3 研修医・二年一月〜二月
3 研修医・二年 一月
一
大晦日の夜、倉真が言い出した。
「実家へ行くのは、三日だろ? 明日は呑気に出来る事だし、久し振りに初日の出でも、拝みに行かないか?」
利知未は、目を丸くしてしまった。
「どうしたの? 行き成り」
「前、行った時の事を思い出したんだよ。 あの時、祈った事が叶ったからな。 新しい願掛けでもしたいと思ったんだよ」
言われて、利知未も思い出した。
「そう言えば、何を祈ってたの?」
「叶ったら教えるって、言ってたな。 お前は、叶ったのかよ?」
倉真に聞かれて、少し考えて利知未は頷いた。
「叶ったと、思うけど。 …報告、し合う?」
「明日、新しい願掛けしたら、お互いにバラすか?」
「面白そうだな。 うん、良いよ。 じゃ、今夜は早めに寝ないとね」
時計を見る。 まだ九時を回った頃だ。
「これから仮眠取って、二年参りしてから、そのままチョイ足を伸ばすのも良さそうだな」
「何処まで行く気?」
「何処まで行けるかな。 一時には出発すんだろ? 日の出まで六時間」
「それは、ちょっとキツイな。 一端、帰って、もう少し仮眠を取ってから、あの時と同じ場所を目指せば良いんじゃない?」
利知未に言われて、その意見に従う事にした。
「んじゃ、チョイ早いが、これから二時間も軽く寝るとするか」
「そうする? じゃ、片付けてくるよ」
そう言って、利知未は晩酌をしていたグラスと摘みの載っていた皿を下げて、リビングからキッチンへ出て行った。
目覚まし時計を十一時に合わせて、取り敢えず仮眠を取った。
時間で目を覚まして、年越し蕎麦を作った。 食べ終わり、四十分頃には近所の神社を目指して、アパートを出る。
除夜の鐘が響き始める前には、二年参りの列に並んだ。
「ちょっと、遅くなっちゃったな」
「この神社は、二度目だな」
「そうだね、二年振りだ」
「去年は大晦日まで、お前が仕事だったからな」
「で、元日から、倉真の実家へ挨拶に行ってしまったから」
「どの街にも、住処の近くには神社ってのが、在るもんなんだな」
「ここは偶々、近かっただけじゃないかな。 下宿から一番、近い所は、歩いたら三十分近く掛かったし」
「そうだったな。 あの神社が、お前と初めて二年参りした神社だった」
もう、四年も前の話だ。 その更に前、宏治に付き合って一度だけ訪れた事があったのを、倉真は思い出した。
「高校受験の年、宏治に付き合って初詣に行った事があった」
「あの街の神社?」
「ああ。 ……いつか整備工場を開くなら、あの街が良いな」
呟いた声を聞いて、利知未も笑顔で頷いてくれた。
「あたしも、あの街は大好きだよ。 マスターに出会ったのも、宏治に出会ったのも、中学時代の思い出も、全部。 あの街での、出来事だったから」
「今年の願掛けは、その辺りにするか」
「その前に、倉真の資格と技術習得、資金の準備。 それから、結婚も控えてるんだけど? 気が早過ぎると思うよ、その願掛けは」
「そりゃ、そうだ」
利知未に突っ込まれて、倉真は少し情けない顔になってしまった。
「あ、年が明けたよ。 …明けまして、おめでとう」
「おめでとう。 今年も、世話になる」
除夜の鐘が、響き始めていた。
お参りを済ませて、今年もお屠蘇を振る舞いに戴き、おみくじも引いてみる事にした。
「珍しい! 二人揃って大吉だ」
「結婚を控えている年に、凶が出なくて助かったな」
「新年のおみくじには、凶の数が少なくなってるって話、知ってる?」
「大吉が多くなってるのか?」
「そうみたいだけど。 …裕兄が亡くなった年、裕兄にだけ凶が出ちゃったんだよね。 凄く不安になったのを、覚えているよ」
あの時の事を思い出して、少しだけ表情が曇ってしまった。
「んじゃ、今年の大吉は、裕一さんの念力でも働いたんじゃないか?」
「そうなのかな……?」
「利知未の尻に轢かれる未来を、少しでも希望の有る様に見せてくれ様とした、兄貴心で」
ニヤリと倉真が笑う。 利知未が、ぷっと膨れてしまった。
「まだ、餅焼くには早過ぎる時間だな」
「ちょっと、倉真? どういう意味だよ?!」
剥れて元気な様子に戻った利知未を見て、倉真は言った。
「悲しい顔されるより、剥れられた方が、まだマシだ。 新年早々、暗くなるのは縁起が悪いだろ。 ……裕一さんも、利知未には元気で居て貰いたいと思うぜ?」
「……それは、そうだね。 ごめん。 じゃ、早く帰って、仮眠取り直して、元気に初日の出、拝みに行こう?」
倉真のお陰で、利知未は笑顔に戻る事が出来た。
アパートへ戻ったのは、一時頃だった。 目覚まし時計を四時半にセットし直して、再び仮眠を取った。
時間で、利知未は起きる事が出来た。 倉真は、まだ夢の中だ。
「倉真。 初日の出、拝みに行くんだよね? 起きて!」
利知未に起こされて、漸く薄く目を開く。
「…もう、ンな時間か?」
「四時半。 早く起きて顔洗って! ここから二時間近く掛かるでしょ? 五時前には出ないと、間に合わなくなっちゃうよ」
「そーだな、余裕見て、そんなもんか」
大欠伸をしながら、漸く倉真も体を起こした。
「…寒」
布団から体が出ると、冷え切った空気に、一気に目が覚める。
「暖かくしといたら起きれなくなると思って、暖房、切っておいたからね」
一足先にベッドから抜け出して、利知未も一震えしてしまう。
「早く、服着替えよう。 その前に少しだけ、部屋暖める?」
「いや、イイ。 ンな事したら、また眠くなっちまう」
起き出して、漸く外出準備に取り掛かった。
準備を終え、アパートを出る時、倉真が言った。
「面倒だ。 タンデムで行くか」
「どっちのバイク、使う?」
「ここの所、お前のバイク走らせてないな。 お前ので、イイか?」
「いいよ。 キー、下駄箱の上の、引き出しに入ってる」
利知未に言われて、スペアキーを取り出した。
ハンドルは倉真が握り、利知未は久し振りに、タンデムシートへ跨った。
「一昨年の春に行った時は、倉真のバイクだったね」
「そうだったな。 行くぞ」
エンジンを掛け、バイクをスタートさせた。
利知未は倉真の背中に、確りと腕を巻きつけた。 風は倉真の体が、殆ど全て引き受けてくれた。
『……暖かいな』
倉真は運転も丁寧だ。 安心して身を委ねながら、利知未は思う。
『これから、一生、この背中を見ながら、生きて行くんだ……』
その感慨は、くすぐったい感じがする。 腕に少しだけ、力を込めた。
六時半過ぎには、目的地へ到着した。 今年も、自治体が振舞うトン汁で体を温める。 焚き火の近くへ寄って、寄り添って火に当っていた。
「倉真、運転、寒かったでしょ? 風邪、引かないでね」
利知未に言われて、その体を引き寄せた。
「こうしていれば、直ぐに温まるだろ?」
肩に置かれた倉真の手の甲は、すっかり冷えている。 掌はトン汁を持っていたお陰で、少しは温まっていた。 利知未は倉真の手へ自分の手を重ねて、一生懸命、擦ってやった。 息を吹きかけながら擦り合わせていると、自分の掌も温まる。
「いいよ、疲れるだろ?」
「この方が、あたしも暖かいよ?」
仲良くそうして、朝日を待った。
水平線の擦れ擦れまで、雲が垂れ込めている朝だった。 水平線からの初日にはお目に掛かれなかったが、雲の上へと上って来た初日に、手を合わせた。
『倉真と、何時までも仲良く暮らせますように。 結婚後も、子供が出来てからも、ずっと家族仲良く、生きて行けますように……』
『利知未の夢と、自分の目標が、一日も早く叶えられるように』
今年の願いは、二人で少しだけ違っている。 けれど、目指している夢は同じだ。 いつか初日に願った祈りは、今、成就しようとしていた。
祈りを終えて、顔を上げる。
二人で目を合わせて、お互いに少し照れ臭そうな笑みを交わす。
「今年は、何をお願いしたの?」
「それは、叶うまで秘密だな」
「じゃ、あたしも、叶うまで秘密」
二人で手を繋いで、駐車場へと向かう。 バイクへ到着する頃、倉真が問い掛けた。
「お前の、あン時の願いは何だったんだ?」
「倉真は?」
「…ジャンケン、するか?」
「どっちが先に告白するか?」
「おお」
ジャンケンで、順番を決めた。
「あたしの勝ち! 倉真の叶った願掛けは、何だったの?」
「シャーねー。 …チョイ、耳貸せよ?」
利知未は素直に、耳を澄ませてやった。
「……やっぱ、恥かしくて言えネー」
そっぽを向いてしまう。
「ずるいな。 それ言ったら、あたしだって恥かしくて言えないよ」
利知未が剥れる。 その顔を横目で見て、倉真がぼそりと呟いた。
「……今の状況を、願ったんだよ」
「今の状況?」
「こうやって、利知未とまた、初日の出を拝みに来れます様にって、な」
「…じゃ、あたしも一緒だ」
「ホントかよ? 適当に、誤魔化してないだろうな?」
「誤魔化しては、居ないけど。 後は、」
「後は?」
「……倉真の夢を、一緒に見ていられますようにって」
「俺の夢?」
「目標かな? 倉真の将来の目標を、一緒に追い掛けられる所に、自分が居られますようにって」
その言葉には、びっくりだ。
あの時の二人は、まだ恋人同士とは呼べない関係だった。 ……けれど、倉真も同じ事を祈っていた。
「……なんだ、結局、同じ事を祈ってたんだな」
小さく呟いて、倉真はヘルメットを被ってしまった。
「倉真も同じ事を、祈ってくれていたの?」
利知未の質問には無言のまま答えずに、ヘルメットを渡した。
「早く帰って、雑煮と煮しめ、食わせてくれ」
「…ま、いいけど」
倉真の照れ臭そうな態度を見て、利知未は小さく肩を竦めた。
受け取ったヘルメットを被り、タンデムシートへ跨った。
倉真は帰りも、安全運転だった。 帰宅した時間は九時を過ぎていた。 部屋へ入るなり暖房をつけて、雑煮と煮しめを用意した。
新年のお屠蘇代わりに日本酒も用意して、のんびりと朝食を取った。
食事を終え片付け終わり、年賀葉書を眺めながら、もう暫らく日本酒を飲んでいた。 十一時近くなって、倉真が欠伸をして呟いた。
「腹が膨れて酒が入ったら、眠くなって来たな」
「運転、お疲れ様。 あたしも少し、眠くなって来ちゃったな」
「寝正月、決め込むか?」
「それも、呑気でいいね」
こんな時間に昼寝を始めれば、起きるのは夕方になってしまいそうだ。 朝食も遅かった事だ。 昼食も抜きで眠り続けてしまうだろう。 それでも、二人共どうやら、眠気には勝てそうもない。
リビングをざっと片付けて、寝室へ引っ込んでしまった。
夕方になり、漸く起き出した。 今年は、年始周りの品物も準備していた。
明日、優の所へ持って行く前に、先ずは手塚家へ周って行こうと考えていた。 改めて熨斗紙と記名をチェックして、準備をして置く事にした。
倉真が起きてから、煮しめの残りとインスタントの味噌汁で、簡単に夕食を済ませた。 明日は、九時過ぎにはアパートを出ようと相談して、風呂を準備し、のんびりと湯船に使って、晩酌時間を取った。
晩酌中に、利知未が言い出した。
「あたしも、仕事が忙しくなって来ちゃった事に託けて、倉真のお母さんには甘えてばっかりだったな。 何か、お礼しないと」
「結婚準備の事か? ありゃ、お袋の生き甲斐になってるみたいだな。 お前がアンマリ気にする必要は、無いんじゃないか?」
「そう言う訳には、行かないよ。 …近い未来の、お姑さんなんだし」
「嫁姑戦争ってのは、お前とお袋を見る限りじゃ、無縁だと思うぞ? 返って息子の俺の立場の方が、危うい感じだ」
「それは、倉真が積極的に結婚式の事とか、考えてくれないからだと思うけど? 取り敢えず、今月はそれ程、式場絡みの用事も無いとは思うけど」
「……こう言う形の式になるとは、考えても居なかったんだけどな」
少々、疲れた顔をして、倉真がぼやいた。
「どう言うのを、考えていたの?」
「適当に、何処かの教会でも借りて、二人で形だけの式が出来れば良いと思っていた」
「…それなら、始めからそう言ってくれれば良かったのに」
利知未は、今更だと思ってしまう。 軽く剥れ顔になる。
「お前は、どういうつもりで居たんだ?」
倉真に何気なく問われて、答えを考えてしまった。
正直な意見では、倉真と同じ事を考えていた。 けれど。
「……あたしは、出来る限りは倉真のご家族の意見に、従いたいと思っていたから」
本音を隠して、そう答えた。
二人で同じ事を言い出せば、倉真の性格を考えた時、これまでの準備を全て投げ出してしまい兼ねない。
それは、お母さんに申し訳ないと、利知未は思う。
「ま、今更ガタガタ言っても、始まりゃしネー事だ」
「解ってるなら、ぼやかないで、もう少し協力してよね?」
「悪かったよ」
利知未に叱られて、倉真は取り敢えず、謝っておいた。
二
二日の朝。 九時過ぎにはアパートを出た。 先ず始めに、予定通り手塚家へ訪問した。 美由紀は二人の訪れを驚きながらも、喜んで迎えてくれた。
勧められて、つい上がりこんでしまった。
手塚家へ邪魔をした時、宏治も宏一も、呑気に寝正月を決め込んでいた。 利知未達の訪れを伝えられ、漸く目を覚まして来た。
久し振りに手塚一家と親しく話をして、その内ツーリングへでも行こうと言う話しになった。 結婚は何時になるのかと問われて、六月二十九日の日曜日が予定だと答えた。
「美由紀さんは、披露宴に出席して貰いたいから、招待状を送ります」
利知未の言葉に続けて、倉真が言った。
「宏治と宏一さんは、二次会に出席してくれよな。 披露宴、派手にやりたくないから、人数、調整してんだ」
倉真は余り、嬉しそうな顔はしていなかった。 利知未にテーブルの下で、こっそりと太股を抓られてしまった。
「やっと結婚だってのに、何、しけた顔してんだよ?」
宏一に突っ込まれて、利知未に睨まれた。
「っつーか、式も披露宴も俺達じゃなくて、俺のお袋が主導権、握ってるンすよ」
「お前、始めから披露宴なんて、やる気なかったんだろ?」
十年来の親友・宏治には、すっかり見透かされている。
「解るか?」
こっそりと、倉真が宏治に苦笑いを見せる。
宏治も宏一も、つい小さく吹き出してしまった。
「結婚式は花嫁の物なんだから、男は大人しく従って居ればいいのよ」
息子三人は、母親・美由紀から、突っ込まれてしまった。
「倉真のお母さんも、そう言っていたな」
「この前、連絡を貰ったって言っていたでしょう? 物凄く嬉しそうな声だったわよ。 あんた達もさっさとお嫁さん見つけて来て、私に楽をさせてくれない? 宏一は、今年で三十三にもなるんだから。 本当なら、孫の一人や二人居たって可笑しく無いわよねぇ? 利知未」
美由紀に振られて、利知未も頷いてやった。
「それは確かに。 けど、美由紀さん、孫が出来たら何て呼ばせるの?」
「ママと呼ばせようかしら?」
「そりゃ、オコガマシイって言うもんだろ?」
「煩いわね。 そう言う事は、ちゃんとお嫁さん連れて来てから言って頂戴」
宏一は自分の失言で、墓穴を掘ってしまった。
話は、取り止めが無かったが、この後、優宅へ周らなければならない。 三十分ほど呑気に話をして、十時過ぎには手塚家を後にした。
優の家に着いたのは、十一時を回る頃だ。 昼食を早めに済ませてから、墓参りへ出掛ける事にした。
真澄は現在、小学三年生だ。 去年よりも、また更にオマセになっていた。
「真澄に、ボーイフレンドが出来たみたいなのよね。 年賀葉書が、相手の男の子から届いていたのよ。 それがねぇ、」
昼食を取りながら、明日香が、その年賀葉書の内容を笑いながら話し始めた。
優は面白くないらしい。 剥れっ面で茶を啜る。
「何が書いてあったの?」
利知未の質問には、真澄がさらりと答えてくれた。
「将来の約束」
真澄は伊達巻を口へ運んで、ニコニコしている。
今年、保育園の年長組になる裕一は、慣れない箸で煮豆と格闘中だ。
「将来の? 結婚しようとか、そう言う事?」
「大人になったらマイホームパパになると約束するよ、みたいな書かれ方だったんだけど、それを見てから、優のご機嫌が斜めなのよね」
「いい約束じゃない」
「真澄が、私のパパは優しくて大好きだって、言っていたらしいのよね。 それを聞いて、その男の子はそう決心したんだって」
「優兄、剥れる事ないんじゃん? 娘に好きだって言って貰ってるんなら」
「ソレとコレとは話が別だ。 真澄は、まだ小学三年生なんだぞ?」
「どうせ将来は誰かの物になっちゃうんだから。 予行練習が出来てラッキーだと思っておけば?」
利知未に言われて、優はまた剥れてしまった。
倉真は何も口出しが出来ない。 知らない振りをして、茶を啜っていた。
裕一の、慣れない箸から逃れた煮豆が、真澄の所へ飛んで行く。
「裕ちゃん! お洋服、汚れちゃうでしょ?! スプーン使いな!」
真澄に怒られて、裕一は上目使いで首を竦めた。
子供達の様子を眺めて、優が仏頂面のまま、話を変えて突っ込んだ。
「そんな先の事より、お前らはどうなってるんだ?」
不機嫌の矛先が、利知未達へ向いてしまった。
「そう言えば、お袋が主導のままで、まだ優さんに報告してなかったよな?」
倉真が、自分達の話しに移った事を受けて、会話へ加わった。
「そうだった。 ごめん。 優兄、日曜は休みだよね?」
「日曜祝日は、カレンダー通りだ」
「えっと、倉真のお母さんが、物凄く良く協力してくれていまして、結婚式、六月二十九日の日曜日に決まりました」
「決まったぁ? 何時の間に決めたんだ?」
「十二月の、二十日過ぎです」
「馬鹿野郎! 何でそう言う大事な事を、もっと早くに教えないんだ?!」
利知未は新年早々、兄貴に怒られてしまった。
父親の行き成りの怒声に、喧嘩が始まり掛けていた子供達も、ビックリして首を竦める。
「優! 子供達がビックリするでしょ? 急に怒鳴ったりしたら」
明日香が優を嗜める。 倉真も慌てて、頭を下げた。
「済みません。 俺のお袋が大乗り気で、ガンガン話が進んじまって」
子供達は、倉真と利知未に注目してしまった。 喧嘩は始まらずに済んだ。
「お前よりも、利知未だ。 実の兄貴に相談も無しで、そう言う話をトントン進めるな」
優が、思い切り不機嫌な口調で言った。 利知未は、素直に頭を下げる事にした。 明日香が取り成してくれて、騒ぎは取り敢えず収まって行った。
これまでの話を聞き終え、少し落ち着いてから、優が言い出した。
「そこまで世話になってるんじゃ、俺も挨拶に行かないとならないだろ」
「はい。 その通りです」
利知未は、大人しく頷いた。
「明日、行くのか?」
「その予定です」
倉真が、利知未と一緒に申し訳無さそうな顔をしている。
「行き成り行くのも、失礼だな。 …年始の挨拶として行けば、平気か?」
明日香の意見を、優が仰いだ。
「それなら、それで準備しますけど。 利知未さんから一言、断りの電話だけ入れて貰った方が、良いんじゃない? 家の電話、使って良いから」
明日香に促されて、利知未は素直に、倉真の実家へ連絡を入れた。
話が纏まってから、優、利知未、倉真の三人は墓参りへ出掛けた。
明日香達は、今年も夕食時間、須藤家へ呼ばれていた。 三人が墓参りへ出掛けている内に、明日香が近所のコンビニへ出掛けて、明日、優が館川家へ持参するお年賀を準備した。
墓参りだけ済ませて、利知未と倉真は再びバイクへ跨り、帰宅した。
自分達の住処へ到着してから、溜息をついてしまった。
「そりゃ、そーだよね。 今、あたしの家族は、身近には優兄しか居ないんだから」
帰宅するなり、ダイニングチェアへ腰を下ろしてしまう。
「拙かったな、俺も全く気が回らなかったぜ」
「倉真が気にする必要は無いでしょ? あたしから優兄へ連絡入れるのが、当然だったし」
「お前、最近、忙しかったからな」
手を洗って、倉真もダイニングチェアへ腰掛けてタバコを取り出す。
「取り敢えず、珈琲でも飲んで落ち着こうか?」
「おお」
利知未が立ち上がり、手を洗って薬缶を火に掛ける。 豆とカップを準備して、湯が沸くまでの時間、再び腰を下ろした。
珈琲を淹れてから、改めて落ち着いた。
「明日、九時半までには迎えに来るって、言ってたな」
「そうだな」
「優兄の車で行くんだし、マトモな格好して行った方が、イイか」
「何時も通りで、構わないんじゃねーのか?」
「ソレにしたって、ある意味、親代わりの優兄が一緒なんだから。 ラフ過ぎる格好して行くのも、問題でしょ? パンツスーツ位は、着てこうかな……」
館川家には、ジーパンでも何度かお邪魔している。 初めて行った時程に服装を拘り過ぎるのも、返って違うだろうとは思う。
「俺は、ジーパンしかないぞ?」
「倉真は実家へ戻るだけ何だから、平気でしょ? 優兄は、それなりの格好して行くんだろうから、二人の中間位に揃えるか、優兄に合わせるべきか……? 悩みどころだな」
「優さんに近い方が、釣り合いが取れるんじゃないか?」
「そう言えば、ワンピースタイプにジャケットの付いたスーツが一着、あったかも。 それなら、平気かな?」
クローゼットは寝室へ置いてある。 飲み掛けの珈琲を置いて、利知未は寝室へ引っ込んでしまった。
倉真は、利知未の後姿を見送って、呑気に新しいタバコへ手を伸ばした。
翌朝の九時半前には、優がアパートへ到着した。
利知未が思っていた通り、ダーク系のスーツ姿だ。 仕事で接待の時に着用する一張羅だと、言っていた。 利知未は兄の服装を見てから、着替えを始めた。
待たせている間、倉真がリビングで優の相手をしていた。 利知未の準備が整ってから、優の車で移動した。
優が年賀を持参するのだから、利知未達が用意した分は邪魔になってしまう。 その分は、挨拶の予定が無かった透子の家を急遽、数に入れ直して、そちらへ回す事にした。
道案内を兼ねて、ハンドルは倉真が握った。 倉真の運転する車に初めて乗った優は、その性格の割りに安全運転な事を知って、感心していた。
「仕事柄、客の車、運転する事もあるんで」 そう注釈を入れた倉真の言葉に、納得した。
館川家では、態々、利知未の実兄が挨拶に見えると聞いて、今朝から仕事を始めている父親が、菓子折りを別に用意して待っていた。
「お母様が離れている分、お兄さんが確りしているのね」
母親は、そんな事を呟いていた。
同時に、流石に出過ぎた真似をしていたかも知れないと、少々、反省もした。
利知未達が到着した。 優は玄関先で深々と頭を下げて、年賀を渡した。
「行き成りご挨拶に伺いまして、申し訳ありません」
キッチリと最敬礼をする。
優を始めて見た倉真の母親は、その体の大きさに、少しビックリしていた。
「とんでもございません。 私共こそ、色々と出過ぎた真似を致しまして」
優から年賀を手渡され、倉真の母親も正座をして、深々と頭を下げた。
顔を上げた母親に促されて、優も少しだけお邪魔をする事になった。
居間でお茶をご馳走になり、お年賀のお返しにと、菓子折りを戴いてしまった。 優は恐縮してしまう。 父親も仕事の合間を見て、顔を出した。
我が家へ嫁に来てくれる、お嬢さんの実兄だ。 事実上の顔合わせとなってしまった。
一美も呼ばれて、立川一家と挨拶を交わした。
利知未は粛々と、成り行きを見守っていた。 それ以外、どうし様も無い。
「私共の家庭の事情は少々、特別な物で」
優は何から話していいやら判別が付かなくて、そんな言葉から始めた。
「ご家庭の事は伺っております。 その点は十分、承知致しておりますので、お兄様もご安心下さい」
母親は改めてそう返した。 優は恐縮したまま、続ける。
「有り難うございます。 妹も、幼い頃から実の母親からの躾も無く、至らない所も多いと思いますが……。 どうぞ、宜しくお願い致します」
「とんでもない! 私どもの息子には勿体無いほどの、素晴らしいお嬢さんで……。 家族一同、感謝致しております」
頭を下げた優に対して、母親は更に頭を下げた。
「結婚式の事や、その他にも、大層お世話になっていると妹から聞きました。 本当にご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。 自分も若い内に家庭を持ってしまいましたので、気が周らない事が多く、どう、お礼とお詫びを申し上げれば良いのか……」
優は兎に角、平身低頭だ。 費用の事なども世話になる事になっていると言う。 頭を下げながら、妹に対しての腹立ちと、館川家に対する感謝で、頭を上げる暇も無い。
利知未は、何も口出しする事は出来なかった。 内心では、兄の真面目さ、誠実さを改めて知ったと感じている。
裕一生前中の兄弟喧嘩も、思い出してしまった。
長兄に比べて頼りない印象の強かった次兄が、何時の間にやら、こんなに確りした大人の男になってしまっていた。
『コレからは優兄の事、あんまり馬鹿にしちゃいけないな』 今更、そんな反省の念が浮かび上がって来たのだった。
その後、挨拶を終えた優と共に、今日は利知未と倉真も暇した。
三人が帰ってから、館川一家が揃って茶を飲みながら、話が始まる。
「利知未さんの、お兄さん。 優さんって、利知未さんに似てたね」
「私は、背が大きいので、少しビックリししてしまったわ。 倉真よりも、また上背があったわね」
「……親が無くても、子は育つ」
父親は一言、そう呟いた。 母親が目を丸くして、夫の言葉に少し笑ってしまった。
『……この人の言葉で、そんな台詞が聞けるとは』 と、思ってしまった。
「本当に、利知未さんもだけれど、優さんも確りした良い方でしたね」
「お兄ちゃん、優さんに弟子入りさせて貰ったら、もう少し確り者になってくれたりして?」
「そうかも知れないわね」
一美の言葉に、また笑ってしまった。
そして、ふと真面目な顔になって呟いた。
「若い内から、色々と苦労をされて来たんでしょう。 倉真は、甘やかし過ぎてしまったかも知れないわね」
呟きながら、心の中では別の事を考える。
『これからは、余り私ばかり出しゃばり過ぎないように、優さんの所とも良く相談をしないと、失礼になってしまうわ』 少々、甘く見ていた部分は確かにあった。
ご両親が近くに居ないのなら、利知未さんのご両親の分まで、自分が色々として上げなければ可哀想だと、考えていた。
けれど、あんなに確りしたお兄さんが身近に居る。
これからは両家で良く話し合って、先の予定を決めて行くべきだろう。
「……仕事に戻るか」
一段落して、父親はそう呟いて、居間を出て行ったのだった。
その日の優一家では、館川氏の和菓子に、子供と妻の話題と人気が、奪われてしまった。
三
優と別れ、夕方から、利知未は服を着替えてマスター一家の自宅へ向かった。 アダムの仕事始めは、毎年四日だ。 今日中に周らなければ、意味が無いだろう。
里沙の所や下宿については、年賀と言う形を取らなくても、松の内に顔を見せる事が出来れば、それで良い事だ。 返って遊びに来た感覚になって、堅苦しい感じがなくて済みそうだとも思う。
透子の所など、早くに行っても留守の筈だ。 年賀葉書には、年末から四日の土曜日まで、今年も海外旅行へ行っていると書いてあった。
それなので、始めは数に入れないで置いたくらいだ。
仕事始めの前日、のんびりと過ごしていた久世家では、二人の訪れを家族が揃って、笑顔で迎えてくれた。
佳奈美は、利知未との初対面時、中学一年生だった。 現在、大学三年生だ。 利知未が家庭教師をする事が出来なくなってからも、勉強は頑張っていた。 それなりの大学へ通っている。 すっかり、大人っぽくなっていた。
渉は、姪っ子・真澄の一つ上だ。 現在は小学校四年生。 活発な少年に育っていた。 勉強も、佳奈美が良く面倒を見てくれている。 出来も中々、良いらしい。 小学校では、クラス女子の人気者だ。
「利知未さん! 久し振り!!」
佳奈美の呼びかけに、目を丸くする。 佳奈美も大学三年になって、目上の人間を呼び捨てにする事はなくなっていた。
「佳奈美! 随分、大人っぽくなったね」
「今年、二十二歳だよ。 利知未さんと最後に会ったの、高校生の時だよね」
「もう、そんなになるのか。 アダムにも中々、行けなくなってしまったからな。 佳奈美と会う機会なんか、無かったよね」
玄関先で、話が始まってしまった。
「忙しい時間に、済みません」
奥から出て来た智子へ、利知未が頭を下げる。
「何言ってるの、何時でも遊びに来てくれて構わないわよ。 明けましておめでとう。 兎に角、上がって」
智子に促され、挨拶を返して上がり込んでしまう。
倉真は、流石に少し遠慮気味だ。
「利知未さんの婚約者ね。 館川さん、でしたね。 貴方もどうぞ」
智子に促されて、邪魔しますと声を掛けて、利知未の後へ従った。
リビングでは寛いだ様子のマスターが、呑気にテレビを眺めていた。 利知未の姿と、その後に続いた倉真の姿を見て、嬉しそうな笑顔を見せる。
「おお、去年は態々、北海道から蟹を送って貰って、悪かったな」
「無沙汰してます」
倉真が、軽く頭を下げる。
「二人揃って来てくれたんだな。 ま、座れ。 バイクか?」
「そりゃ、ここに来るなら、バイクが早いからね」
利知未が答えて、マスターがキッチンへ声を掛ける。
「茶で良いか? どうせ新年に来るなら、バイクじゃなくて電車を使え」
新年早々、違反をさせる訳にはいかないだろうと、マスターはぼやいていた。
茶を戴き、年始の挨拶をして雑談をしていると、外で遊んでいた渉が泥だらけで帰宅した。
「あれ? 利知未だ! 一緒に居るの、誰だ?」
少年・渉は、倉真にも遠慮ない視線を向ける。
「利知未の、将来の旦那だ」
「げ! 利知未、結婚すんの?!」
久し振りだろうが何だろうが、子供には関係ないらしい。 渉は、ズケズケとリビングへ入って来ながら、目を丸くしていた。
「結婚するんだよ。 渉も、お父さん達と披露宴、来て貰うからな?」
男の子相手だと、利知未もどうやら昔の口調が戻るらしい。 利知未の様子を見て、倉真が小さく笑っていた。
倉真は、やはり子供にはモテる。 直ぐに渉も慣れてくれた。 彼の、自慢のコレクションを見せてやると言われて、渉に連れられて子供部屋へと移動した。
子供部屋で、倉真は渉のコレクションを見て感心していた。
「プラモデル、好きなのか?」
「うん。 このシリーズのロボットが好きなんだ」
そう言いながら、最近のアニメで子供に人気のロボットシリーズ作品を、説明付きで見せてくれた。
「手先が器用なんだな」
綺麗な繋ぎ目を見て、目を丸くする。
「仕上げに紙やすり使って、色も塗るんだ。 父さんが休みの時は、一緒にやってるよ? おれの方が上手いけど」
自信満々な笑みを見せている。
「運動は好きか?」
「得意だよ。 さっきも、サッカーやって来た。 学校のクラブもサッカー部」
「勉強は好きか?」
「好きじゃないけど、姉ちゃんが煩いから、一応、頑張ってる」
正直な言葉に、小さく笑ってしまった。
「文武両道って、ヤツか」
「ぶんぶりょうどう?」
「勉強も運動も両方、頑張ってるヤツの事、言うんだよ」
「ふーん。 ぶんぶりょうどう、か。 じゃ、ソレ目指す」
「偉いな」
倉真は大きな手で、渉の頭をかいぐってやった。
「倉真、これ、上げるよ」
渉は倉真の事を気に入った。
自分の作品の中で出来の良いプラモデルを一つ選んで、倉真にプレゼントした。
「くれんのか? サンキュ」
倉真は渉の気持ちを汲んで、素直に礼を言って受け取った。
「友情の徴!」
渉はそう言って、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
倉真がリビングを出てから、利知未が呟いた。
「倉真、子供には人気が有るみたいなんだよね。 どう言う理屈なんだろ? 顔は怖いくらいだし、背だってあんなに大きくて、威圧感ありそうなのに」
「子供と精神年齢が近い人は、仲良くなるのが早いって俗説だよ」
佳奈美は、児童心理学を専攻しているらしい。
「じゃ、倉真が子供っぽいってコトか。 …納得」
「男は女に比べて、精神年齢が低いもんだ」
「そう言うけどね。 それは、言い訳にも聞こえるよね?」
娘に突っ込まれてしまった。
情けない顔になるマスターを見て、利知未はくすりと笑ってしまう。
『佳奈美が愛娘なのは、相変わらずか』 そう感じて、少しだけホッとしてしまった。
「佳奈美は将来、何を考えているの?」
「カウンセラー」
「カウンセラー?」
「臨床心理士って言った方が、お医者さんの利知未さんには解るのか」
「あたしの通ってた大学でも、講座はあったな」
「医大じゃなくても、専門の学校はあるよ」
「同業者になるのか」
「仲間の内、になるのかな?」
「出来の良い娘だね」
利知未に振られて、マスターが答える。
「出来の良い教え子だっただろう?」
嬉しそうに笑っていた。
キッチンから声が掛かり、利知未と倉真も夕食を呼ばれる事になってしまった。
四日に下宿・五日に透子の家にも顔を出した。 四日からは、里沙も下宿へ通い始めている。 利知未達の久し振りの訪れを喜んでくれた。
店子の数は、三人ほど増えていた。 美加も、既に実家へ戻ってしまっている。 下宿の住人は大家代理の朝美を抜かして、すっかり様変わりをしていた。
リビングへ通されて、里沙が紅茶を出してくれた。
「利知未達のおめでたい話ついでに、私からも、おめでたいお話があるわよ」
そう言って、里沙が微笑んだ。
「もしかして、子供?!」
「ええ、漸く。 今年の九月が予定だけど」
「下宿はどうするんすか?」
倉真に聞かれて、里沙が答える。
「冴吏が今月から、引っ越して来てくれるのよ。 冴吏、今は作家活動中心で在宅だから。 今、下宿の今後を話し合っている所」
「大家を譲るの?」
「本格的に手伝って貰う形かしら? 朝美も、まだまだ現役だから」
「料理は、冴吏の方が上手かった気がするな」
「朝美も最近は、すっかり慣れたわよ。 お陰で、何時でも嫁に行けそうだ、何て笑っているわ」
「朝美には、そう言う予定は無いの?」
「どうかしらね? 今の所は、聞いては居ないけれど」
話は止まらない。 倉真は大人しく、聞きに回っていた。
この日も夕食は、お呼ばれしてしまった。 久し振りに里沙の料理を食べて、懐かしい気持ちになる。
「あたしにとっての、お袋の味って、ばあちゃんの味の次は、里沙の味かも知れない……」
食事中に呟いた利知未の言葉を聞いて、里沙は優しく微笑んでいた。
里沙の分と朝美分の年賀を渡してから、帰宅した。
五日、初めて透子と大河原教授の住む家へ、利知未達は出掛けた。
「透子さんの所は、お前が一人で行く方が良いんじゃないか?」
倉真はそう言っていたが、結婚の挨拶代わりなのだし、倉真も透子とは顔見知りだ。 利知未に無理矢理、同行させられてしまった。
バイクを使って出掛けた。 大河原宅は、利知未の母校の近くに在った。
「住所だと、この辺りだよ」
街角にバイクを止め、大学時代の同窓会名簿から書き写して来たメモを、地図と照らし合わせてみた。
「そこじゃネーか?」
直ぐ先の家を指して、倉真が言う。 バイクを一端降りて、近くまで歩いて行って表札の住所を確認して来た。
「そうみたい」
答えて、利知未がバイクへ戻った。
改めて家の前までバイクを押して行った。 スタンドを掛けてインターフォンの呼び出しボタンを押した。
「はい、何方様でしょう?」
大河原教授の声が、インターフォンから聞こえる。
「瀬川です。 西横浜医科大学、卒業生の」
大河原は少し考えた。 それから思い付いて言った。
「透子の友達の、外科講座に居た瀬川さんか?」
「そうです。 昨夜、ご連絡をさせて戴きましたが」
「ああ、これか」
どうやら、何かメモを見つけたらしい。
「今、開けますよ」
穏やかな、と言うより、呑気な喋りは、大学でも有名だった。 大河原教授の講義は、その穏やかな喋りから、学生達の睡魔を呼び覚ますと、もっぱらの噂だった。
倉真はイメージ外の様子で、目を丸くしていた。
「今のが、教授か?」
「そうだよ」
「何か、大学教授って言うのは、もっとハッキリとした喋りをするイメージが、あったんだけどな」
「教授も色々だからね。 透子とは、お似合いだと思うよ」
いつかの後姿を思い出して、小さく笑ってしまう。
披露宴の時の、明るく呑気そうな、年齢の割りにシャイで無邪気な雰囲気は、意外と言葉のキツイ透子とはいいバランスだと思っていた。
直ぐに鍵が開いて、教授自ら出迎えてくれた。
「済まないね、透子は、まだ眠っているんだ」
頭を掻き掻き、二人をリビングへと案内して行く。
「まだ、寝てるのか」
利知未は目を丸くして、つい呟いてしまう。 十時半になる所だ。
教授は少し情けないような、柔らかい笑みを見せる。
「昨夜は、遅くまで起きていたようだったからね」
ソファへ二人を案内してから、教授がインスタント珈琲を入れて出してくれた。
「君は、学生では無かったね?」
「はい、済みません。 彼は、私の婚約者です。 透子さんの友人でもあるので、今日は一緒に挨拶をして貰おうと思い、連れて来ました」
倉真は利知未に紹介されて、ペコリと頭を下げる。
「透子を起こしてくるから、暫らく待っていて下さい」
教授はニコリと笑みを見せ、リビングを出て行った。
十分後、寝起きの少々、寝惚けたままの様子で透子が現れた。
「おっす、利知未。 明けまして、おめでと」
「随分、呑気な主婦だな」
「あはは。 普段は、お手伝いさんが居るから。 アタシはやる事、全く無し」
「大学の教授って、そんな余裕があるのか……」
利知未も、つい昔の様子が戻ってしまう。 小さく呟いた。
「家の旦那は独身生活、長かったからね。 結構、貯め込んでる。 アタシの仕事は家事じゃなくて、仕事のお手伝いと、夜のお供だから」
「…成る程。 透子でも、結婚出来る訳だ」
「相変わらず、キツイ突込みだな。 釣り目Gay! 久し振りだな。 漸く結婚して貰えるンだって?」
「それは、どう言う言い草だ」
利知未が、膨れっ面になる。
「良く我慢したねぇ! エライ、エライ!」
透子は昔から変わらない、ヘラリとした笑い方をする。
教授が透子の分の珈琲まで入れて、持って来てくれた。
「ありがと」
「書斎に居るから。 支度が出来たら、声を掛けて」
教授はそう言って、リビングを出て行った。
「支度? どっか行くのか?」
「アンタ達も一緒だよ。 お昼くらいは奢ってくれるって、言ってた」
「それは、申し訳ないな。 昼前には帰るつもりだったのに」
「久し振りに親友に会いに来て、それは冷た過ぎるってモンでしょ? 良いじゃない、元恩師に素直に甘えれば」
「恩師って言ったって、教授の講義、二年の時に受けた切りだよ」
「それでも、元教え子。 気にしない、気にしない。 旦那、披露宴の時から、アンタの事を気に入ってんだから」
「披露宴?」
「利知未にギター持たせて、歌わせたの。 感動してたよ、あの人」
「そう言や、そんな事、話してた事あったか?」
倉真は首を捻って、三年近く前の事を思い出して見た。
「釣り目Gayが、恐縮するか?」
「どうでも良いけど、その呼び方、そろそろ止めろよな」
利知未に突っ込まれて、透子が言い直した。
「んじゃ、利知未の旦那、は、長いな」
「素直に名前で、呼んでくれれば良いと思う」
「ソーちゃんで、良い?」
「ソーちゃん、って……。 透子さんには適わネーよ、好きに呼んでくれ」
倉真は、少し情けない表情になってしまった。
教授の姿が無ければ、倉真もすっかり透子とは打ち解けてしまう。 気楽に、利知未と透子の漫才を笑いながら聞いていた。
「司会、やってやろうか?」
話の途中で、行き成り透子が言い出した。
「司会? 何の」
「披露宴の。 どうせ、金掛けたくないんでしょ? タダで引き受けてやるぞ?」
「遠慮しとく。 透子の司会じゃ、何喋られるか……。 安心出来ない」
「当然。 裏話盛り沢山の、アタシのオンステージに早変わり」
ヘラリとして言い放つ。 倉真も冷や汗だ。
「司会は別の人、頼みます」
「ソーちゃんまで、連れない事、言ってくれるじゃない。 二人の事を良く知っている人間がやる司会が、一番、良い思い出になるぞ?」
「二度と思い出したくない様な、トンでもない思い出になりそうだ」
「記憶に残る良い式でしたって、言って貰える事、請け合い」
「誰が言うんだ?」
「招待客、全員から」
「有り得ねー」
「猫被りチャンピオンの、利知未の化けの皮を剥がす素晴らしい企画」
自分の家族の前に居る時の利知未を思い出して、倉真は不覚にも吹き出してしまった。
「やっぱ、ソーちゃんのご家族は騙され続けている訳だ」
「騙され続けてるって、どう言う言い草だよ」
剥れる利知未を、倉真が宥めた。
「笑いながらフォローされても、説得力0!」
利知未は益々、剥れてしまった。
その後、本当に教授から昼食を奢って貰ってしまった。 目出度い祝い膳だ。 寿司屋へ連れて行ってくれた。
利知未はチラリと、櫛田の事を思い出してしまった。
帰宅して、年末年始休暇の最後の夜を、のんびりと二人で過ごした。
「お年賀の出費分、あっちこっちでご飯をご馳走になったお陰で、すっかりプラマイ0になったよ」
晩酌をしながら、利知未が言っていた。
「透子さんの所は、夫婦で呼んだ方が良くないか?」
「そうだな。 あたしも、二人の披露宴に呼ばれたんだし」
「何ツーか…、良いバランスの二人だったな」
今日の大河原夫妻を思い出して、倉真が呟いていた。
「あたし達も、バランスは良い方だと思うけど?」
「…そーだな」
倉真は頷いて、利知未の肩へ手を回す。 利知未は素直に、身を委ねた。
「しかし、披露宴の司会はマジ、本気かと思って冷や冷やしたぜ」
「透子にやって貰ったら、本気でどんな披露宴になるのか……。 考えるだけでも恐ろしいよ」
けれど、その言葉自体は嬉しかった。
二人でチラリと視線を合わせて、小さく吹き出してしまった。
「自分の事じゃなけりゃ、見てみたい気もするけどな」
「確かに。 ジュンと樹絵が、もしも結婚したら、透子にやらせてしまおう」
「ンな事、勝手に決められねーだろ」
「冗談」
それから、また笑い声が上がる。
「マジ、司会者も決め始めないとな」
漸く倉真の口から、結婚式の事についての積極的な意見が出てくれたのだった。
透子の、お陰かも知れないと、利知未は思った。
4 研修医・二年 二月
一
仕事が始まれば、一ヶ月はあっと言う間だ。 直ぐに二月がやって来た。
今月二十四日の、兄・裕一の十三回忌は目前に迫っている。 ここへ来て改めて、重大な事を思い出した。
「倉真、礼服、持ってないよね?」
月頭の休日、夕食時間に利知未が言い出した。
「礼服? ああ、裕一さんの十三回忌か」
「ネクタイも、した事なかったでしょ?」
「縁が無かったからな」
「準備しないと。 明日の日曜日、紳士服を見に行こうか?」
そんな話をしている時、電話が鳴った。 利知未は食事を中断して、受話器を上げる。
電話の相手は明日香だった。
「利知未さん? あれから、式の話は進んだの?」
「まだ、進んではいないけど。 どうして?」
「優が、また話を勝手に進めているかも知れないから、念の為に連絡をしてみろって。 今月、お兄さんの法事があるでしょう? 利知未の結婚の話は自分も解っていないと、親戚の方から何か聞かれた時に困るからって」
言われて納得した。 そろそろ、親戚への葉書連絡も必要な時期だ。
「この前の話からは、止まってるよ」
「そう、それなら構わないだろうけど。 結婚式の招待客リストも見せて貰いたいって。 明日、来られる?」
「明日か」
呟いた利知未に、明日香が問いかける。
「何か用事があるの?」
「用事があるって事では無いけど。 法事に、倉真も来て貰おうと思っていたから」
「そうね、顔合わせする機会、中々無いものね。 丁度良かったじゃない」
「そうなんだけど。 倉真の礼服を見に行こうかって、話していたんだ」
「礼服? それなら、優のお古を直して使ったらどうかしら? サイズは平気そうだし。 優も、昔より少し恰幅が良くなって来ちゃったから。 新しい服、用意しないとならないって、考えていたのよ」
「その手があったか。 優兄、太ったの?」
「大学時代に比べれば、流石に少しね。 もう、今年で三十一歳だから。 体格も変わって行く年齢よ」
「そっか。 じゃ、明日、倉真も一緒に連れて行くよ。 招待客のリスト以外で、何か持って行くものはある?」
「今あるだけの資料を、ついでに持って来て。 明日は、お昼もお夕飯もこっちで準備するから。 ゆっくり話をしましょう?」
言われて素直に頷いて、電話を切った。
食事を再開して、今の話を倉真に伝えた。 明日、昼前には優宅へ到着するように、出掛ける事になった。
翌日二月二日・日曜日に、節分の豆を手土産にして、優の家を訪れた。
真澄と裕一は、利知未たちの手土産に早速、はしゃいだ声を上げていた。 鬼の面付だ。 明日は節分だと、学校でも保育園でも教えてくれている。
「あした、これ、お父ちゃんが、かぶるの?」
裕一は、ワクワクと楽しそうな顔をして、すっかり慣れてしまった倉真に纏わり着いていた。
「被ってくれるんじゃないか? 家は、利知未の方が似合いそうだけどな」
ぼそりと呟いた言葉を、利知未は聞き逃さない。
「倉真?」
ジトリと睨まれて、首を竦める。 裕一はその様子を見て、けらけらと笑う。
「利知未、鬼の角、持ってるの?」
真澄まで面白そうな顔をしていた。
「偶にな、頭に何かが、顔を出すぜ?」
倉真は子供達に、いらない事を言って、益々、利知未に睨まれてしまった。
子供達は、大喜びをしていた。
「二人とも。 利知未たちは、今日は大事な話があって来てくれたんだから。 向こうで遊んでらっしゃい。 真澄は宿題、終わってるの?」
明日香に言われて、居間から出て行った。
「てっちゃンち、いくの、お昼ごはん、たべてからだから」
裕一はそう言って、真澄の後を付いて行く。
「お姉ちゃんは、お勉強するんだから。 大人しく、絵本でも読んでてよ?」
真澄に渋い顔をされてしまった。
子供達が大人しく退散してから、明日香が言い出した。
「優のお古、出して置いたから。 後で倉真君、一度、着て見てね?」
「すンません」
「先に、合わせちまえよ? その方が、のんびり話が出来る」
優に言われて、明日香が用意の礼服を、奥から持って来てくれた。
「ネクタイは、流石に新しいのを買った方が良いでしょう? シャツは、首回りが大丈夫なら一枚、持って行く?」
「いや、イイっす。 ソレくらいなら、新しく買っちまうから」
言いながら、倉真は礼服に袖を通してみた。
「優さん、見かけよりもガッチリしてたんだな。 俺の方が、肉が付いてると思ってた」
サイズはぴったりだった。 上着の袖もパンツの丈も、優よりも身長が二、三センチ低い割には、長さも丁度だ。
「そう言う格好すると、年齢が判るな」
「いかにも借り物って、感じっすね。 肩凝りそうだ」
手を顎に置いて首を曲げている。 やや情けない様な表情になってしまい、優に笑われてしまった。
「ネクタイは、結べる?」
「あたしが結べるから、平気」
「お前が、出来るのか?」
優が、目を丸くしていた。
「高校から大学までやってたバイトの制服が、ネクタイだったから」
アダムでの制服が男物だった事は、内緒にしておいた。
「サイズの直しも必要無さそうだし、ありがたく貰って行くよ。 それより、話を始めないと、でしょ?」
深く突っ込まれる前に、話を変えた。
先ずは、招待客のリストと、法事の覚え書きとを見比べてみた。
「この、高野さんは入れるべき?」
利知未が指を指したのは、一時、兄妹三人が世話になった事のある、父親側の親戚筋だった。
「ここは、お袋が離婚してるんだから、結婚式には呼ばなくても構わないかとも、思うけどな。 大叔母さんの家へ世話になる前に、4年近く引き取って貰った家だし……。 兄貴の生前も良く知ってるから、法事にはどうしても外せないだろう」
「けど、そう言う事情なら、リストに入れるべきな気もするわね」
明日香は、第三者の目で、的確な意見を述べてくれる。
「後は、ばあちゃんの娘さんご夫婦。 ここは、入れなきゃだよね」
「そうだな。 あの家に世話になっていた頃には、もう嫁いでしまっていたが……。 一番、世話になった大叔母さんの、実の娘さん達だ」
大叔母には、二人の娘がいた。 二人とも丁度良い年齢の頃、嫁いでいた。 妹の方も嫁いで行って、部屋が余り、大叔母夫妻が寂しい思いを感じ始めた頃に、利知未達が世話になり始めたのだった。
そう言う事情もあって、大叔母夫妻は兄妹を心から愛しんでくれた。
偶に姉妹が実家へ遊びに来た時や、年始の挨拶の時など、二人の娘達は兄妹に、大層、良くしてくれた。
「私達の分まで、お父さん、お母さんに、思い切り甘えてあげて」
会う度に、そう、言ってくれていた。
亡き夫妻の変わりに是非とも、喜ばしい席には同席して欲しい親戚だ。
「ばあちゃんチへ行くまでは、正直、余り良い思い出が無いんだよね……」
覚え書きを手に取り、利知未は頬杖をついて、呟いた。
「それは、解らない事もないがな……」
優とて、思いは同じだ。
「それなら、お祝いの品だけ届けて良しにする手も、あるけれど。 会場が余り大きくないので、ご招待客を調節させて頂いておりますって事で」
心から喜んでくれそうも無い親戚は、呼ばないに限ると言う意見もある。
既に、母親とは離婚している父親の兄弟筋の親戚なのだから、調節の節目にあっても可笑しくは無い。
「あの人の、お兄さんの家にも、半年はお世話になったけど……。 あそこは、あの人と家族の縁、切ったも同然の家庭だったんだよね」
「利知未。 あの人と云う言い方を、そろそろ改めろ」
優から、静かに窘められてしまった。
「……そうだね、気を付ける」
利知未は少し考えて、そう答えた。
「連絡は、するべき家だろう」
半年でも、世話にはなったのだ。
それ以来の親交は、裕一の法事以外では持った事も無かった。 実父には、結婚報告の葉書だけ送るつもりだった。
招待客のリストの相談を終え、式の内容へ移行した。
「式は、神前なのか?」
「俺の家が、商売屋なんで。 仏前よりは、その方が良いらしいです」
倉真も、漸く話しに参加し始めた。
「ウエディングドレスは、着ないの?」
「披露宴で、お色直しを一回だけする事になっていて。 倉真の妹の一美さんの要望で、その時に」
「そうすると、披露宴は色内掛けと、ウエディングドレスなんだ」
「そうなります」
「楽しみね。 写真は白無垢、内掛けも取るんでしょう?」
「その予定です」
「倉真君は、和装? 洋装?」
「……考えてなかったっス」
情けない顔になってしまった。
「お前の洋装は、一度見たからな。 和装で最後まで居たらどうだ?」
優が軽く、冗談めいた口調になった。
「洋装以上に、肩凝りそうだ」
冷や汗を流し兼ねない倉真の表情に、利知未も明日香も笑ってしまった。
次は、式次第の話しになった。 倉真母との相談の内容は、一冊のノートへ纏めて来ていた。 媒酌人は、館川氏の仕事関係者夫妻で勤めてくれる話しになっていた。 倉真も子供の頃は、会っている筈だと言う。
「仲人は、立てないんすけど」
「今、そう言うのが多いのよね。 良いんじゃない? 倉真君のご両親が、それで構わないのなら」
「式場、料理、引き出物は、館川さんが相談に乗ってくれているのか……。 お前は、本当に幸せ者だな」
「あたしも、そう思う」
利知未は素直に、頷いていた。
「お前達の意見は、どうなっているんだ?」
「あたしは、倉真のお母さんの意向に従おうと、思ってるから」
「利知未は俺達より、お前のお袋さんの方が良いらしいな」
優に振られて、倉真は恐縮してしまった。
「それ位で丁度良いのよ。 嫁いで行くのは、利知未さん何だから」
笑顔で明日香が、そう言った。 同時に思った。
『利知未さんは、賢いお嫁さんになれそうだわ』 姑と上手くやるコツを、どの辺りで学習して来たのだろう? などと、余計な事を考えてしまった。
ここまでで昼食を挟んで、残りは食後に話し合う事になった。
昼食を取り、真澄と裕一は其々、友達の家へと遊びに行ってしまった。 子供達の耳が完全に無くなってから、更に突っ込んだ話し合いが始まった。
費用の面から話が始まった。 これまでの経緯を話して、利知未が言う。
「お母様が出してくれると仰ってる分は、当日のご祝儀から返せると思うんだけど」
「お袋は、受け取らないとは思うけどな」
「それなら、その半分を家で払うか……」
優は手を拱いて、少々考える。
「そうね、そこまでお世話に成りっ放しなのも、気が引けるでしょう?」
明日香は今の蓄えを、頭の中で計算している。
『裕一は、来年学校だけど。 お受験する訳じゃないし』
節約をして、もう少し溜め込んだ方が良いかも知れない。
「それならそれで、勿論こっちにも返すよ」
「向こうの親御さんが受け取らない物を、俺達が受け取れないだろう」
「お袋には、俺から渡すよ。 昔の、バイクの借金返済とでも理由つけて」
倉真が、思い付いて言う。
あの時、一人暮らしを始めた自分に、返し終わっていたバイクの借金と、更に二万を上乗せして、母親は美由紀に託して渡してくれた。
漸く、キッチリと返す事が出来る。 その分は当然、倉真の貯金から出す。
「費用は、なるべく安く上げるつもりで、見積もりを出して貰っているから……。 お母様が引き受けてくれた分も、二十万は無い位だけど」
「半額として、夫婦で結婚式へ出席したら当然の出費分だな」
「そう言う事に、なるかしら?」
それならそれで、腹も括れる。
「結納は無しで、本当に良いのか?」
「その辺りは、話し合い済みです」
「そうか」
正直、助かると思う。
優は大黒柱として、一人で一家四人の生活費を稼いで来ているのだ。 余裕はそうそう、ある物ではない。
明日香は、遣り繰り上手な奥さんだ。 お陰様で微々たる物でも、幾らかは蓄えてくれているのも解っている。
優も利知未も、大学を出てからは確りと自分の足で生活を支えている。 ニューヨークの母親は、いったい現在、いくら位溜め込んでいるのやら? とも、考えてしまった。
思いがソコヘ至って、優は大事な事を聞き漏らしていた事に気付く。
「お袋には、連絡してあるのか?」
「……まだです」
「お前は。 ……どうせ法事の連絡をするから、俺から言って置く」
呆れた優が、渋い顔をしながら引き受けてくれた。
「…お願いします」
利知未は素直に、お願いしてしまった。
「利知未は、それで良いのか?」
倉真に突っ込まれてしまう。
「イイと、思う、けど?」
利知未と倉真の短い会話に、優は思わず、笑顔になる。
「お前には、丁度良い男だな」
笑顔の優から、そう言われてしまい、二人は少々、照れ臭くなった。
明日香も、笑顔で二人を見つめていた。
子供達が帰って来るまでに、話し合いは粗方、片付いた。 夕食を優一家と共に取ってから、利知未と倉真は帰宅した。
「改めて、お袋も連れて、館川さんへ挨拶に伺わないとな」 夕食時間、優はそう呟いていた。
二
倉真のシャツとネクタイは、間の休日を使って、利知未が用意した。 靴は、一昨年の冴吏が絡んだ騒動で、一足、用意されている。 靴下も同じだ。
ネクタイの結び方は、利知未が倉真に伝授してやった。
今年の命日は月曜になってしまう。 法事は一日早めて、日曜日に行う事となっていた。 前日から、利知未は慶弔休暇を二日取った。
去年の正月は、利知未が緊張していた。 今回は倉真の番だ。 少しは緊張をしているのかと思ったが、前日まで倉真は、全く代わり映えがしなかった。
「顔合わせより、服装が面倒臭いな」
法事前日の夕飯も、何時もと変わらず三杯飯を腹へ収めながら、そんな事をぼやいていた。 利知未は呆れてしまう。
「倉真、案外と図太かったんだね」
「何がだ?」
「今日も三杯飯。 …あたしが、去年のお正月には前日から、殆どご飯も喉を通らなかったのは、覚えてる?」
「ああ、覚えてるぞ。 嫁に行く側と、貰う側の差ってヤツじゃないのか?」
呑気に、そんな答えを返してくれた。
「普段、付き合いのある優さんの所は、すっかり馴染んじまったし」
「そりゃ、そーだけど。 何か、口惜しいな」
利知未は箸を止めて、頬を膨らませてしまった。
「良い顔だな。 結婚式も、その顔で写真撮るか?」
倉真からニヤリと、楽しそうに笑われてしまった。
「それで良いんだ? 将来、子供達に、お前のお母さんは、こんな顔して大事な記念写真を撮るようなヤツなんだぞって、教えるつもり?」
利知未は益々、剥れてしまった。
翌日も倉真の呑気な様子に、利知未の方がハラハラと緊張してしまう。 倉真は出掛けまで、呑気にテレビを眺めて、タバコを吸っていた。
「倉真、ハンカチ持った? お財布は? 靴下、裏返しに履いてないよね? ネクタイはちゃんと結べたの?」
自分の支度を終えて、まるで母親のように倉真へ問い掛ける。
「ああ? 持ってるぞ。 ネクタイは、こんなもんだろ?」
「緩んでる。 ちょっと、こっち向いて」
利知未は倉真のネクタイを解いて、確りと結び直してしまった。
「ぅ、苦しい…」
「これで普通なの。 第一ボタンが見える様な、緩い結び方したりして。 見っとも無いでしょ? 全く」
少し、キツメに結んでやった。 倉真は、漸く呑気な顔から表情を変える。 真面目な表情ではなく、ネクタイのキツさへの、しかめっ面だった。
本音では緊張していた。 だが、その姿を曝け出すのは嫌な感じがする。 それは、妙なプライドなのかも知れないと、倉真は自己分析をしてみた。
優達一家は現在、借家ではあるが立派な一戸建てに住んでいる。 法事は、その仏間で行われた。 法要後は、近所に在る小さな料理屋へと移動する。 そこで宴席を設けて簡単な酒肴となり、その後、引き出物を配って解散となる。
幼い頃からの兄妹を知っている親戚達は、始め、利知未の変わり様を見てビックリしていた。
「もう、落ち着いても当たり前の年だな」
昔、世話になっていた親戚からは、そんな言葉が漏れていた。
利知未たち兄妹は、約十年振りに母親と顔を合わる事となった。 場所を移動してから、倉真は改めて、利知未の母親と親戚一同へ紹介された。
久し振りに会った母親は、代わり映えないと利知未は感じた。 以前よりもまた少し、近寄り難い雰囲気になっていたかもしれない。
母親は、今年で五十九歳になる。 仕事は既に実務的な部分を後身へ任せ、自分は重職へ就いている。
いい加減、日本へ戻ってくれば良いと、優はここ数年、思い続けていた。 母が現役を退いた頃、優から進言して見た事もあった。 その時も。
「私には、日本の水は合わないようだから」
そう言って、死ぬまで戻る気は無いと、ハッキリと言い渡されていた。
「子供も独立して、生活しているのだから。 もう母親は、必要無いでしょう」 とも言われた。
考え方が少々、ドライ過ぎる嫌いのある人だった。
その言葉は、長い間、放っておいた子供達に対する、彼女なりの詫びの気持ちからの言葉だったのではないかと、最近、優は思い始めた。
『今更、母親面して、老後の面倒を俺達に見て貰いたいとは、言えないのだろう。 俺達の養育費は、彼女が一人、仕事を頑張り続けたお陰で、滞る事もなかった。 その点での苦労や肩身の狭い思いは、せずに済んで来たのは確かだ』
優は、今回の法事の件で母親と話をして見て、そんな思いに至った。
利知未は、どうしても実の母親とは、打ち解けられない。
『倉真のお母さんの方が、余程、本当のお母さんのよう……』
十年振りに顔を合わせた母親と、短い会話を交わし、改めてそう感じてしまった。
利知未は実の母親に対しても、礼儀正しく、まるで他人の母親に対するように接していた。
倉真が利知未を呼んで、短い時間、宴席を中座した。 廊下へ出て、声を潜めて会話した。
「取り敢えず、紹介は終わりだよな?」
「そう。 結婚後も、付き合いは余り無い人達だろうけど」
「ま、家庭の事情は、様々だからな。 ……それより」
倉真は、心配そうな顔付きになる。
「お前、お袋さんと、あんな感じの儘で良いのか?」
利知未は俯いてしまった。 考えながら、ポツリと言った。
「……あたしは、やっぱり、あの人を母親だ何て思えない」
「それでも、実のお袋さんだろう?」
「そうだけど……。 何か、倉真のお母さんの方が、よっぽど、自分のお母さんみたいな感じがするよ?」
言葉の最後に微笑を見せて、利知未は言った。
「家のお袋は、嬉しがるんだろうけどな」
「叱られちゃうかな? ……叱られて見たいような気も、するけど」
「……気の毒がると思うぜ」
「……そっか。 やっぱり、そうなっちゃうのかな」
小さな溜息が、出て来てしまった。
「うん。 もう少し、頑張ってみる」
軽く頷いて、利知未は倉真に約束をした。
「ああ。 俺が、お前の気持ちは支えてやる」
ハッキリと言い切って、倉真は優しい笑顔を見せてくれた。
宴席へ戻って、優の接待を手伝い気を紛らせた。 滞りなく予定が消化され、親族一同が解散して行った。
利知未達親子と倉真は、一端、優の家へと帰宅した。
優の家で、明日香が全員に茶を出してくれた。 取り敢えず、居間で一息ついた。 改めて倉真は、利知未の母親に挨拶をした。
「俺の家族は皆、彼女に感謝をしています。 家族揃って、彼女の事を大切にして行きます」
そう言った倉真を見て、母親は一応、微笑を見せてくれた。
「私は、居ないと思って下さって結構です。 娘を宜しくお願いします」
そう返事をして、疲れたので少し休ませて貰いますと言い置き、さっさと奥の部屋へ引っ込んでしまった。
母親が居間を出てから、優が倉真に対して申し訳ない顔になる。
「済まない。 驚かせたんじゃ無いか?」
「…まぁ、返って気楽っすよ?」
「娘の婚約者に対して、自分は居ないと思ってくれて構わないとはな……。 正直、俺も少し驚いちまった」
我が母親ながら、呆れてしまう言い様だ。
「……あの人らしい言い様では、あったね」
利知未は、やはり母とは呼べないと思う。 親戚の前では一応、母さんと呼び掛けては見たが、呼び掛ける度に虚しい気分になってしまった。
「取り敢えず、今夜はここへ泊まって貰うからな。 お前は、明日また仕事なのか?」
「夜勤でね」
「そうか、仕方ないな」
利知未の結婚式の事を、母親に詳しく伝える必要がある。 今は現役を退いている身だ。 休みは、取れない筈は無いだろう。
式と披露宴への出席を承知させる為に、今夜は少々、話し合わなければならないだろうと優は考えていた。
「家族の顔合わせは、式の後になっちまいそうだな」
挨拶に連れて行かなければならないとは思っているが、明日には戻ると言う母親を、館川家へ連れて行くのは不可能だろう。
「それで構わないっすよ? 優さんが正月に来てくれたんだし」
「嫁ぎ先への訪問なんだし、繰り返さない方が良いのかも知れないわね」
「そう言う言い訳は、通用する物か?」
明日香の意見を聞いて、優はやや顔を顰めてしまった。
「ご挨拶出来ない、お断りの理由よ。 言い訳とは違うと思うけど?」
少々、無理矢理な意見かもしれないが、そう言う事にしてしまった。
利知未と倉真が帰宅してから、夕食後、優は母親と話し合った。 結婚式と披露宴は出席して貰う約束をした。
「流石に、こればかりは断れないでしょう」
母親は少し面倒臭そうに、そう言っていた。
明日香は夜、寝室で、優相手にぼやいてしまった。
「優のお母様を悪く言うべきじゃないのは、解るけど……。 実の娘の結婚式だって言うのに、楽しみだとか、そう言う感想が出て来ないって言うのは、やっぱり私には理解出来ないわ」
利知未が、可哀想だと思う。
「まぁ、ああ言う人だ。 昔から」
優は、何も返すべき言葉が浮かばなかった。
翌日、母親は午前中に機上の人となってしまった。 利知未の所へは、夜勤へ出掛ける前に、優から連絡が入った。
花嫁の実母が欠席の結婚式と言うのも、締まらない物だ。 取り敢えず出席はすると言っていたと聞いて、利知未は一応、安心する事にした。
利知未達の母親はニューヨークへ戻り、直ぐに仕事場のデスクの前へ座る。
手を伸ばして、デスクの上から取り上げたのは、まだ幼い子供達と笑顔で写っている、幸せそうな家族写真だった。
「……利知未も、結婚する年なのね」
写真の利知未は、まだ赤ん坊だ。 母の腕に抱かれて、安らかな寝顔。
暫らく眺めていた。 ノックの音で我に返った。
母親は、眺めていた写真縦をデスクの上へ静かに伏せて、顔を上げた。