11.夜の軌跡
無謀なほどの気安さでフェイルオンが足を踏み出した時から、その湿原は舞台へと転じたかのようだった。正にそこは彼の独壇場で、雑然と並んでいるシュグナの陣営へと足を踏み入れた次の瞬間にはフェイルオン以外に立っている人間は見当たらなかった。いつ抜いたとも知れない二本の剣を緩く払う姿は遠くからも窺えて、それをよく見る為に人の波が引いたのだと言われても納得しそうなほどに静かだった。
勿論実際には、フェイルオンがその両手にある剣で強制的に場を空けたに過ぎない。多分に何が起きたか理解できないまま退場させられた者は、物言わぬ骸として転がっている。
しかし彼の明らかな異形は、その場から現実感を失わせているのかもしれない。悠然とそこに立つ姿は敵陣に攻め込んだにしてはあまりに穏やかで、そしてあまりに静かだったから、周りの恐怖が追いついていないというのが本当のところかもしれない。けれど戦場にしては間の抜けたその風景は、長くは続かなかった。
舞台の主役がそれを知っているように、フェイルオンは己のすべきをよく心得ていた。一度だけ自分が奪った生命に黙祷を捧げるように目を伏せた後、剣の持ち手を変えて構え直した。左手にあるのは闇を閉じ込めたような漆黒、右手にあるのは硝子のような質感の透明な白。それが彼の前で交差されたと思った時には、何の抵抗もなく倒れ伏す人間の数だけが増えていた。
続け様に倒れ込む音、弾き飛ばされてぶつかってくる身体、痛みよりは驚愕に歪んだ最後の顔と跳ね飛ぶ血。それらを一つずつ順番に認識して、ようやくシュグナに恐怖と恐慌が訪れた。
まず湧き上がったのは、悲鳴と怒号。自らの張り上げたその声に煽られて、シュグナは更に冷静さを欠いていった。或いは恐怖で我を失い、或いは自分を鼓舞する為に闇雲に剣を振り回す。それらはフェイルオンよりも味方を多く傷つけ、いきなり錯乱した舞台で一人落ち着き払っている彼は、相手の突き出す凶器さえ逆手にとって着実に敵を減らしていった。
本当ならばその驚異的な戦い振りに、味方でさえ恐怖を覚えるところだろう。けれど彼の双剣はひどく流麗で、いっそ見惚れるほどに美しかった。
殺意よりは未だ恐慌を乗せて突き出される剣を無駄のない仕種で避け、遠目にも重い鎧ごと相手を切り裂いた黒の長剣は陽光を反射しない。それさえもその身の内に留めたように深く煌いて、沈黙を強いる黒は夜の静謐を思わせた。長剣に比べて半分ほどの長さしかない白は脆く今にも折れそうな印象なのに、力任せの剣を受け止めても澄んだ音色を立てるだけでひび一つ入らない。しなやかに相手の力を受け流し返す白は柔らかに陽光を反射させ、そこに光があることを教える。
まるで優雅な舞いが披露されているかのような光景に、ただ目を奪われる。あの黒と白の剣の軌跡はどれほど多くの生命を散らしているともしれない、けれどだからこそあそこまで儚く、強く、人の目を引いてやまないのだろうか。
(だがあそこまで……、ああも圧倒的であれるものか?)
普通であれば百近い数に囲まれた一が今なお立っていられるだけでも十分な驚異だというのに、どこまでも目に鮮やかに死を撒く彼はもう既に敵を半分以上も片付けている。その事実を前に小さく息を呑み、呆然と眺めるしかできないノーザラストは自分の剣の柄を知らず強く握り締めた。
姉が長を継ぐのは生まれた時から決まっていて、その長を守る為と幼い頃から修練を積んできた。今ではフォンセイで一の使い手と言われるが、それは世界規模で見ればどの程度の力かもよく知っていた。
フォンセイが自衛の為に蓄えた力などささやかで、職業軍人なんて存在しない。ただ腕に覚えのある何十人かが大陸の外から移住してきた元傭兵や元軍人から手解きを受け、有事の際にはその場凌ぎくらいできるようにと訓練を積んでいる程度。勿論彼らには訓練より優先すべき生活と家族があるのだから、実際の戦力なんて本当に高が知れている。その中で一と言われたところで、何を喜べただろう。
辛うじて先の戦いでは生命を落とすことなく勝てたけれど、あれは単に敵が油断をしていたからだと知っている。長を守れたと喜ぶ人たちに水を差すわけにはいかないと黙っていたが、この先の絶対的な敗北は嫌でも予見できた。もう少し自分に力があればと歯噛みすることもできないほどの、圧倒的な戦力差。
勝利に沸く人たちの中で、ある程度は戦うことを知っている者なら誰もが暗くそう考えていたのに。
「……何だ、あの戦い方は」
呟いた声はひどく小さく、怯えているかのように掠れている。誰にも届かないという意味では有難いが、舌が張りつくような口の乾きは戦場にいる緊張からではなく、明らかに目の前で繰り広げられる典雅な死神の舞いによるものだった。
「龍の子、と」
隣から同じく掠れたような声で剣の使い方を教えてくれた元軍人が呟き、何度か咳き込んで声を戻してから、ちらりと視線を寄越してきた。
「竜子の中でも龍の子と呼ばれる男がいると、まだリナリーにいた頃に聞いたことがあります。若干十三にしてヴェザンの紛争を一人で収めた、しかもそれが初陣だったと聞いて、また誇大な噂を流すものだと笑った覚えがありますが。事実だったと、今なら認めますよ」
「……あれが、その龍の子だと?」
「正にそうでしょう。彼の容姿も、あの戦闘能力も。彼以上に龍の子と呼ばれる者がいたならば、私は竜子には一生涯近寄りませんよ」
「──あれが龍の子だとしても、俺は近寄りたくないぞ」
むっとしたまま答えたそれに、隣の男は力なく笑った。それからまだ抜かない剣の柄に手をかけて、遠い竜子に視線を戻す。
「敵にすると恐ろしいですが、これほど心強い味方は他にないでしょう。長もまた、とんでもないものを雇われたものです……」
「違う、あれは雇われていない。フォンセイにそんな金があるなら、とっくにシュグナにそれを叩きつけてこの馬鹿げた事態を終わらせているに決まってるだろう。あれは、ただ姉上に仕えているのだそうだ」
顔を顰めるようにして説明すると、男はひどく驚いた様子で振り返ってきた。
「長は、龍の子までも治めるのですか!?」
「姉上が望まれたのではなく、あれが勝手に仕えたいと言っただけだ。客人として招かれた姉上に、感謝でもしたんじゃないか」
「それまた……、長のご人徳というか何というか……」
は、と息を吐き出すようにして頭を振り、男は剣にかけていた手で自分の額を押さえた。
「この紛争も、言ってしまえば長をお守りする為に起きたことでしょう。正直、その心意気だけで勝てるものかと危惧していたものですがね。勝てそうな気がしてきましたよ」
もう一度今度は長く息を吐いて、男は苦く笑った。ノーザラストはそれには答えず、姉に仕えるという竜子に顔を巡らせて、龍の子、と口の中で小さく呟いた。
漆黒の風を纏った純白の龍。その邪魔にも見える長い藍の髪と双剣の軌跡は、まるで彼が夜を従えているようにも見えて。
「姉上ともども、化け物となるか」
誰の為に、何の為に?
サウスリザの為、フォンセイの皆を守る為、と見え透いている答えに吐き気がして、ノーザラストは頭痛を堪えるように目を伏せて顔を顰めた。戦場で馬鹿なことをしていると自嘲する気にもならないのは、仮にここで身体を投げ出してしまったところで怪我をする暇もなくこの戦いは終わると知っているから。
血の匂いのする風が、不意に止んだ。フェイルオンは本当に一人きり、シュグナを退けたのだ──。
 




