1.血みどろの出会い
決断を迫られていた。時間はもうないに等しい。無駄に引き伸ばせば最も意図しない方向に転がりかねないのは分かっている、今すぐにも執務室に引き返して指示を出さねばならないくらい理解しているけれど。
何を迷う、と自問しながらも遠く執務室から離れ、町さえ出て苛々と進める足は止まらない。
やるのか。やらないのか。言ってしまえばその単純な二者択一だった。やらないで自分を犠牲にするか、やって大量の他人を犠牲にするか。そのどちらか一つを選ぶ、ただそれだけ。
闇を紡いだような漆黒をぐしゃりとかき乱し、フォンセイの長は深い溜め息を吐き出した。
自分を犠牲にするだけで真実すむのならば、やらないほうを選んでもいい。自己犠牲なんて言葉の不誠実さには皮肉に唇が歪むけれど、実際問題として多くの人死にを出さずにすむのならば自分の自尊心や屈辱など如何ほどのものかとも思う。
ただ自分というカタチには、望むと望まざるとに関らず多くの物が圧し掛かり押しつけられている。つまり自己陶酔で擲つ物はこの身一つに留まらず、長として仰いでくれる人たちの期待や希望や憧憬や尊敬、信頼その他諸々の一切合財を差し出すことと同義。
生命に比べたら、と秤にかけること自体を鼻で笑う者もいるだろう。けれど生まれてからずっと共に生きてきた人たちの顔から笑みが消えるという事態は、どれほどに深刻なことか。
ただ息をしているだけの状態で生き繋ぐことに、意味を見出せる人たちばかりではない。様々の犠牲を払ってようやく手にした平穏と安寧を無残に奪われ、それでも生きているのだからましだろう、などと。
どの口で言えるというのか。どう伝えれば、それに笑顔で肯定が返るというのか。
「恨むぞ、親父殿……」
小さく呟いたそれは、思ったよりも泣き言に近くて舌打ちが続く。誰かにこの状況の責任を問うが行為をする自分が腹立たしくて憤然と足を速めたが、唐突にぴたりとそれを止めた。
少しでも落ち着こうとして知らず足を向けていたのは、豊かな緑を湛えた場所。優しい風が葉を揺らし、淡く踊る木漏れ日までも伝えようと香る木々の緑が、もう辺りを包んでいてもいい頃なのに。
風上から漂ってくるのは、粘つくような感触さえ伴う血のそれ。吐きそうなほどの匂いはもうかなり先刻からしていただろうに、まったく気づかった自分の迂闊さに顔を顰める。
けれどいくら思考に沈み込んでいたからといって、剣戟が聞こえたならばさすがに気づいていたはず。何の物音もしなかったがと心中に不審を呟いて、今更ながら手で口を塞ぐとそれでも容易に感じ取れる匂いを辿って行く。
血臭が流れてくるのは、右手に広がっているそれぞれが一杯に手を広げた木々の連なり。森と呼ぶには少し疎らな、それでもフォンセイが誇る豊かな緑の神聖。そこで人死にを出すとはいい度胸だと毒づきながら辿っていくと、その緑と浜辺の境の辺りで血よりも死臭が強くなった。
あまりに強いそれに思わず眩暈を起こしかけ、小さく口の中で何事かを呟いた。と、柔らかな清い風が死臭を散らすように後ろから吹きつけてきて、少しだけ呼吸が楽になる。
けれどはっきりした視界に映ったものは、到底喜ぶべき光景などではない。三十近い数の屍が血の海に倒れ込み、恨みだか後悔だかに目を見開き最悪に花を添えている。
「……なんて有様だ……」
歯を噛み締めるようにして呟き、気乗りしないままざっと死体の顔を眺めていって僅かだけ安堵の息を洩らした。フォンセイに暮らす人々の顔は把握しているし、知らないのは精々生まれ立ての赤子くらい。幸いにしてそこに子供の姿はなく、どれも見たことのない成人男性ばかりだった。
ただ、気になるのはその服装。男たちの纏う服はどれも夜陰に紛れて行動するには相応しく、暗い目立たない色をしている。荷物らしい物は何もなく、物騒な凶器だけが血に塗れてそこここに転がっている。彼らが何を目的に来たか最早詳細を知ることはないが、間違っても平和的話し合いを望んでいたようには見えない。
「大方、私の身柄の拘束でも頼まれたというところだろうが」
大人数でご苦労なことだと鼻で笑い、多分にフォンセイから北にあるシュグナの一族が差し向けた連中だろうと見当をつける。
どうせ探したところで身分を示す物は身につけていないだろうが、その身体的特徴を完全に消すことはできていない。北の人間特有の白さと、尖り気味の顎はシュグナによく見られるそれ。ついでに言えば丁度足元に転がっている男のこめかみには、鮮やかな翠が目を引く刺青がある。その色をここまで美しく入れられるのは、シュグナの刺青師しかいない。
「迂闊だな、お前たちも」
そもそもこんなところで死ぬ気はなかったのだろうが、それにしても暗躍を主とするのならば顔を無くす努力くらいしておくべきだと怠慢を論っていると、何かが視界の端で動いた気がした。
気にかかって顔を巡らせた先で、見つけたのは藍。血の海に広がって黒ずんで見えるのは、大量に血を含んでいるからだろう。それでもまるでそこにいることを主張するように、その藍色はもう黒にも近い鈍い赤の中でその色を確かに教えた。
何故かそれを見過ごす気になれなくて、気づいた時には足をそちらに向けていた。
動いたように見えたのは、それではないかもしれない。万一息があった場合、不用意に近つくのは賢明ではない。
頭ではそう理解していたが、なかったことにして町に戻ることはできかねた。血の穢れなど早く清めなければならないという長としての務めより、一個人としての興味を優先させるほど自分は馬鹿だっただろうかと自嘲しながらも、死体や血を踏まないよう気をつけながら近寄っていった。
手を伸ばせば届くほど近く眺めれば、その藍は周りの屍とはまったく違う見たことのない服を着ていた。基本としては黒の詰襟だが両袖を有しておらず、細い革帯で留められてはいるがその上着は足首まで届きそうに長い。同じく黒い洋袴は足首で絞れるようになっていて、靴はなく裸足。
それらも十分に興味深かったが、より気にかかるのは本人のほうだろう。深い藍の髪をしているにも関わらず、極端に色素が足りていないとしか思えない白すぎる肌。しかも本来耳があるべき位置にそれはなく、その少し上に鹿に似た短い角が覗いている。
人にあるまじき姿を見てさすがに軽く目を瞠ったが、人かどうかよりは敵かどうかのほうが取り急ぎ確認せねばならない事項だろう。そしてざっと観察したところでは、この藍が少なくともシュグナと友好関係にあるとは思えなかった。
それならば助けてやるのが筋だな、と誰かに言い訳するように呟いて微動だにしない藍を見下ろし、
「生きているか」
自分でも思うほど素っ気無い問いかけに、ゆっくりと目が開かれていった。
これだけ肌が白いのだから、紅い瞳をしているだろうと予想はしていた。けれどその虹彩は金色で、ますます人ならざる者を思わせた。ただそれはひどく綺麗な色合いで、ほうと思わず感嘆する。
名も知らない藍はその朱金で射竦めてきて、十中八九が端正と表現するだろう顔を苦痛そうに、嫌そうに顰めてみせた。
「……、て……ろ」
ぼそりと何かを呟かれたそれでふと我に返り、魅入られていたその瞳から何とか声を紡ごうとしている唇へと視線を変えて問い直す。
「何か言ったか」
「、……、……な……け」
必死に紡がれるそれを聞き取れず、躊躇うことなく側にしゃがんで顔を近づけた。
「聞き取れん。何だ」
はっきり言えと無茶な要求を突きつけると、人にしては変わったカタチをした藍はそれを最後と決めたように何とか声を張る。
「捨て置け。見捨てろ。……見なかったことにして、行け」
内臓を傷つけているのだろう、呼吸のたびに笛を吹くような音が混じった声はようやく意味を成す言葉として届く。ただ聞こえたそれがどうにも不愉快で、ぴくりと片方の眉を跳ね上げた。
「行け……、──このまま、死なせてくれ……」
それは確かな懇願。死に瀕した人間が、神に対して生きたいと切望するのと同じほどの強さ。そうしてそれよりは容易く、神にあらざる自分にも叶えることのできる願い。
けれどどうにも馬鹿げた信じ難いそれに、叶えてやる気など湧くはずがない。
「っ、ふざけるな……っ!」
生きたいと思えない理由はあるのだろう、知りたくもないがそうでなければいくら何でもこんな愚かを呟かないはず。ただそれはどうにも気に触れて癇に障って、気づけば激昂していた。
「こんなところで死なれて堪るか、息があると知った上で見捨てろだと!? 自殺なら他所でやれ、私の領域では許さない、認めないっ。何があっても助ける、悔しければさっさと動けるようになって他所で死ね!!」
力一杯怒鳴りつけると、人外を強調するような朱金の瞳が僅かに瞠られた。そうしてまた何かしら言いかけるので、聞きたくないと吐き捨てて顔を背けると憤然としたまま右手を軽く差し出した。集い来いと短く呼びかけると即座に風が緩く吹き、差し出した手の上で吹き溜まる。
いつもながら素直に従う精霊たちに少しだけ気を取り直し、町に戻って呼んでこいと言いつけると名残惜しそうに二度ほど渦を捲いてそのまま溶けて流れていく。行く先を追うように振り返ると、驚いたような気配が足元からした。
「……精霊、使い」
呟きを聞き咎め、下ろしたくなかった視線を下ろすと藍が嘆くように揺れた。
また死ねないのか、と絶望的なそれに頭を踏みつけたくなったので、不愉快だと顔を顰めて二度と視線を下ろさずにおいた。