19.望んだ称号
彼女はどこにいるかの問いかけに、知らないと返る悲鳴はもう聞き飽きた。もういっそ全てを本当に滅するつもりで振るう剣は、がらくたに近い。竜子の鍛冶師が彼の為にと打ってくれた剣は、精霊の加護もあって普通の剣よりかなり強固にできているのに。あまりに斬りすぎ、血を吸いすぎたそれは、もはや斬りつけたところで相手の身体を砕く打撃にしかならない。
いい加減に、腕もだるい。頭にもぼんやりと血の霞がかかっている。今動けているのはただ彼女を救いたいが一心であり、それを果たした暁には彼はそのまま崩れ落ちてしまうかもしれない。けれどそれであの嘆く背中が救われるのなら、嘆く理由が排除できるなら、それだけでいいのに。
(サウスリザ……、サウスリザ)
迷子になって、ただ親を繰り返し呼ぶように。死に瀕して、最後に神の名を繰り返すように。フェイルオンの中で繰り返し呟き祈られるのは、彼女の名前。もう彼にとって唯一意味を成す単語はそれしかなく、それが失われることなどあってはならなかった。
彼女はどこにいるのだろう。こんなにも捜しているのに、どこに隠されてしまったのか。どれだけ血を捧げれば見つかるのだろう、どれだけ生命を差し出せば見つかるのだろう? 彼の手に戻ってくれなくてもいい、彼の手にあり続けてくれなくていい、ただ最後にこれを成したと誇る為に、誇れるように、それを最後にしてもいいからもう一度彼女の姿が見たいだけなのに──。
(サウスリザ。サウスリザ)
親を求めて泣く子供のように。許しを乞う罪人の懺悔のように。希う名前、姿、声、その全てが見つからない。どこにもない。目につく動く物全てを機械的に排除して進むけれど、それが果たして前なのか、少しでも彼女に近づいているのかも分からない。
しゃり、と、金鎖が鳴った気はした。それでも手も足も止まらなかった。
<長を守る藍の双剣。止まりなさい、静まりなさい>
諌める細い声が聞こえる気はするけれど、理解にまでは至らない。目を伏せたくなるほどの風が吹き、金鎖は泣き続けても煩わしい障害と雑音でしかなかった。
<長はご無事です、けれどここにはありません。藍の双剣、自身が折れてしまってはどうするのです。離れて行くなとは長がご命令です、聞きなさい!>
「煩い。煩い黙れ、彼女はそんなことは望まない」
<お望みです。北の殲滅を望んでおられないことは承知しているでしょう、止まりなさい>
柔らかい声が彼女の声の如く叱責しても、まだ振り下ろされてくる剣を黒の長剣で止め、もう紅く染まった白かったはずの剣で薙ぎ払った。
「邪魔をするな……、彼女をあるべき場所に戻す。それが私の最後の務めだ」
前を阻む敵か、未だ金鎖を鳴らす風か、どちらにともつかず吐き捨てると風の精霊が憤慨したように前に立ちはだかって指を突きつけてきた。
<勝手に最後を決めるが愚かはよしなさい。長のお言葉さえ聞けぬのですか>
「聞けない。言ったはずだ、彼女が自ら望んでも聞けない願いはあると。何故彼女が全てを一人で負わなくてはいけない? 何故彼女だけがその重石に耐えなくてはならない。私にできることは敵を屠ることだけ、ならば彼女の為だけにそうしよう。敵を無くせば彼女は戦わずにすむ。嘆かずにすむ」
私がその世界を作れるのならばそうしよう、と、熱に浮かされるように言うのに、風の精霊は嘆くように人間臭く額に手を当てた。
<長が為と振るう剣は、自身だけでなく長さえも異形とさせるのに。知ってなおその剣を長が為と振るうのですか、共に堕ちるが望みですか>
「いいや。いいや、彼女はそれを望まない。その世界を望むのはただ私だ。女神の加護篤き彼女を、誰が異形と罵れよう、蔑めよう。絶対神の手から逸れ、堕ちるはただ私のみでいい」
例え彼女と生きることもできず、死んで後に寄り添うことができなくても。もう二度の生を望めなくても、今彼女が生きる世界を彼女の息がしやすいようにできるのなら何も躊躇いはない。
そう、これはただ自分の心を救う為。だから彼女を巻き込むこともないのだと唇に呟き、懲りもせずまた前を塞ぐ誰かに剣を振り下ろす。
「阿呆。お前は私にまで剣を向けるのか」
それは私の為の物ではないのかと叱りつけるような声が耳を打ち、慌てて手を止める。それでも勢いがついて止まらない左手を無理やり右手で引き止め、やめろと怒鳴るように自分に命じて何とか剣先を反らして立っている誰かの足元ぎりぎりに振り下ろした。
一歩も下がることなく避けずに彼を見据えたままでいるのは、ずっと思い描いていた夜。闇の中でさえ昼と変わらず物を見せる彼の目に、唯一絶対の夜として映る存在。
「サウスリザ……」
呆然と呼んだ名前に、サウスリザは阿呆を見る目で彼を見下ろしながら腕を組んだ。
「お前、私の声も聞けないとは何事だ。誰が北に攻め入れと言った、この阿呆」
「サウスリザ……、やはり北にいたのか」
「今の今まで西にいた。見当違いで一部族を滅しようとするな、馬鹿」
苦笑するように柔らかく諌めてくるサウスリザは、今まで彼を止めていた風の精霊に手を伸ばし、手間をかけたなと労っている。その姿を見間違うことはないけれど確かにサウスリザなのだと確かめて、崩れ落ちそうになるところを何とか剣で支えて縋るみたいに紫水晶だけを見つめて問いかける。
「西に……、西に囚われていたのか? それならどうしてここに……」
「シュグナに一度雇われていた竜子がいるだろう、彼らが助けに来てくれた。後で東で会えるから、お前からもよく礼を言っておいてくれ」
「竜子……、ワングのツアイリィンが? 大陸を出ると言っていたのに」
西にいたのかとぼんやりしたままの頭で問いを重ねると、
「血に酔ってでもいるのか? お前らしくもない馬鹿な質問だ」
馬鹿をするからだとサウスリザは眉を顰めて嫌そうにした後、まぁいいと溜め息混じりに続ける。
「クシン王に、この戦争の仲裁をお願いした。おかげで西の馬鹿を易々と館まで通してしまったがな、無茶を了承してくださり迅速な対応を取って頂けた。大陸の近辺にいた竜子を雇って救出に向けてくださったのだ」
「そうか……、それなら北を滅ぼした後は西を落とそう」
ぼんやりしたまま口にすると、最初に館で対峙した時のように問答無用で殴られた。
「何を聞いているんだ、お前は! クシン王が仲裁してくださると言っているだろう、それを北も西も滅ぼしては私もクシン王も面子が立たんではないかっ!!」
「だが、お前を捕らえたが馬鹿だ」
「馬鹿はお前も同様だ! 私がよせという言葉も聞けんのか、この耳は飾りか!?」
力一杯金鎖をつけた右耳を引っ張られ、痛い、ととりあえず口にすると当たり前だと憤然と返される。打てば響くようなそれに本当に確かにサウスリザがそこにいるのだと実感して、フェイルオンは思わず崩れるようにして寄りかかり、そのまま抱き締めた。
「サウスリザ……、サウスリザ。本当にそこにいるんだな?」
「ここに私がいないなら、お前は空気を抱き締めて独り言を言っている危ない奴だぞ」
私は十分に重い上に苦しいんだがなと苦笑するみたいに言われ、それでも離せないで抱き締める。浴びすぎた返り血を彼女にも擦りつけることになるとか、血や死の匂いが彼女にまで移ってしまうとか、そんな気遣いさえ持てないでただ抱き締める。
しばらく黙って背を撫でていたサウスリザは、やがて息苦しそうに顔を押し退けてきた。
「いい加減にしろ、お前は私を窒息させる気か? まだ成すべきがある今、死んでやれんぞ」
そんなつもりはと口を開くのを軽く制して、サウスリザは仕方がない奴だとばかりに微笑った。
「それよりも、お前の格好を何とかしなくては。フォンセイの長が血塗れた龍をつれて東に赴くわけにはいかん。ノーズたちも心配していることだろうしな、一度フォンセイに戻ってから東に向かうか」
二度手間だが陣を使えば時間はかからんしな、と頷く彼女の言葉によほど不審な顔をしていたのだろう、また耳を引っ張ってきながらサウスリザは片方の眉を跳ね上げた。
「本当にそろそろ正気に戻ったらどうだ、今の今まで西にいたと言っただろう。ほてほてと歩いて移動したならまだ北にも至っていない」
お前の馬鹿も止められなかったとまた何度か耳を引っ張られ、そういえばと目を瞬かせる。
「以前はあった神殿に、移動陣がある。同じ陣がある場所になら、一瞬で運んでくれるという便利な代物だ。最近では使える者がない為に知られていないが、精霊が力を貸してくれるならばまだ使えるらしい。かつての大陸の主要都市には必ず一つあったおかげで、大陸間の移動にはさほど時間を要しないというわけだ」
「それは……、便利なのか? 奇襲には適しそうだが」
「物騒な発想をするな、それらを無くす為にこれから会談に赴くのだろうが。クシン王に間に入って頂けるなら、しばらくの抗争は有り得ない。それに私が望むなら、常に陣を使える状態にしてもいいと言ってくれる精霊がある。そうなれば少しは大陸に緑も戻ろうさ」
会談の前にいい切り札ができたと笑うサウスリザの言葉をようやく正確に理解して、小さく頷いた。
「それがあれば、フォンセイの研究者は各地に気軽に赴ける。緑の普及に手を貸すことも容易くなるか」
「そうだ、結局争いの種はそこだからな。フォンセイには確かに精霊の加護がある、そればかりが理由ではないが、だからこそ緑が根付いたのも事実だ。それを自分たちにも、と望むあまりの馬鹿げた争いだった。だがな、それを確かに望む気持ちに偽りはない。そして私は、それを叶えるに足る力をどうやらまだ持ち合わせるらしい」
どこか泣き出しそうに笑ったサウスリザは長い夜をかき上げて顔を背け、表情を隠した。
「十分な謝罪と、これ以上の理不尽を働かないと約束されたなら私は手を貸すさ。戦う理由など、ないほうがいい」
どうしてそれをもっと早く、協力を仰ぐという形で持ち込まれなかったのか。こんな馬鹿げた争いは、本当は起こさずにすんだのではないか。
今も彼女を苛んでいるのだろうそれらの葛藤は、失われた生命の数だけ降りかかるだろう見当は容易くついた。それをしないのは、サウスリザというカタチではないのだから。けれど。
「お前は間違っていない。何も、間違ってはいない」
こんな言葉を望んでいるのではないと知っていても、嫌ほど血に塗れて赤い手しか持ち合わせないフェイルオンのそれに説得力は皆無なのだとしても、それでも言わずにいられなくて。紫水晶を見据えて逸らさないまま、一言一言をしっかりと発音する。
驚いたように振り返ってきたサウスリザはその紫水晶が潤んだのを隠すように何度か瞬きし、ゆっくりと呼吸して向き直ってきた。
「私はお前を引き摺り込んだ──望まない龍とさせた。親父殿との約束も破り、盟約の精霊を使った。彼らに支払うべき代価もまだ支払っていない。この戦争の行く末さえ他人に押しつけるような愚かだ。もう絶対神の御許には導かれないだろう」
「それは私も同じだ。お前の言葉も聞かずに、もう多くを傷つけた。絶対神は、私を許されないだろう。だが、それでお前と同じ場所に逝けるのならば後悔はない」
「──それでお前はいいのか? 今ならば解放してやれる。もうお前を龍とすべき理由もなくなる。馬鹿げた長のくだらない我儘に従って剣を振るう理由は、」
ないと言い切られるより早く、フェイルオンは小さく首を横に揺らした。
「お前の願いはどれも私の望みだ、くだらないものはない。それをすることが私の生きる意義なのだ。お前が望んだ世界を確かに用意できたなら、それを誇りに果てることも構わなかった。けれど、またもお前に死ぬことを許されなかった」
またしてもだと繰り返し柔らかく恨み言を言って、フェイルオンは微笑った。
「私はお前の剣になると言った。戦争が終わったなら、お前を守りたいと願う剣は必要ないか? お前がいらないと言うのならば、この身を折ろう。だがまだ役に立つと思ってくれるならば、側にありたい。もう嘆くことのない背を、守り続けたい」
許してくれないかと、あの時に蹲って嘆いていた彼女にそうしたように膝を突いて見上げると、サウスリザは僅かに視線を揺らして震える声で答える。
「……私はお前に、何も約束はしてやれない」
「帰るべき故郷も、その生命さえも? 構わない、私はお前の中に故郷を見つけて、その生命を守りたいのだから。戦うべき相手と、望んだ称号はもう手に入れた。この後に与えられる物がないと言うのなら、一つだけ。お前の心の半分だけ、私にくれないか」
それだけでいいと笑うと、サウスリザは泣き出しそうに微笑って手を伸ばしてきた。
「半分だけ? また殊勝なことを言う」
「仕方がない。お前に出会った時から、お前はフォンセイの長なのだから。民を想い、国を憂う。それをしないお前は、私の知るお前ではない」
だからその半分でいいと伸ばされた手を恐る恐る取って、彼が汚してもまだ白い手の甲に恭しく口接けた。
「私の守るべき存在でいてほしい。側にあり続けることを許してほしい。もう龍の名を必要としない、平穏の中でも……」
緑は広がる。再びこの大陸に、彼女が望むだけ。かつての力を再現はしなくても、新たな姿はまた刻まれて連綿と歴史は続いていくに違いない。
その中に、何れ語られるだろう。大陸に再びの緑を広げたフォンセイの長と、彼女を愛し守り抜いた龍の話が。果たして二人が絶対神の御許から逸れたか、それとも導かれたかまでは分からない。それでもの生命の尽きるまで寄り添った二人の姿は教えるだろうから、今は二人が出会った戦争がようやくの終結をみせたことまでを綴り、この話を終えることにする……。




