7.守る重さ
躊躇いがちに扉を叩く音が届き、彼女はふと沈み込んでいた意識を引き戻したように紫水晶に長たる光を戻して扉を遠く窺った。けれどそれに応える前にもう一度視線を戻してきて軽く顔を顰め、
「私に膝を突くな。私はお前に傅かれたくはない」
いいなと強く言い置いて扉のほうへと向かいながら、構わん開けろと声を張る。
フェイルオンは彼女の言葉を大事に受け止めて立ち上がりながら揺れる射干玉と、失礼致しますと声をかけて開けられた扉の向こうにいる男を見る。柔らかな金色の髪と深蒼の瞳をした男は視線が合うと僅かに驚いたように目を瞠ったが、特にどうとも言わないですぐに彼女へと視線を戻すと深く頭を下げる。
「辛いお役目にございました、長」
「お前こそ、これよりひどい務めを与える。すまない」
「いいえ、長のお役に立ってこその補佐官です。長とノーズ様のご心痛を思えば、私の苦労など如何ほどのものでございましょう」
それでも労われる言葉に喜色を浮かべて頭を下げる補佐官の男の気持ちなら、痛いほど分かる。彼女は世話をかけると呟いて、男の肩を軽く叩いた。
「ノーズはもう発ったか」
「はい、先ほど。私も追って出立致しますが、──長にご挨拶にと」
最後にの言葉は賢明にも飲み込んだようだが彼女にも伝わったのだろう、その柳眉は切なげに顰められる。失言を恥じるようにまた頭を下げた男は、それから、と躊躇いつつ口を開いた。
「シュグナを砂漠内海にて叩く、ご命令に相違ございませんか」
「そう告げたはずだが。不服か」
「まさか、そのようなことは! ですが、砂漠内海では些か我らが領域に近いのではないかと」
補佐官の言葉に聞き慣れない単語を見つけ、フェイルオンはこの近辺の地図ごとそれを思い出す。
彼が拾われた“緑成す聖地”は町から見て東に位置しており、その東には泥炭地が細く繋がっている。けれどそこを除けば、周りにはぐるりと遠浅の海が広がっていた。その先の湿原に至るには踝まで浸かる浅瀬を渡るしかなく、かつてのフォンセイは砂漠に囲まれていたという史実に基づいて砂漠内海と呼ばれていたのではなかったか。
補佐官が危惧するようにそれはフォンセイにあまりに近く、北に広がる湿原で交戦したほうがよろしいのでは、と控えめに進言する補佐官にゆるりと夜が揺れた。
「今回の目的は、シュグナの横暴に黙して従わぬとの表明だ。でき得る限り打撃を与えて、怯ませなければならない。後退させて、時間を稼げるほどにはな。けれど戦い慣れない我らにとって、遠征は単なる負担だろう。元よりシュグナの本拠地を叩く気など毛頭ないのだから、気力体力共に充実したまま迎え撃つほうが重要だ。砂漠内海なら、まだしもこちらに地の利もあるだろう」
とにかく相手を引かせることが先決だと断言した彼女に、賢明な判断だと言葉に出さず感心する。戦いたくない、人死にを出したくないというのはただの感傷ではなく、そうする為にでき得る限りを選べるからこそ彼女は今の地位にあるのだろう。
「長のご深慮も窺えず、出過ぎたことを申し上げました。申し訳ございません」
「構わん。フォンセイに残る者を思えば、お前の言うも尤もだ」
苦労をかけるなと苦く笑った彼女は、とんでもございませんと慌てて顔を上げる補佐官を真っ直ぐに見て表情を引き締めた。
「無茶を言うのは承知だ、けれど今回だけは負けるな。あの馬鹿どもに、吠え面をかかせてやれ」
「御意のままに。例えこの身にかえましても、」
「言っておくが」
恭しく答える補佐官を遮って、彼女は仏頂面に近く顔を顰めた。
「シュグナの阿呆どもに、再びの交渉を持ちかけてやるのもお前の務めと知れ」
私に断りなく死ぬことは許さんぞと、勝つことと同じほどの無茶をそうと知りつつも言いつける彼女に補佐官はどこか泣き出しそうに笑い、先ほどよりずっと深く頭を垂れた。
「長の御心に背かぬよう、尽力します」
「──期待している、と皆にも伝えてくれ。時間を取らせたな」
切り上げたくなさそうに告げた長の言葉で、補佐官も頭を上げた。
「それでは、御前を失礼致します。長に置かれましては、本日はもうお休みくださいますように」
「何を馬鹿なことを。まだ朝も早い、──分かった、そんな顔をするな。倒れては洒落にならんからな、休みもするさ」
ひどく悲しげな顔をしてそれだけで彼女を動かした補佐官は、そうなさってくださいと少し笑ってまた彼と視線を合わせてきた。ちらりと彼女を窺うが気づいていないようなので、長、と軽く注意を引いた。
「ああ。怪我人を放置したままなど、すまないことをした」
「それは構わないが、私も部屋に戻るとしよう。確かに傷口が開いたかもしれない、……先ほど替えてもらったばかりだと言うのに」
広がっていた深紅は止まったが、包帯にしては鮮やかすぎる色の落ちた左手を軽く持ち上げながら言うと、彼女は何度か頷いた。
「もう一度替えるよう、ミレイアに頼むといい。大方、お前を案内してきたのも彼女だろう? 階下で待っているだろうが、いないようならば連絡を、」
「長、お休みくださいと申し上げました。御前を失礼させて頂くついでと言うと申し訳ありませんが、私がご案内させて頂きます」
「そう、か。分かった、では頼む。客人、お前こそ大人しく休むようにな」
「そうさせて頂こう」
顰つめらしい顔をして言われるそれに笑い出しそうになりながら頷くと、じろりと睨んでくる紫水晶から逃げるように一礼して踵を返した。補佐官も丁寧に一礼して部屋を辞し、扉を閉めると左手を示されるのでそちらに足を向ける。遅れてついてきた補佐官が少し足を速めて隣に並び、複雑そうな顔で見上げてくるのを静かに見下ろす。
「何か言いたいことがおありのようだが」
「……ないはずがない。だが、あなたは長の客人であられる。長がよしとなさるを、私がどうこう言う権利はない」
悔しげに呟き、補佐官は小さな溜め息を隠して挑戦的に見据えてきた。
「シュグナの手の者ではないとの証明を、今更求めはすまい。だが、長に害をなさぬ保証もできぬなら今この場で館を出て頂く。力尽くでも」
「よしたがいい。見るからに文人のお前に、竜子を追い出せる力はなかろう」
無駄死にだと微かに笑ってやめておくよう諭すフェイルオンに、補佐官は驚いたように目を瞠って言葉もなく凝視してくる。慣れた反応なので放ったまま歩いていくと、階段を降り出した辺りでまだ上にいる補佐官が、待てと声を張った。
「竜子、──聞いたことがある、そんな名の傭兵一族がいて、今の竜子の中には真の龍の子がいると。それがあなたか!?」
「生憎と、私の両親は二人とも人だが。そう噂されているのは、間違いなく私であろうよ」
「では、ではまさか長が竜子を雇われたか」
「そうではない。私は偶然ここに立ち寄り、馬鹿に絡まれただけだ。怪我をして気が立っていたせいで、見逃してやれなかった。それが長にとっての救いとなったことは今は喜ばしいと思うが、あの時の私にはフォンセイもシュグナも興味がなかった。動向など知る由もないほどには」
ただの偶然だと重ねて笑い、また階段を降り出すと慌てて補佐官が駆け下りてくる。慌てすぎて躓き、転びそうになったのを助けてやりながら呆れた目を向けると、ならばと必死に縋られる。
「傭兵の相場は知らないが、その倍はお支払いする! 一生かかってもどうあっても必ず支払う、お約束する! だから、だからどうか手を貸しては頂けまいか。この地を、長をお守りする為には我らの力だけでは足りないのだ、……お願い致します。どうか、どうかフォンセイに力をお貸しください!」
必死になって頭を下げて縋られるそれに、すまないがと困って呟く。
「竜子は元より、通常の傭兵よりも高く取っている。中でも私は最高額に近い。倍などと個人では無理な話だ、やめておけ。それに、私はもう仕事は請けないと決めたのだ」
どうしても傭兵を雇いたいならば他所をあたったほうがいいと穏やかに勧めるのに、補佐官は射殺せそうな勢いで睨みつけて声を荒らげる。
「それは、……それはあまりに恩知らずではないか!? 長はあなたを客人としてお招きしたのだ、不審者と処断されても仕方のないところを救われたのだぞ! それにあんな今にも死にそうな怪我も、長があったればこそ今そこまで回復したはずだ! 少しはその長に報いてくれてもいいだろう!?」
「よせ。その言い方ではまるで彼女がその為に私を助けたように聞こえる、それは長の望まれるところではない。お前たちにも不本意だろう」
違うのかと尋ね返すまでもなく、補佐官は唇を噛み締めるようにして何とか罵倒を堪えている。どこまでも彼女の為にとの行動にフェイルオンは軽く目を細め、それにと言葉を重ねる。
「誤解があるようだが、私は何もフォンセイの為に働かないとは言っていない。正確には長の為だが、それはどこまでもフォンセイを含むだろう? 私の剣は、もはや長にしか捧げられぬ。故に仕事は請けないと言ったまでだ」
「っ、では……、では、ひょっとして、」
「竜子のフェイルオンは、フォンセイの長と契約した。何も案ずることはない。ただ怪我を癒すまでは客人と扱う、これが私と契約する時に長の出された条件だ。今回は手を貸せないが、次はもう私も出られよう。だから、出陣した男たちに伝えてやれ。生き延びよと。なれば次も生き残る機会を、私が増やしてやろう。全てを守ることは、いくら私にも不可能だ。それでも彼女の流す涙が一つでも少なくなるよう、私はこの剣を捧げる」
誓う、と静かに告げると補佐官は何か言いかけたように口を開き、言葉を探し出せなかったようでただ深く頭を下げてきた。その真摯にフェイルオンは僅か口許を緩め、彼女がそうしたように軽く補佐官の肩を叩いた。
「私は怪我を癒すことが今の務めだ。お前にも、彼女に託された務めがあるばずだが」
「ええ。ええ、私はそれを果たさなくてはなりません。どうぞフォンセイを──長を。何卒宜しくお願い致します」
「竜子は言葉を違えない」
約束すると頷くと、補佐官は崩れ落ちそうなほどに安堵した顔を見せた。
守るという意味の重さを初めて知った気はしたが、それはどこか心地好く胸に刻まれた。