ちんちんが痒くて辛い
〜この物語をなんとなくスピルバーグと白鵬に贈る〜
①
当たり前にあるものを失う事が、どれだけ辛いかは失った人しかわからない。
こんな話を言うと、「家族」とか「友人」とか「恋人」とかやたら綺麗話にしたがる輩がいるが、俺が言いたいのはそんな複雑なものじゃない。
例えばトイレットペーパー、米、下着のかえ、シャープペンシルの芯、タオルケット、洗剤、ビニール袋。
それぐらいそれぐらい身近で単純な物だ。
これらに感謝したことがあるだろうか。
僕は無い。
いつもいつもお世話になっているはずなのに、ある事が当たり前になっている小雑貨達だ。
そんな当たり前にある物だからこそ一番嫌なタイミングに気づくものだ。
なんでこんな話をしたのか、本筋に移ろう。
率直に言おう。今とてもちんちんが痒い。
この場に限ってだ。鎧の中は蒸れて辛い。
今、かゆい部位をかきむしれたらどれだけ幸せな事だろうか。
股間に虚無のBEAT。不定のリズムでかき鳴らす痒み。
ギプスという物をご存知だろうか。
怪我をした時に巻くアレだ。
治りかけのケガが痒くても爪で引っ掻くことが出来ない煩わしさを想像して欲しい。
特注の装甲は全攻撃反射。
一般的に見て最強クラス。
中の上程度の敵の攻撃ならば、痛くも痒くもない。
それどころか、攻撃された感覚さえ覚えないだろう。
「全攻撃反射」と言うと聞こえはすこぶるいい。…がそれは言い換えれば、鎧の下には自分さえもが干渉出来ない。という事だ。
つまり、俺が指先で擦った程度で局部的かゆみは何とかなるものでは無い。
また股間のフケがBEATを刻む。
俺は顔をしかめる。
昨夜は連日の戦闘の疲れから、風呂に入らず寝てしまった。
まさかそのツケが今来るとは思っていなかった。
問答無用の痒みは俺に隙を与える。
その隙を突いて敵が攻撃を続ける。
ジリ貧な攻撃がちまちまと蓄積する。
また少し話がそれる。
勇者というのは、全ての人の憧れの職である。
小学生のなりたい職業ランキングのYouTuberに続いて7位にまで登り詰める。
それだけに勇者という名は神聖なものとして扱われる。
なにかミスをしただけでマスコミに追いかけ回され、ネットに誹謗中傷を書き込まれ、意味不明な噂を付きまとわされられる。
過去にある男が、勇者として選ばれた。
その男は、体は逞しく、知恵は優れ、リーダーシップがあり、統率力があり、顔はイケメンの優男。まるで神が贔屓をしたとしか思えないようなハイスペックで国中の女たちを沸かせた。
欠点のないその姿には紛れもない信頼を与えた。
誰もが彼が魔王を倒すものだと思い込んでいた。
しかし彼は魔王城の道中、腹を下し便をしている最中に低級の魔物に襲われ、命を落とした。
真実か否か、ズボンが絡まり自分の出したものに足を取られ、頭を木の根にぶつけて死んだと伝えられている。
これがハイスペック勇者の最後だった。
彼は期待が大きかった。それだけに村中と言わず国の恥さらしとなった。
そして彼の両親は自害した。
彼の両親は教育熱心で、我が子を偉大な勇者にする為だけに育て上げていた。毎日遅くまで高い塾に通わせ、戦闘シュミレーションに毎日付き合い、有名な勇者(生き残って逃げてきたわけだからほんとにすごいのか分からない)に毎日のように通いナントカしてコネを作りあげ、完璧なまでに作り上げた勇者になる為の環境だった。
勿論当の本人は、初めは「遊びたい」などとぐずって居たものの、親の「貴方は普通の人とは違う」「貴方しか本当の勇者になれない」といった口車に乗せられ、その気になり、立派な勇者へと成長して行った。
そして態度をでかくした彼は想像もしなかった展開により、一生ネットのさらし者となったのだ。
この他にも沢山、勇者の失敗談という物はある。
何百万もの勇者が生まれ落ち、命を散らして行った世の中だ。
まとめ本が出るぐらいには沢山ある。
そしてその勇者の失敗談たちは、世界中の人々を退屈させなかった。
ちょっと笑いたい時にピッタリだった。
つまり、だ。
この世界では勇者という職に就いたとすると、最低のおまけが着いてくるという事だ。
勇者は簡単になれるものでは無い。
先代の勇者がその座を譲る、または命を落とした場合のみ、次の勇者候補を選抜する。
その後何万と言う数の勇者候補生は、体力試験、筆記試験、基礎能力試験、職業適性検査、そして3ヶ月にわたる厳しい指導ののち、たった一人が選ばれる。
勇者は二つの意味で期待の星だった。
何故なら、上手く行こうが失敗しようが祭りのように盛り上がれることには間違いないからだ。
今世界中の人は、魔王が倒されるのと同じぐらい勇者が壮大な失敗をすることを期待している。
俺は今、魔王城2438階/100000階に居る。
敵は小ボス、「デビルドラゴン」。
HPは互いにギリギリ。
最高のコンディションだ。
話を戻そう。
今俺は、程々強いボスと面を向かってやり合っている。
そして俺は気が気でないほどちんちんがかゆい。
本来なら戦闘に全く支障をきたさない相手だ。
しかし、ちんちんばかりに気を取られてここまで追い詰められてしまった。あぁ。痒い。
股間を掻きむしるには、全身にかけてある強化魔法を解かないといけない。もし仮に、強化した力で股間をかきむしろうものなら、俺の息子は粉々に粉砕されて俺は悶絶しながら死ぬことになる。
問題はそれだけではない。
装甲には、特殊な配列の魔術が組み込まれている。
相手に知識がある敵の場合、鎧の隙間を狙ってくることがあるからだ。
脱ぐ為にはその長ったらしい魔術を解除する必要がある。
つまり俺がこの暴れ狂う息子に構うためには、一度戦闘をやめ、やたら無駄に長い詠唱を唱えながらえっちらおっちらと鎧を外す必要がある。
馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。
ちんちんがかゆい。
意識を集中する。違う。意識を集中するべきは股間ではない。目の前の敵だろ。
自分に言い聞かせる。
足を動かす。昨日のパンツとちんちんが擦れて痒みが一気に増す。ああ。かゆいかゆいかゆいかゆかゆいかゆいかゆいかゆいかゆい。地獄のような特訓の中にも、こんな訓練は仕込んでいなかった。
盲点だった。当たり前にできることが出来なくなることが、こんなにも辛いとは。
股間は容赦無くかゆみを与え続ける。
しかし、ここで死んでは「股間が痒くて敵に負けた勇者」のレッテルを貼られるだけだ。
集中。集中!
自分に言い聞かせる程にちんちんは暴れ回る。
もうやけくそになってきた。
ちんちんが痒くて死んでももういい気がしてきた。
それならいっそもっと早く解放してくれとも思い始めた。
…いや。それは言い過ぎた。やっぱ死にたくない。
俺は目の前の敵に斬りかかる。
尻尾の表面に軽い切り傷ができる。
敵はブチ切れて襲いかかってくる。
そしてちんちんの痒さは一気に増す。
俺の腹部にナイスアタック。
俺は吹き飛ばされて地面で叩きつけられる。
鎧が地面と擦れて火花を散らす。
金属の擦れる嫌な音が耳に残り、
口の中に鉄分の無機質な味がじんわり広がる。
俺は剣を杖替わりにしてよろよろと内股で立ち上がる。
まだ足先に力が入らない。脳震盪で視界がぶれる。
俺の状況には構わず敵は追加攻撃をくわえる。
左腕にクリーンヒット。
鎧が軋む。
まだ、折れてない。
敵が追撃を辞める。
距離をとる。
「あっ。これは決めに来たな。」と分かる。
このスタンスは例のやつだ。
避けなければ死ぬ。
フラフラと立ち上がる。自然と足が内股になる。
その時頭に電流が走った。
『内股なら…!イケる…!』
丁度よくうち太ももは股間を押さえつけ、痒みを最小限に抑える。
そして太ももをずらすことで擬似的に股間を掻くことが出来るのだ。
画期的な発案だった。
敵と距離をとり、ヒールを掛ける。
寿命を縮めるヒールはあまり連続して使いたくない。
フケが溜まって股間が蒸れる。
俺は内股のまま、敵に突っ込む。
左足で地面を蹴り、懐に潜り込む。
そして右脇腹を切りかかる。
魔力を溜めている状態だった敵は一瞬遅れをとる。
右後ろ足がガラ空きだ。
切り込む。
敵は体制を崩して天井に向かって大技をかます。
天井に黒焦げができ、もろい部分が剥がれ落ちてくる。
敵の胴体を盾にして瓦礫を避ける。
ここに長くいれるわけがない。
しっぽが俺を払い除ける。軽自動車ぐらいのスピードで俺は吹っ飛ばされる。
壁に弾かれて血反吐を吐く。ヒール!ヒール!
上半身を縮めて追撃を避ける。
鼻上3センチの位置を掠める。
髪の毛がチリと鳴り焦げ臭い匂いが駆け抜ける。
バクバクと心臓の音が鼓膜の奥で響く。
運が良かった。
一瞬遅ければ致命傷を受けていた。
考えるよりも先に動け!前進!
内股のおかげか痒みは少し引いた。
劣勢ではあるものの、先程に比べると余裕が出来てきた。勝算はある。
大きく息を吸って追撃。壁を蹴って敵よりも上に飛び上がる。デビルドラゴンは顔面がデカい。目よりも後ろが死角になる。人が自分の後頭部を見ることが出来ないのと同じだ。上手く気付かれずに裏に回れた。
相手は僕を探して首を動かしている。
音を立てずに耳の近くを切り込む。
硬い鱗に切れ込みが入り、緑色の血が吹き出す。
龍は雄叫びをあげる。顔をめちゃくちゃに振り回す。
慣性の法則で体が引っ張られる。
鎧がミシミシと音を立てる。
宙ぶらりんになりながらもなんとか帰還。
お久しぶりです地面。さようなら俺の剣。
地面に強く叩きつけられて視界が赤く染まる。
結構なダメージだ。こりゃ回復に時間がかかるなと思った。
アドレナリンは股間のかゆみを忘れさせていた。
敵が真っ直ぐに僕を見ている。
そしてこちらに突っ込んでくる。
魔力はさっきの技で使い果たしたのだろう。
こっちはヒールが追いついていない。
指先を必死に動かして移動しようとする。
駄目だ。動けない。
でも大丈夫だ。手応えがあった。
さっきの攻撃でドラゴンの三半規管を片方切り裂くことに成功した。
敵は思い切り壁に激突する。表皮に切れ目が入り、出血量が増大する。
敵も生き物だ。長くは持たないだろう。
よろよろと歩き回っていたデビルドラゴンがもう一度俺に向かってくる。しかし怪我をした右側によろける。
十分時間は稼げた。あとは避け続けるだけ。
それに俺も俺で結構出血した。
ヒールを使ったとはいえ体が完璧な状態でない以上、本調子が出ているとは言えない。
無駄に戦って体力を使い果たす方が馬鹿だという事だ。
フラフラと壁際に寄る。
ドラゴンが突っ込んでくる。
倒れるように避ける。敵は壁に激突する。
緑の血がビチビチと音を立てて落ちる。
金属の香りがする。
また懲りずに突っ込んでくる。しかし力強さがない。
俺にたどり着く前に倒れ込む。
そして息を止める。
部屋に響いていた心臓の音が消え、突如静寂が訪れる。
俺はその場にへたりこんだ。
間一髪だった。戦いが長引いたら俺は生きていれただろうか。デビルドラゴンが死んでいることを確かめて、三半規管に突き刺さった剣を引き抜く。
反動で尻餅をつく。体が軋む。血が垂れる。
俺は荷物を置いておいた方にフラフラと歩いていく。視界が途切れ途切れになって居るので本当に生きているのかわからない感覚に陥る。
剣をテコに使って瓦礫を動かす。瓦礫に埋まってはいたものの、なんとかロストせずに済んだ。
ハイポーションをガブガブと飲みながら一息つく。
これからどうしようか。
とりあえず鎧を脱いで股間を掻きむしろうと思った。