が散り、ふすまを赤く染める。
いったいなにが起きたのか、事態が飲み込めないうちにさらにひとりの面を割る。
残ったのは茨木司と佐野七五三之助の二人であった。
二人はぱっと飛び退ると刀を抜き、正眼に構える。
佐野が、鬼のような形相で源三郎を睨みすえる。
「おのれ……謀ったか!」
茨木も佐野も、平素から源三郎とよく話をしていた。
季節の話や京の町の話など、時勢や思想とはなんの関係もない話ばかりであったが、それがかえって居心地がよかった。
その源三郎が、血に濡れた姿で立ちふさがっている。
「井上先生、なぜ」
困惑する茨木に、源三郎は済まなそうに眉間にしわを寄せた。
「すまないねえ、本当はこんなことしたくはないんだよ。私みたいな年寄りが未来ある若者を斬るなんてとんでもないことだ。ただねえ……」
常と変わらない穏やかな表情に、目だけが冷たい光を放つ。
上段から落ちてくる佐野の一撃を捌き、ぱっと胴を払った。
腸がこぼれ落ち、部屋のなかに生臭い臭いが立ち込める。
「トシ坊がいうんだ。お前さんたち、若先生のためにならんのだろう?」
そういった刹那、源三郎の剣が茨木の喉元を裂いた。
首から血を吹き出しながら、茨木はその場にくずおれた。涙を流しながら死にたくない、死にたくない、と繰り返していたが、それもすぐに聞こえなくなった。
源三郎は一度刀を振るって血を払い、袖で拭って鞘に納める。ついで涙を流したまま絶命する茨木や、他の三人の目をそっと閉じ、両手を合わせた。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
全ては一瞬の出来事で、見届け人の男は声もなく立ち尽くしている。
「それでは、後のことはお願い致します」
そういって、源三郎は会津本陣を後にした。
屯所に戻り身なりを整えると、土方から呼び出された。
「先ほど知らせがありました。ご苦労様でした」
慇懃に礼をする土方に、源三郎は手を振る。
「いやいや、これもお勤めだ。こんな年寄りでよかったら、またいつでも声をかけてくれ」
そういって源三郎は隙間だらけの歯を見せて笑った。
たった今人を斬ってきたばかりとは思えない、常と変わらない人の良い笑顔であった。
後年、元新撰組砲術師範で伊藤甲子太郎とともに脱退した阿部十郎は、
「沖田や大石、井上などは、志もなにもなく、ただ言われたまま徒に人を斬殺する狂犬のような輩」
と述懐している。