8.静謐の夜
ざ、と風が緩く吹いて髪を揺らし、サウスリザは流れてきたほうを確かめるように顔を巡らせた。風の精霊たちは何か歌うように口を動かしたけれど教えてはくれず、戦端を開いた彼女の愚かを怒り悲しんでいるのだろうと目を細めた。
精霊たちは人を愛していないから、戦争で誰かが死ぬことを嘆くのではない。人の血で穢れる大地、悲鳴や怒号で揺れる風、死体を焼いた煙で汚される空にこそ嘆く。
人の横暴と身勝手を神々よりも側でずっと眺めてきた精霊たちは、もうとっくに人に愛想を尽かしてしまっている。それなのに物心がついた時から何故かその姿を視ることができた彼女が声をかければ、気紛れに世界の様々を教えてくれた。僅かながら風を操ることもできたが、それも今日で終わりだろうと緩く吹く風にぼんやり考える。
彼女の命令は人死にを出すだけでなく、精霊をとても疲弊させる。自然を汚すことで物質的に、愚を晒したことで精神的に。もう見捨てられるだろうと遣り切れなく目を伏せた時、
「長」
注意を引くように呼ばれた短いそれに、意識を引き戻されるようにして振り返った。
明かりを灯していない部屋で、今唯一の頼りは月光のそれだけ。薄闇の中に立つ人影を見つけても表情までは窺い知れないはずなのに、何故か彼の心配そうな眼差しまでがはっきりと見えるようだった。
(月というよりも、夜に溶け込めない陽の光のようだ)
そこにあることを自身でも不自然に思っているかのようにどこか所在無く立つ姿に、ようやく少し笑える気分になってふと口許を緩めた。
「客人に長と呼ばれる覚えはないな。名で呼べばいい、名乗ったろう」
「……サウスリザ」
ひどく大切そうに、大事そうに、くすぐったくなるほど柔らかく呼ばれてサウスリザは思わず顔を顰めた。夜の中だというのに彼にもそれは伝わったのだろう、何か悪いことをしたろうかと不安げに眉根を寄せるのが分かって慌てて誤魔化す言葉を探す。だから、と少し視線を彷徨わせて思いついたそれを急いで言う。
「私は名乗ったはずだが、名乗りを受けた覚えがないと思っただけだ」
「ああ、そうだったろうか」
それは礼儀に欠けたと左手に右の拳を軽く添えてそのまま軽く一礼し、凛とした声が名乗る。
「私はフェイルオン・リアン。竜子が一、双剣のフェイルオンと呼ばれる」
「フェイルオン、珍しいが綺麗な響きだな。──いや待て。リュウシと言ったが、それはひょっとして世界に名立たる傭兵一族の、あの竜子か?!」
「世界に名立たるかはよく知らないが、傭兵の竜子は我が一族だけと思うが」
何か問題があったかと軽く尋ねてくるフェイルオンに、サウスリザは眩暈を堪えるようにして額に手を当てた。
「昼間の契約はなしだ。ないことにする、破棄してくれ! そんな著明な傭兵一族に、支払える金などあるかっ」
これから戦争をしようという時に。──否、いくらフォンセイが豊かな緑を湛えるとはいえ、それはかつてファルセイ大陸と呼ばれていた場所においてだけの話。大陸以外の国を比較にするのならば、フォンセイは決して裕福な土地ではなかった。
大陸は過去、一夜にして海に沈んだ。その後、どんな神の気紛れか奇跡かは知らないが再び浮上し、ほとんどを内海に覆われて辛うじて輪郭だけが繋がっている今の形となった。そんな場所だからこそ枯れることない伸びやかな緑が貴重なのであり、北のシュグナに留まらず残る東南西の三部族も虎視眈々とフォンセイを狙っているだけ。けれど大陸以外に海に沈んだ場所などあるはずもなく、その分だけ他の島々は少なくとも大陸よりは豊かな生活ができているはずだった。
その世界がこれをして一と認める傭兵に支払われる金額など、想像もつかない。いくらフォンセイを治めるとはいえそんな金額を簡単には用意できないし、できたところでこれから何かと入用の今、一人の傭兵にそれを出せるはずもない。
もっと早くに言っておけとの愚痴を奥歯で噛み砕くと、フェイルオンは何かを堪えるように拳を作って噛み締めるように聞き返してくる。
「──私は、お前の役には立てないのか」
「だからそんな金はないと言っているっ」
情けないことを何度も言わせるなと噛みつくように答えると、怒ったような顔をした竜子は片眉を跳ね上げて見下ろしてきた。
「私はお前と契約する、と言ったはずだ。竜子として雇われるとは言っていない」
「っ、そういうわけにもいかんだろう! 傭兵一族として既に名が高いというのに、それを、」
「私が竜子であることが問題ならば、私は竜子であることを捨てよう。今もどうせ私は島には戻らない、別段戻る気もない。捨てることに異論はない」
それならばいいのかとひどくあっさりと聞き返され、サウスリザは思わず口を開閉させたもののすぐには言葉が見つからなかった。
「っそんなもの、異論などお前になくても私にはある、いいわけがあるか!! 自分の一族を容易く捨てるなどと──、お前はそれがどういうことか、」
「分かっている。少なくともお前と同じか、それ以上に。異形の私を受け入れてくれたのは、竜子の一族のみだ。……帰る場所というものがもし仮に私にもあるのだとすれば、それはあの一族のある島だけだろう」
淡々と語られるそれでまた頭に血が上りそうになったが、口を開く前に包帯だらけの手で軽くそれを制された。
「だが、帰りたいとは思わない。彼らはとても好意的だし私を一族の者として迎えてはくれるが、私の居場所はあそこにはなかった。私は彼らの仰ぐべきものになりつつあることが嫌で、島には戻らないと決めたのだ。最初にあの島を出てから十年以上も経つが、その間一度も帰ったことはない。父母も既に他界している。──長く彷徨い、私が求めていたのは死に場所だった」
それは知っているだろうと微笑うみたいに目を細められ、返す言葉に詰まった。フェイルオンはにこりと笑みを深めて、穏やかに続ける。
「その私が、初めて生きたいと思った。自分を誇らしくさえ思えた。私の剣は竜子の象徴になる為ではなく、お前に捧げる為にだけある。その為にしか、もう振るわない。何れ他の仕事など請ける気はないのだから、竜子の名を捨てることも厭わない。そんなもののせいで、サウスリザの側にあれないほうが苦痛だ」
「──そう言ってくれることは嬉しい。だが、私はお前に一族を捨てろだなどとは言いたくない。お前がどう考えていようとも、それは……私の矜持が許さない。認めない」
彼女にはフォンセイを捨てることはできないし、そうしろと言う相手は信用できない。だからそれを人に強いたくないというのは、身勝手な主義に過ぎないと分かってはいる。それでも故郷や一族を捨てるという行為は、それをしない為に戦争まで引き起こした彼女にはあんまり耳に痛かった。
そんなことを言ってくれるなと自分の手を痛いほど握り締めながら呟くサウスリザに、フェイルオンは気遣うように手を伸ばしたが肩に触れる前に躊躇ったように引いて拳にかえた。
「お前が望まないことは、何一つとしてしない。誓う。だが私がお前の剣になると言ったのは竜子としての言葉ではなく、ただ私としての言葉だ──誓約だ。それだけは、例えお前にも譲れない」
言霊にも誓いそうなその強さに、重ねた視線を外すこともできない。強い深紅に柔らかな金色を細めて、優しい異形は小さく微笑った。
「竜子の剣は、守るべきものだ。それ故に傭兵として雇われるだけでなく、心酔や義理に依って契約を結ぶ例は他にもある。それならば、私が竜子であっても問題はないか?」
「……ものすごく詭弁に聞こえるが」
「だが、事実だ。それに私が契約したのはフォンセイの長ではなく、サウスリザに、だ。個人の剣を務めの為に振るうのは、お前の自由だろう」
詭弁の上にまたそれを重ねて肩を竦めるフェイルオンに、呆れた眼差しを向けたものの。あんまり優しい眼差しに返せる言葉も失くしそうだから、好きに言っていろと呟いて夜へと視線を変えた。
静謐な夜は、普段と何も変わらない錯覚を覚えさせるけれど。ゆるりと吹く風や佇む闇の精霊たちは、彼女の前ではいつものように歌わない。生まれて初めて精霊の声のない静かすぎる夜に肩が震えたのは、肌寒い風に堪えかねたのだと自分に言い聞かせておいた。