5.剣の誓い
どうにもならない波が、全てを飲み込むように押し寄せてくるのが分かる。止めるにはもう遅く、逆らえるだけの力はなく、できることといえばその波を宥め早く引くことを祈るばかり。客人を招いたり清めを行ったりと、すぐにもと迫られていた決断を引き伸ばすにも限度がある。
第一、最大の引き金は神聖を汚したシュグナの暗躍部隊の存在。屍さえ許さじと湧き上がる怒気に、よせと声を荒らげなければならなかった。
「ですが長、この連中は長を狙って、」
「よせ、と言った」
聞こえないのかと睨むように一瞥すると、今まで拳を振り上げて興奮していた彼らも水をかけられたようにしんとなる。けれどあまり側にはいない一人が、ですがと苛立ちを乗せて声を荒らげる。
「これらは長を、そしてこの地を狙って来た者どもです、言わば侵略者ではありませんか! こんな連中に、どうして慈悲をかける必要があるのです!?」
優しいを通り越して生温いと語気を強められ、サウスリザは発言した一人を見据えて目を眇めた。
「ならばどうすると言う。傷を負い死んだ者に、まだ剣を突き立てるか? 鳥や獣を呼び寄せて食らわせるか? 腐るままに放置して辱めるとでも言うのか? 弔うことを知るにも拘らずそんな残酷しか行えぬのなら、私は人でなどありたくはない。自らが生き延びる為の糧と食らい尽くす獣らのほうが、ずっと自然の摂理に適っているではないか……!」
ふざけるなと激昂すれば、憎しみで目を眩ませていた彼らもようやく項垂れて言葉を無くす。まだ怒鳴りたいことなら幾らもあったが、姉上、と横から小さく諌めてくるノーザラストの声に一つ息を吐いて気持ちを整え、痛い頭を押さえるように額に手を当てた。
「頼むから、馬鹿に愚かで応えようなどとしてくれるな。確かに皆の腹立ちは分かる、何故我らが踏み躙られ侮られねばならぬと私も思う、当たり前だ。我らの平穏を脅かす権利などくれてやった覚えはない、それも確かだ。けれど、我らに残された緑は火の手では次代へと繋げぬものだろう? 私の愛するフォンセイの民は、それを知らぬ愚かではないだろう?」
宥めるというよりは嘆くというほうが近いだろうそれに、誰も答えない。ただ穢れた神聖に吹き出していた悪意の塊が、徐々に薄れて流れていったのは分かった。
もう一つ溜め息をついて顔を上げると、ゆっくりとそこにいる全員を眺めて強く宣言する。
「死者には何の罪もない。志し半ばで生命を絶たれた彼らを、慈悲を以って手厚く葬ってやれ。もし仮に我らが他国で倒れた時、そうしてほしいと願う遺族の願いのままに。──私の愛する皆には、それができるはずだな? ……私を失望させてくれるな」
弔いを頼んで背を向けたサウスリザは、心配そうに窺ってくる精霊たちに僅かだけ笑いかけてそうと手を伸ばした。
「フォンセイにまだある、優しき精霊たちよ。絶対神の御許へと迷わず辿り着くように、旅立つ者に導を。そして彼らの残した穢れを払い、どうか我らが神聖に清浄なる風を吹かせよ。父祖の残したる緑が、違わず我が子らへと繋がるように……」
歌うように祈り、寿ぐように願う言の葉に応えて、緩く彼女の手から風が生まれる。神妙に死者の前で黙祷していたフォンセイの民を称えるように柔らかく、強く、ゆっくりと渦を描いて吹き上げていく風を追い、雲のない一面の蒼に目を細めた。
一時理性を取り戻させることは叶っても、もうこの波は止まらない。止められない。彼女が先ほど口にしたように、この地を、そしてそこに住む全てを踏み躙る権利など誰にもない。それを脅かす者があれば、起って戦うしかないではないか。愛すべきを守る為に。理不尽に立ち向かう為に。罪もない幼子が受け継ぐべき正当を失わず、繋いでいく為に……。
(所詮、風には波を荒立てることしかできない)
凪いだ海など、風自身に見られるはずがない。何故ならばそこに風があるからこそ、凪いでいた海も波を立てるのだから。
決断を迫るのは無言の視線、期待。彼女にはその背に負った全てが拳を振り上げる先を、示さねばならない義務があった。
躊躇いならば今もある。苦悩の末に決断し、それを命じて最早引き返すことなどできない今も。
どうしてそれを無くすことなどできるだろう? 戦端を開けばどれだけ多くの生命がこの手から零れ落ちて行くのか分かっているのに、全てを理解したまま命じてしまった。
理不尽な暴力にただ蹂躙され、嘆くだけの弱さしか持ち合わせていないのだとしても。それを天命と甘受することは耐えかねて湧き上がる怒号、吹き溜まる怨憎、日ごと募っていく殺意。否が応にも背を押され、屈辱をそうと知るならば起て、と。腕に炎を灯し、声を剣にかえて、見下ろした眼差しの先で湧き上がった鬨の声。
彼らが愛してやまない故郷を守る為にその生命を捧げよと命じ、彼女の声に全てが従った──。
守りたいの言葉は、単なる耳障りのいい言い訳だとも分かっている。
死ね、と。何の罪もない、額に汗して働くことを喜びと知っていた優しい彼らに、私の為に死ねとそう告げた。命じたのだ、彼らが逆らえないことを知った上で。
(この地など、くれてやればよかったのか……?)
一度全てが海に還った大陸では、他のどこを探してもそれ以上を望めない常に緑を湛える町フォンセイ。父母が次代の彼女らの為にとその身を削って研究し、遺してくれた唯一にして最高の財産。けれどそれはサウスリザだけのものではなく、天寿を全うすることなく散っていくだろう幾多の生命が、次代へと繋いでいく為に贈られた命懸けの愛情だったのに……。
それをする為にと意気込んで、地を震わすほどの勢いで張り上げられた鬨の声は到底耳から離れそうにない。一生それを覚えて生きていかねばならないのだと唇を噛み締めて自分に言い聞かせていると、何を嘆く、と唐突に後ろから声がかかった。
「嘆くな。フォーレイノの数多の祝福を受けた長よ」
死地に向かう彼らを見送った後、立つことも儘ならないで情けなくへたり込んだまま何とか視線を上げた先にいたのは、先頃客人として招いた異形の青年。服から覗く身体中に巻きつけられた包帯と、左手の甲に滲んでいる深紅がまだ動けないはずの重傷を教える。それでも彼は誰にも何にも頼ることなくその足で立ち、その金の虹彩を細めるようにしてサウスリザを見下ろしていた。
震える指先を隠したくて手を握り込みながら何とか立ち上がり、震えそうな声を取り繕う。
「寝ていろ、客人。お前が全身に負った傷は浅くない、……出歩くが無理をして、傷口が開いたのではないか」
じわりと広がりつつある左手の深紅を見たくなくて目を伏せるようにして忠告したそれに、彼は小さく笑った。
「平気だ、そう簡単には死ねない身体をしている。私を助けたお前が、一番知っているだろう」
「それでも斬られれば血は出よう、傷口が開けばまた血も出よう。血が足りなくなれば、死ぬことに変わりあるまい」
寝ていろと繰り返すのに、彼はゆっくりと頭を振った。たった四日前には血がこびりついていっそ黒かった藍色の長い髪が、ゆらゆらと目の前で揺れるのは何だか不思議な気がした。ぼんやりとそれを眺めたままでいたが、彼の腰に佩いた剣が鳴いたのに気づいて我に返った。
藍の髪から常人では有り得ない瞳へと視線を変えると、ひたりと見据えてくる深紅は彼女を見透かすかのように深く、穏やかな口調で問いかけてきた。
「戦争を、起こすか」
「仕掛けてきたはあちらだが、受けて立たねば無駄に我らの屍だけが築かれよう。私はこの町を緑の町のままで残したい、骸の山は要らぬよ」
「それを分かっているのならば、何を嘆く。お前は正しい選択をしたのだろう」
聞きたくなかった言葉を聞かされて、思わず頭に血を昇らせ声を荒らげていた。
「何をして正しいと言う? 幼子の父を、兄を、戦場に駆り立てることの何が正義だ!? 生命を賭けるほどの価値が、本当にこの場所にはあるとでも言うのか? この地は確かに緑には満ちていよう、けれど無駄に生命を散らすと知って戦いに赴くことのどこに、どんな意味があると言うのだ……っ」
守ると言う。この地を、彼女を守ると言って、あの優しい人たちは戦いに赴いた。彼らの全てには家族がいて、帰って来ない彼らの無事を祈りながらどれだけ眠れない夜を過ごすのだろう。
どうしてそんなことをしろと命じる権利が──義務が、サウスリザにあると信じられるのか。
手が、震える。どうしようもなく震える。自ら戦場に赴くわけではないのに、殺される人たちと殺していく人たちの生命が消える瞬間を思うだけで、震えが止まらなかった。彼女に本当に力があったならば、こんな無駄な戦いを起こさないですんだのに。始まってしまった戦争を、一瞬で終わらせることもできたのに。
何もできない。死んで来いと命じる以外に何もできないのに、彼らは何を求めるのだろう、望むのだろう。彼らに何を返してやれば、この償いは真実果たされるというのだろう……。
「……嘆かずにいられないのならば、私を剣と使うがいい」
どうということもなさそうに、いっそ無造作に投げてこられた言葉の意味を理解しかねてサウスリザは眉を顰めた。顰めたまま彼を見上げれば、深紅の瞳に金の虹彩を持つ男は静かに微笑んだ。
「私は所詮、闘いの中にしか生きられぬ竜子だ。一度は捨てたこの生命が拾い上げたお前の役に立つのならば、剣と振るえ」
「っ、私はそんなことの為にお前を助けたのではないっ!」
「そうだろうな。しかし私は助けてくれるなと乞うたはずだ、それを敢えて助けたのだから私に生きる意味を寄越せ。戦う場を私に与えろ。……私は、お前の役に立てるだろう」
淡々と語られるそれは、確かな事実なのだろう。あの穢された神聖の地には、三十に近い骸が転がっていた。その中で彼だけが辛うじて息を繋いでいて、その細い細い息の下、見なかったことにして行けとまるで縋るように呟かれた言葉を無視して助けたのは、何も兵士として雇い入れようと思ってではない。
血溜りの黒ずんだ紅の中、広がる藍が為す術もなく黒く染まって行く様がひどく心に痛かった。嘆きの影を色濃く落として動くこともできずにいる姿が、まるで彼女の故郷のようで──彼女自身のようで、手を差し伸べずにいられなかっただけ。それを欺瞞と罵られるならば甘受もしようが、その力を頼っての偽善と言われるのは不本意だった。
ぎゅっと唇を噛み締めて抗議するように目に力を込めると、彼は皮肉に笑うでもなく困ったようにして顔を顰めた。
「そんな目をしてくれるな……、お前が望まないのならば何もしない。ただ、何をして生きればいい。男手の殆どが戦場に狩り出されたこの地で、異形の私が何をして生きればいい」
戸惑ったように、ひどく心細げに問われるそれに、知るかと言うのが偽らざる本音だった。
「無理にここに留まることもない、怪我を癒せば故郷へとでも帰ればよかろう。戦争を起こした以上、私の手は客人まで守ってやれるほど大きくはない──、この地にある者さえ、守れぬのだから。それでも助けたを恩にして、客人を戦場に駆り立てるほどの外道にはなりたくはない。どれほど後世に愚かを笑われるとしても、罪なきに恩を着せて戦わせたが愚は残されたくはない」
これで話は終わりだと苦しく呟いて踵を返すのに彼は行く手を遮るように立ち塞がって、また声を荒らげてしまう前に片膝を突いて見上げてきた。
「客人として招いてくれたお前にだからこそ、私は剣になりたいのだ。お前の憂いを断ち切ろう。この怪我が癒えるまで、私はお前の客人として世話になる。だがこの傷が癒えたならば、お前は私と契約を交わすといい。私は剣となり、長に従おう。だからお前は……、私に生きる意味をくれないか。剣としてでいい──、私を必要としてくれ」
震える声と、真摯な瞳。熱の篭った乞いに、応えずにいられるほど凍てついていたわけではなかった。不安と不審の入り混じった目で見下ろしても静かに見返してくるその異形の瞳に、視線を揺らすこともできない。
「……私はお前に、何も約束はしてやれない。帰るべき故郷もやれなければ、私の生命さえくれてはやれない。私が与えてやれるものは戦う相手と、望まぬ称号だ。フォンセイの長に従う愚かな異形、龍の名のみだ」
だからよせと言外に含めて言ったのに、彼はひどく柔らかく、どこか誇らしげに微笑んだ。
「異形に生まれついたがお前の為ならば、私はこの容姿さえ誇りに思おう。この力の全て、お前の為だけに振るおう。龍であってお前が私の生きる意味となってくれるのならば、喜んで──この身を龍と捧げよう……」
腰に佩いた剣を彼女の前に捧げ、優雅に頭を垂れた彼の長い藍の髪が揺れた。