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16.私の務め

 囚われの身に甘んじながら、サウスリザは深く息を吐き出して天井を見上げた。


(精霊を遣いに出して五日か。思ったより保ったほうだな……)


 心中に呟き、こんなことを聞かれるときっと全員に火がついたように怒られるのだろうなと苦く笑った。


 別段、進んで囚われる気はなかった。ただ精霊の守りがなくなればきっと館まで乗り込んでくるだろう馬鹿に見当はついていたし、会談を持つ為の交渉が上手く進んでいないのも事実。紳士的とは言い難い態度で乗り込んできたことに怒りは感じるが、安全を保証すると言う相手の言葉に疑いの余地がないのなら逆らう必要もなかっただけ。

 ついて行くことに決めて一番厄介だったのは馬鹿が乗り込んできたことではなく、館にいた全員が彼女の危機を見過ごせないことだった。自分の生命さえ顧みず今にも襲いかかりかねない勢いの皆を、喉元に短剣を突きつけた彼女が自身を楯に脅迫して黙らせるしかなかった。


「私の身の安全は保障されても、お前たちの場合は違う。目の前で私の大事な民が一人でも傷つくのを見せられるくらいならば、私はここで果ててやる。お前たちには戦う理由がなくなり、この連中にとってはひどい失態となるな。──これが最良の策、と言わせたいか?」


 淡々と告げるサウスリザが本気でやりかねないのを知って、彼女を慕う全員がやめてくださいと悲鳴を上げた。事の成り行きを呆然と見ているだけで短剣を取り上げることさえできずにいた無能な誘拐犯たちは、馬鹿を見る目で一瞥するとようやく我に返ったようだった。急いで伸ばされた手をその短剣で斬りつけて遠ざけ、サウスリザは傲然と宣言した。


「私はお前たちと共に、お前たちの主の元へと赴いてやる。但し私に一切手を触れるな。私には足もあれば耳もある、ついて行くと決めた以上は指示に従ってやる。私を物が如く扱うことは認めん」


 いいかと確認というよりは命令すると気圧されたように何度も頷く連中を見て、泣き出しそうな顔をしている皆に心配するなと笑ってみせた。


「仕方がないから少し行ってくる。じきに前線にも情報は伝わるだろうから、ノーズやフェイルオンも戻るだろうが。馬鹿な真似をしないで大人しくしていろ、と伝えてくれ。この機会に交渉の一つはしてくるさ」

「長……!」

「皆も早まったことはするなよ、私の生命を大事と思ってくれるのならば」


 自分の生命を大事にしろと言っても聞いてくれそうにない皆に自分の生命を楯にして釘を指し、何やら拍子抜けしている無様な誘拐犯について赴いた、というのが本当のところだった。


 ただ予定外だったのは、連れて来られた先がシュグナではなかったことだろうか。彼女を浚いに来た間抜けは北の人間の特徴を持ち合わせず、どこの傭兵かと思っていたのだが。目隠しさえ論外と言い放って歩き出した時から方角が違うことに眉を顰め、辿る道程が進むごとに不安は確信に変わった。


(まさか西が最初から絡んでいたとは……)


 道理で返事を寄越さないはずだと苦々しく吐き捨てた彼女は、西はパーナダムの族長に引き合わされることもなく館の一室に案内されてそのまま監禁され、現在に至っている。


(しかし二部族で手を組んでまで欲しいか、あの土地が)


 この大陸に住む者なら、喉から手が出るほど欲しい緑なのは分かる。奪ってでも欲しいという発想には吐き気がするが、実際にそれをする時に他の部族と手を組む発想はより理解できない。何とか奪取に成功したところで、またお互いの間で争いが生じるだけではないのか。


(馬鹿が馬鹿の理屈で考えたことなど、別に分かりたくもないが)


 争いに争いを重ねることが不毛だと、どうしてそのくらいのことが理解できないのだろう。枯れた大地に血を降らせて、そこにどんな花を咲かせようというのか……。


 降り積もる溜め息が目に見える形になるのだとすれば、もういい加減この部屋はそれで一杯になっていることだろう。溜め息で窒息というのも格好のつかない話だな、と皮肉に唇を歪めて、見るともなしにもう見飽きた部屋を見回した。


 窓は部屋の中央に一つだけ、分厚い鉄板に優雅な細工で透かしを入れた格子が嵌められている。そこから少し離れた唯一の扉は見目は麗しいものの到底蹴破れそうもない厚みの鉄製で、一見そうとは分からないほど彫刻に紛れさせた南京錠で閉ざされている。後は窓の見える位置に作りつけられた寝台が一つあるだけ、机や椅子さえも排除された家具の一切を除かれた素っ気無い部屋。


 寝台に浅く腰掛けて組んだ膝に肘を突くと、僅かに光を通すだけの透かし格子を眺めてサウスリザは皮肉に唇を歪めた。


「別段、普通の鉄格子でも構わんものをな……」


 あくまでも彼女は客であり、自身の意志で留まっていると示したいのだろう。彼女がそこにいる事実を知る誰もが信じないそれを、わざわざ主張する意味は多分一つだけ。


「それほど、龍が恐いのか……」


 呟いた声が自分の耳に痛くて、サウスリザは柳眉を顰めて溜め息を噛み殺した。


 分かっていた話だし、覚悟もしていた。けれどフォンセイから出ることのない彼女にとって、龍たるフェイルオンはそれでも歓迎すべき彼女の客人だった。恐れるべきとして扱われる彼を本当には知らず、血濡れた姿を目の当たりにした時と同じほど甘い覚悟だったのだと思い知らされる。


 厭っていたその異形さえ、役に立てるならばと照れたように笑った顔はまるで幼子のようだった。触れることが恐い、穢すことが恐いと、泣き出しそうな瞳で囁かれた。壊してしまいそうだと、怯えたようなそれはどこまでも本気だったらしく、笑うと拗ねたように顔を顰められた。

 何も変わらない──彼女や彼女を取り巻く全ての人たちと、何も変わらなかったのに。ただその姿形が人とは違う変異を見せているだけの人でしかなかった彼を、完全たる異形へと祭り上げたのは彼女。


「化け物と呼ぶならば、それは間違いなく私のほうだ」


 掠れたような声で自嘲し、突いた手に額を押しつけるようにして固く目を閉じた。しばらく側で見ていないだけで彼の顔がもうぼやけそうなことが怖くて、嘆くように頭を振る。


 フェイルオンに贈られた金鎖の片割れが、耳元でしゃりと小さく泣いた。






「どこに行く気だ」


 謐とした闇だけの占めるその空間で唐突に声をかけられて、フェイルオンは静かに顔を巡らせた。彼女が火眼金錆と呼ぶのだと教えた目で一瞥すると、小さな灯りだけを手にした仏頂面のノーザラストが一人そこに立っている。


「こんな時間まで務めとは、長代行もご苦労なことだな。戦火は一時収まったのだから、寝てはどうだ」

「それはあんたに言うべきだな。何よりの功労者だ、町に戻ったならば寛いでいて然るべきだろう。こんな闇の深い時間に何をしている」


 咎めるような声で問われたそれを、フェイルオンは小さく肩を竦めただけで受け流した。説明する理由を見出せないのと、それだけの気概もないというのが実際のところだった。


 苛々とした様子のノーザラストを思考から追い出して、緋色の染料を手に取って左手に描きつけていく。既に描きつけてある藍の染料に重ねて慣れた文様を綴っていると、深い溜め息が聞こえて小さな火が揺れた。影が、嘲笑うように細く踊る。


「一度目の戦場でもそれをしていたようだが、何かの呪いか」

「似たようなものだ。竜子りゅうしは戦いに出る時、神々のしるしをその身に綴る。生き延びるように。勝てるように。これをして戦装束は完成する」


 手の甲から中指の先まで緋色を綴り、左手に染料を取ると今度は右手に描きつけていく。


 戦場を駆ける疾風神はやてがみと、勝利を齎す戦女神。剣を打つ鍛冶神に、弓を射る狩猟神。七柱の女神においては炎の女神の祝福を賜り、光の女神の加護を知り、闇の女神の慈悲を希う。


 精霊文字と神霊文字を織り交ぜて綴られたそれらは、戦場に臨む彼に唯一与えられた故郷の風習。サウスリザが好きではないと辛そうに眉を顰めたから、二度と用いる気のなかった戦化粧。


 ノーザラストは彼女と同じくそれに軽く眉を顰めて、睨むように見据えてきた。


「俺がどうしてここに来たのか、分かっているんだろう」

「お前の話を聞く気はない、そのまま部屋に戻ってくれないか。そして夜が明けるまで気づかなかったことに」

「できるわけがない。姉上がいない今、ここの長は俺だ。竜子に勝手なことをされては困る」


 顰つめらしい顔で言われるそれは予想していたものだったので、フェイルオンは指先の染料を拭いながら皮肉に唇の端を持ち上げた。


「私は所詮、流れ者の竜子だ。契約の相手である長がない今、また別の戦場を探す──それだけだ」

「姉上を置いて? あんたにそれができるのか」

「──彼女との契約は私のただの気紛れだ。彼女のいない今、反故にして咎める者もいまい」


 通用するとは思っていない言い訳を口にするなり、ノーザラストは不愉快そうに顔を顰めた。


「姉上を助けに行く気なんだろう。よせ」

「行かない」

「じゃあどうしてわざわざ戦装束を纏う? 一時であれ停戦した今、どうしてそれを纏う理由がある。あの人を助けに行く以外の理由が!」


 怒鳴るように噛みつくように問われ、フェイルオンは小さく笑った。黒の長剣を取り上げながら、穏やかに答える。


「私は竜子だ。どんな平穏の地であろうとも私のあるところが戦場であり、私の着るべきはこれしかない。これが戦装束であると言ったのは、そういう意味だ。──私は、戦場しか知らない」


 初めて望んだ穏やかは、夜を湛えた紫水晶が確かに微笑うことのできる世界。幾百の生命に押し潰されそうになっても前を見据えるあの強い瞳が、心から安らかに、柔らかに、寛ぐことのできる優しい日々。その風景に、自分がいなくてもいい。ただあの心優しい夜が、自分を曲げることなく生きていけるようになるならそれだけでいい。

 その為に、今きっと彼はここにいる。ならば成すべきを果たすことに、何の躊躇いや迷いがあるだろう。


「姉上はそれを望まれない。きっとあの人はあんたの到来に嘆かれるだけだ、行くな!」


 悲鳴じみた懇願は確かに耳を打つけれど、もう彼には聞こえない。白の剣を取って手に馴染む感触を確かめながら、無理だと答えた。


「例え望まないと、サウスリザの口から聞いたのだとしても。私にも叶えられない願いはある。──譲れない、生命がある」


 穏やかを努めた声が、それでも僅かに震える。決意の堅さを示すように。譲れない生命が喪われることを恐れたように……。


 ノーザラストはもう十分に傷ついた拳をそれでも強く握り締め、彼女とよく似た面立ちに怒りを刷いて睨みつけてきた。


「あんたがこのまま大人しく、本当にここから出て行ってくれるならこの戦争はもう終わる。姉上はただ囚われているだけじゃない、今もなお俺たちを守ろうとして戦っている。この国を──この町を。姉上は誰より愛してやまないから、だからっ、」

「だからどうした」


 低く、たった一言尋ね返しただけでノーザラストは言葉を失う。口惜しげに唇を噛み締め、それでも次に言える言葉を探し出せずに立ち尽くす姿を視界の端に止めながら、フェイルオンは取り上げた剣を二本、腰に佩いて向き直った。


 死ぬな、と彼女は言った。必ず戻れと強く言われた。どれほどの無理かを知ってなお希われるそれがどれほどに血塗られた約束事であったとしても、誰の生命よりも誰の祈りよりも強く彼を捉えたから。その約束で彼女が笑ってくれることはなくても、せめて泣いたりしないようにとそれだけを夢見て応えてきたけれど。


 終わらせよう、この戦争を。彼女が望む穏やかを、確かに齎す為だけに。敵を殲滅させよう。


 彼女との約束を違える決意を持ちさえすれば、それは多分あまりにも容易く成し得ること。彼女が側にいない今、それを決意することにどれほどの抵抗があるというのだろう。


「やめてくれ、あの人を泣かせるなっ。あの人が望んでいるのは平穏なる時代だ、でもそこにあんたの姿がなかったら、あの人はもう二度と笑えない。あんたは俺からあの人だけでなく、あの人の笑顔までも奪うのか……っ!」


 やめてくれと切実な悲鳴を上げるノーザラストに、フェイルオンはゆっくりと藍を揺らした。


「私は何も奪わない。ただ彼女の為にならない物を一掃するだけだ。彼女が笑えないのは、今この地にある精霊の全てが乱れているからだ。それさえ正せば、彼女は再び笑ってくれる。そうしてここを誰よりも永く、平穏に導いてくれるだろう」

「……っ、あんたは何にも分かってない……」


 絞り出すように呟いたノーザラストに、ふ、と少しだけ声にして笑った。


「分かっている。彼女が嘆く理由も、戦う理由も。その全てを取り除けばいい……、そしてそれは竜子の私にしかできないことだろう」


 穏やかを還そうと短く告げ、ひどく複雑そうに顔を顰めたノーザラストを視界の端に置いたまま、フェイルオンは長い髪を後ろで一纏めにして踵まで届く上着の裾を払った。しゃり、と耳元で泣く金鎖を揺らして額当てをつけ、左手にだけ短い篭手をつけてゆっくりと息を吐き出した。


「最後だ。私は私の務めを果たそう──ここを出よう。お前が知るは、それだけでいい」

「姉上はいないのに?」

「必ず。彼女をこの国に、精霊に還そう。彼女が望むままの穏やかと共に」


 闇の中、見据える先に彼女の姿がないことは考えないことにした。

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