6.龍となる決意
フェイルオンの一族は生まれ落ちた時から戦うことを教え諭され、剣が持てるようになった頃には男女の別なく戦い方を学んでいく。個人差は多少あれど十五になった頃には傭兵として一人立ちできるほどの実力を持ち合わせる彼らは、傭兵一族として広く世界に知られていた。
いつからそう呼ばれているのか、詳しいことは知らない。確かなのは彼らの一族が竜子と呼ばれ、始祖の代から戦うことを是としてきたという事実。何を守り、誰の為に戦ってきたのかは伝わっていないけれど、打ち滅ぼす為ではなく守る為に戦ってきたことは一族の誇りだった。
勿論、一族の中にも戦いに向かない者はいる。血を見るだけで気分が悪くなったり、戦うという行為自体に嫌悪を覚えて拒絶する者もいる。ただ幸いにして──竜子の一族に生まれた身としては、ということだが──フェイルオンは戦うことを怖いとも嫌だとも思わないので、戦いを厭う者がどうしてああも頑なに拒絶するのか、そのほうが分からなかった。
だからと言って力を持たない者を蔑む気はないし、弱いことが罪だとも思わない。守れと言われるのならぱ、従ってもいい。ただそんな理解の範疇外にいる誰かを、本気で守りたいと思ったことなど今まで一度もなかった。始祖の教えとして守る為の剣を、あれだけ幼い頃から説かれていたにも関わらず──。
(だから私は、人ではないのだろう)
人であれば簡単に解する心情も、きっと彼には備えつけられていないのだろうと自嘲する。人ならざるカタチをしているからそれを持ち合わせないのではなくて、心が欠落しているから異形なのだと言われたほうが納得できる。
彼は何も守らない。守れない。剣にかけるのは生きていく意義と、死に場所の模索。それだけ。
今回また生き延びてしまったのは別の死に場所があった為だと思うことにして、長がいるはずの部屋へと急いだ。この先には立ち入れませんのでと頭を振った女医が示した階段を駆け上がり、その階に唯一ある扉の前に辿り着く。
手を伸ばしかけた時、轟、と館を震わすほどの歓声ともつかない鬨の声が下から突き上げてきた。思わず圧倒されて開けるのを躊躇ったが、息を整えるとゆっくり押し開いて中を窺った。
まだ昼にもならず太陽は晧として全てを照らしている時間だと言うのに、何故かその部屋は薄暗い印象を受けた。謐とした闇が湛えられているというには生気に欠けて、諦念と絶望が渦巻いているかのような薄暗さだった。
この部屋のどこに長がいるのかと不審に眉を顰めつつ視線を巡らせれば、広すぎる感のある部屋の奥に露台へと続く硝子の二枚扉。背の高い優雅な石造りの手摺の影に、蹲るような姿を見つけた。
彼とは違い誰とも形を違えることなく、精霊を視ることのできる存在。人を見捨てて久しいとされる女神の祝福を、一身に受けているかのような稀有。異形の彼を前にして何も臆することなく、笑うことさえできた彼女は世界を気儘に渡る風にも思えた。
その留まらず吹き抜けていきそうだった風が、今はそこに吹き溜まっている──。
あんまり小さく、あんまり震えた頼りなげな姿。それでも誰にも見つからぬようにと声を殺し悲鳴を堪え、泣くことさえ自らに許さない彼女を弱いと断じることなどできかねた。気高く震える肩はとても細く、彼が力を込めて握れば簡単に折れてしまいそうなのに。それを誰が守るのだろうと考えて、俄かに不安になった。
ああして彼女が一人全てを堪えて蹲っていることを、誰も知らない。感づいていたのだとしても、側に寄ることなど許されていないと近寄られない。ならば彼女は後どのくらい、ああして独りでいなくてはならないのだろう。また優しく強く笑って誰かの前に立てるようになるまで、一人で膝を抱えているのか……。
気づいた時にはその部屋を真っ直ぐ横切って、硝子扉の側まで近寄っていた。
「何を嘆く」
自分でも驚くことに労わるようにかけた声で、彼女はまた我を取り戻してしまった。震える手を必死で隠して立ち上がる小さな姿を痛ましく見下ろし、嗚呼、と呟いた。
守りたいという感情とはきっと、今フェイルオンを苛んでいるものの正体なのだろう。
例えば彼の手がもっと人一人包めるほどに大きかったなら、それか彼女が彼の手に収まってしまうほどにもっと小さかったなら、すぐにもその手の中に隠してやれるのに。それができないのならせめて、強がって尖らせた声も突き刺さってくる眼差しも咎めるような言葉も吐き捨てられる自己嫌悪も、何もかも全て彼女の中から引き摺り出せたならいいのに。
泣くことさえ罪だと信じたような彼女が感じたままの風を取り戻せるのなら、その為ならば何でもできる気がした。自らを厭って彼女が崩れてしまわない為に差し伸べられる手があることの、何という誇らしさ。
「私を剣と使うがいい」
彼女が嘆く全てを切り裂こう。彼女を嘆かせる全てを斬り捨てよう。
初めて、自分という存在に感謝した。戦うに相応しいカタチで生まれたことを、そうしてそれが何より彼女の役に立つのだという事実は胸を熱くさせる。
人と異なることを嘆き絶望して膝を抱えていた、幼い自分に教えてやりたい。お前の感じている全ては、やがて報われる。ただ一人の為に剣を振るおうと思える強い感情を、確かに手に入れられる、と。
追い詰められている彼女に、突け込んでいるだけかもしれない。けれど彼は確かな力を持っているし、彼女はそれを拒絶し続けられない立場にある。打算でいい、計算ずくでいい、彼の手を取って違わず側にいてくれるなら、何が理由でも構わない。彼女の側にあって役に立てるのならば、フェイルオンにはそれ以上など望むべくもないから。
「──私が与えてやれるものは戦う相手と、望まぬ称号だ。フォンセイの長に従う愚かな異形、龍の名のみだ」
まるで嘆くような呟きは、彼女の葛藤を現わして揺れている。それでも彼には今まで受けたことのあるどんな名誉や言祝ぎよりも価値のあるその言葉に、知らず微笑っていた。
「異形に生まれついたがお前の為ならば、私はこの容姿さえ誇りに思おう。この力の全て、お前の為だけに振るおう。龍であってお前が私の生きる意味となってくれるのならば、喜んで──この身を龍と捧げよう……」
守りたいと願うまま、その生命と貴い心を守ることができたならば。あれだけ願った死の瞬間には、ただ絶望しかなかった生と訣別できる安堵だけを道連れにするのではなく、確かに満ち足りることもできるだろうと喜びながら頭を垂れた。