4.龍の子
その昔、大陸が一つだった時代があるという。それは彼が、まだ異形ではなかった頃?
皮肉に唇を歪めて問いかけると、彼とは違い完全な人として形成されている父親はひどく悲しそうな顔をした。
「フェイルオン・リアン、僕の自慢の息子。お前は、自分の身体が嫌いかい?」
言い聞かせるように、諭すように尋ねてくる父親を、彼は誰からも譲られた覚えのない真紅に金色の虹彩の入った瞳で静かに見つめ返した。極端に色素が少ない為の白すぎる肌、だというのにその髪だけは凍てついた冬の夜を思わせる藍。それだけでも十分に人は彼を見て眉を顰めるだろうが、他にもあまりに顕著な特徴として彼の耳は片方しかなかった。左は本来耳があるべき位置より僅か上、鹿のそれに似た短い角が髪の合間から覗くだけ。髪で隠れた首の後ろ、そして右の脇腹、左足の甲には髪と同じ色の鮮やかな鱗があった。
これで。この明らかな異形の姿で生まれ落ちて、どうして自分を好きになどなれると言うのだろう。両親共に美しいと呼ばれる類の容姿を持ち合わせた、ただの人でしかないのに。何故自分だけこんな姿なのか、問い詰めることがそんなに悪いことなのだろうか。
それでも彼の気持ちを例えば百分の一も理解できなかったとしても、今目の前にいる男性は間違いなくフェイルオンの父親だった。罵倒してしまうには嫌い切れずにただ眺めていると、
「昔はね、大陸が一つだったんだ。その頃には、偉大なる龍は人と共存していた」
悲しい顔のまま語られるそれを、もう何度繰り返し聞かされただろう。
今はもう人に愛想を尽かして世界から去ってしまったと言われる、人よりも遥かに巨大で力に満ちていた存在。魔力と神聖を併せ持たない限り見ることの叶わない精霊や神にかわって、信仰の対象であった時もあるという龍。彼にはきっと遠い昔混じったその血が色濃く流れているのだと、子供騙しの慰めなら父親からだけでなく、可愛がってくれる全ての人間から聞いた。
実際フェイルオンの身体は、人よりはよほど頑丈にできていた。あまりひどい傷を負うこと自体なかったし、万一傷を受けたとしてもその治りは驚くほど早かった。術を使いこなすには至らなかったが精霊の姿は視えたし、その分だけ見えない連中よりは自然を味方にできた。剣武の才にも恵まれていてそれを繰るに足るだけの体格をも備え、戦神の好意と贔屓を一身に受けたと言われるほど戦うには相応しいカタチ。
一族は戦うことを生業にしていたから、戦う為にいるような彼は幼少期の僅かを除けば驚くほどあっさりと受け入れられた。周りにいる戦士たちは半ば面白がって自分たちの得意とする獲物と技を教えたし、確かにそれらを吸収して益々神がかった強さを誇るフェイルオンは、かつての龍がそうであったように戦神の如く扱われたこともある。
けれどそうして周りの見る目が好奇から畏怖に変化したとしても、龍の子と羨望さえ込めて呼ばれるようになったとしても。その度に自分の異様を痛感して、叫びたい想いを喉の奥で何とか堪えなくてはいけなかった。
(何が龍の子か)
彼には人たる両親が、ちゃんとそこにいるではないか。この身体から人としてカタチを異にする全てを殺ぎ落としたなら、目の前にいる父親とそっくり同じ顔貌をしている。もしかしたならどこかで拾われてきたのではないかという甘い希望を、呆気なく無残にも打ち砕くほどに。
彼の故郷は別のどこかにはなく、この異相はただフェイルオンだけが持つ忌まわしい特徴なのだ。何代血を遡っても形を同じくする者はなく、万が一この血を繋ぐ羽目になってもこんな特別変異はそうは現れないに違いない。
ならば彼は、何故この姿をしているのだろう。今この時代にこの姿で生まれたことに、どんな意味があるというのだろう──戦うこと以外に。
いつしか暗く絶望のみ映して閉じられそうな目に、父親が入り込んできた。日に焼けて浅黒く、無骨なその手はけれど人としての柔らかさでもって、何をしても白いだけの彼の冷たい頬を包むようにして触れてきた。
「フェイルオン。君が僕の息子として生まれてきてくれたことを、僕は心から誇りに思う。君が君の存在を喜べないのだとしても、僕は君がここにいることを尊ぶよ。そして君も、いつか知ることを祈ろう。君以外の誰かの為に、自分の存在を喜べることを」
優しく、それでもどこか悲しい色を湛えたまま祈るように紡がれた言葉から隠れるように、世に二つとない目を伏せて静かに父親を拒絶した。
望みなんてない。祈りなんてない。自ら生命を絶つことは、こんな異形にも変わらず愛を注いでくれる両親に悪いからしたくないけれど、この先の人生には希望さえない。
(人生?)
呟いて自嘲するように唇を歪め、フェイルオンはゆっくりと目を開けて辛うじて人らしく見える自分の組み合わせた手を見下ろした。そして、改めて呟く。
彼に「人生」なんて、ない。何故ならば彼は、人ではないのだから──。
ゆっくりといつか見た日から抜け出すように覚醒して、フェイルオンは目覚めを促したのだろう部屋に入ってきた気配へと視線を巡らせた。
この三日で見慣れたのは医者らしい二人の男女で、一日に二度ほど訪れてくる女医がそこにいるのを見つける。包帯を変える時間かとぼんやり認識して身体を起こすと、起こして申し訳ありませんとかけられた声に小さく頭を振る。
最初こそ二人とも彼の容貌を見て少しだけ後退りしたり、上げかけた悲鳴を飲むように喉を動かしたが、それ以上は反応らしい反応も見せずに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。それでも怯えさせてはいけないだろうと、極力話しかけることはしなかった。自分の容貌がどれほど人に影響を及ぼすか、もう嫌でも知っている。長が客人として招くと言ってくれたからこそのこの待遇なのだろうし、無駄に恐怖を与えることもあるまいと努めて人形じみて振舞っていたのだが。
唯一話せるだろう長は、あれ以来見かけない。下手に長はどこかと問いかけて待遇に不満があると思われても困るので沈黙を保っていたが、さすがに寝る以外にすることもない暇を持て余して、つい問いか
けてしまった。
「──長を、見かけないようだが。お忙しいか」
何気なく尋ねたそれで、包帯を取り替えてくれていた女医の手が一瞬止まった。身許の知れない怪我人が長の様子を尋ねたので不審を覚えられただろうか、と危惧する前に作業は続けられ、お忙しいですねと幾らか悲しい口調で答えられた。
不審に尋ね返す前に女医は包帯を巻き終わったのだろう、寝台の横に立ち直すとフェイルオンに悲しげな笑みを向けてきた。
「お客人は、シュグナの暗躍部隊を退治してくださいましたとか。遅くなりましたが町の住人全てに成り代わりまして、御礼申し上げます。ありがとうございました」
深々と丁寧に頭を下げられて、いや、と慌てて否定する。
「私は別に、この町の為にと何かをした覚えは、」
「あなた様にその気がなくとも、事実は事実にございましょう。そのおかげで、長はまだこの地においでです。これが私たちにとって、どれほど有難いことか……。何度お礼を申し上げても足りません」
ありがとうございましたと重ねて礼を述べられ、彼は困り切って眉を顰めた。
「私は本当に……、感謝されるようなことは何も」
「いいえ。あの暗躍部隊が町に至っていれば、長の憂いは弥増すばかりにございました。シュグナが無茶な要求を突きつけてきてからと言うもの、長の紫水晶は常に悲しみを湛えておいでで。見かねても何もして差し上げられないのです、私どもは」
どれほど我が身が口惜しいかと噛み締めるように呟き、はっと我に返った女医は申し訳ありませんと頭を下げてきた。
「このような話、お客人に聞かせるべきではありませんでした。ですが、長は我々の希望なのです。意図されずともその長を助けてくださったあなた様を、我らは歓迎致します。何かご不便がおありでしたらば、声をおかけくださいませ」
今でも過ぎるほど丁重な扱いを受けているのだからと頭を振りかけたが、一つだけと躊躇いながら口を開いた。
「長に……会えないだろうか。ああ、来て頂くのが無理ならば私が伺ってもいい。もう歩くに不自由しないほどには回復した。お礼と他に申し上げたいことがあるのだが、」
言いながら女医の眉が悲しげに顰められるのを見て、小さく苦笑を滲ませて軽く片手を上げた。
「いや、すまない。無理を言った、忘れてくれ」
「いいえ。いいえ、恩人たるあなた様の行動を止められる者などございません。ただ──」
言葉を切って目を伏せ、女医はしばらく黙った後で沈痛そうに重い口を開いた。
「長は今、執務室の露台より出陣を見送っておいでです。お会いされるご気分かどうか……」
「出陣? まさか、どこかと戦争でも」
「シュグナです。連中はフォンセイの緑為す地を、そして何より長を欲しているのです。汚らわしい、他人の物を横取ることしか考えぬ下種な輩! 我らはこの地も長も、お守りしたいのです。だからこそ戦うことも厭いません。けれど、それは長の御心に背くのです。誰よりもフォンセイを愛される、優しい方ですから……。フォンセイに住む誰もに、傷ついてほしくないと。そうお考えなのです」
それでもシュグナに鉄槌を、と。暗躍部隊まで送り込んできた無礼者に制裁をと拳を振り上げる住人たちの声に折れざるを得なかったのだと、囁くように語った女医の言葉を最後まで待たずに彼は寝台から足を下ろしていた。
「お客人?」
「長は何処においでか。案内して頂きたい……、私は長のお役に立てるだろう」
あれだけの人数を斬ってもまだ折れることのなかった自分の剣を取り上げて、フェイルオンはその部屋を出た。