いつか花咲く Fallin' Love...
ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・シュナイダーは歌が好きだった。
街並みを歩くとき、路地に猫が現れると、猫をやさしく撫で、猫のために歌った。
野山に行き、花と戯れると、その花のために歌を歌った。
夜、暗くなって街を明るく照らす月のためにも歌った。
必ず何かのために歌い、メロディーが生まれる、それがヨハンだった。
彼はその何かと、まるで会話をするように、歌を歌ったのだ。
その日、ヨハンは芝居に出かけるところだった。
芝居はその街で目玉の催し物で、街中の人が押しかけるほど人気だった。
だが、ヨハンの父、ゲオルクは芝居を観に行くことをよしとしなかった。
少しくらいならいい、たまの気晴らしならば生活を充実させることもあるだろう。
だが、ヨハンときたら、芝居があるたびにいつも出かけていっている。まるで芝居狂いだ。
その答えは簡単だ。それはかの美しい女優マルガレーテが演じる芝居で、ヨハンは彼女に釘付けだったのだ。
ゲオルクは元来の実務家で、文化的なものを趣味として興じる分にはいいと思っていても、そんなものが社会の役に立つとは到底思わなかった。むしろ、害毒とすら考えた。況して、恋だの愛だのは一つも理解しようとはしなかった。
ヨハンは父を説得しようとする。
「父の言いたいことはわかります。ですが、金にならなければ役に立たない、財をうまなければ役に立たないなんて。だったら、この部屋だって着飾ることはないでしょうに、商売で稼いだお金で。フランス製のタンスも、役には立ちませんよ。窓には赤く鷹の装飾が施されたカーテンがつけられている、こんなのぼろ切れで十分じゃありませんか。ですが、日が昇ってカーテンが開けられれば、世界という大舞台が見えるのです。芝居だって同じじゃありませんか。心を昂らせ、啓蒙し、快くさせてくれるのです。」
「屁理屈だな……」
ゲオルクは困りげな顔をして、煙草の入ったパイプを吸って一息ついてから、ヨハンに漏らす。
「お前は理解できないやつだった。今もそうだ。花や樹、動物なんかを見るとすぐに歌いだす。まるで奴らと会話でもできるように思っているのか。そんな不合理な考えは今すぐにでも捨てて、図面の一つでも書けるようになって家を建てられるようにでもしたらどうだ」
ヨハンは何も答えなかった。ゲオルクがいずれはヨハンに家業の建設業を継いでほしいと願っていることも知っていたし、これ以上話にならないことも知っていたからだ。このままゲオルクと話していても埒があかないので、二階の自室に戻ることにした。もちろん、このまま引き下がるというのではない。
ヨハンはいつも父と口論して芝居に行く許可が得られなかった日には、マントを着て、二階の窓から出ていくようにしていたのだった。何枚も括り付けた布を窓から放り投げ、それとつたって外に出るのだった。愛しのマルガレーテに会うために。
街の劇場に着くと、相変わらず人だかりができていて、皆が今かいまかと芝居が始まるのを心待ちにしていた。
客席は階段状になっていて、舞台を見下ろす形になっている。舞台は青く威圧感のある緞帳がかけられている。
ざわざわ話し声が聞こえるなか、照明が暗くなった。
いよいよ始まる。
幕が上がる。
舞台に照明。
狂言回しの老人が出てきて話始める。
ヨハンにとってはストーリーなどどうでもよかった。
ただ、あの女優が観たい。マルガレーテに会いたい、それだけだった。
古城のセットだ。
城の上階部分のベランダから一人の女性が姿を現した。
憂いを秘め、弱々しげであどけない表情を浮かべた亜麻色の髪の女性。
豪華な衣装で身を包んでいるとはいえ、生まれもった気高さが感じられる。
マルガレーテだ。
彼女の配役はある国の王女。
父である王が戦争を仕掛けようと画策している国の王子と恋をしている。
王子が心配な彼女は、なんとか戦争を止められないものか、悩み苦しみ、奔走するというのが筋のようだ。
もちろん、ヨハンにとってそんな筋書きはどうでもよかった。
よかったのだが、恋人同士が結ばれず、その間には障壁があるという設定はかえってヨハンの心を燃え上がらせた。
そんな悩ましい彼女の姿を見ながら、王子と自分を重ね合わせた。劇中には王子も登場するのだが。
ヨハンは歌いたかった。
悩ましいその花に、歌を捧げたかった。
王子と結ばれるために必死に、追いすがる彼女を表す歌がすぐにでも浮かんだ。
芝居中だったので、それは許されないことだ。
そんなことはさすがのヨハンでもわかることだった。
彼は常識がないわけではなかった。
そんな、世界で起こっていることとは無関係に自分の世界に没頭するヨハンだったが、そんなナルシシズムに満ちた鑑賞態度でも、ヨハンにとっては芝居の一つの楽しみ方だったのだ。
そして、ストーリーは終焉を迎える。
ーー街の片隅に咲く花の色は
決して色褪せぬ 淡い青を帯びて輝き放っている
ヨハンは贈り物を腕に抱いて、舞台裏へと駆け込んだのだった。