彼女の疑問と約束 後編
「だとしても前例が一つもないものでしょうか?」
……何が言いたい?
こちらの瞳をじっと覗き込み、顔色一つ変えずにいる姫様が口にせんとしている言葉の続きを聞いてはならないような、不確かな不安が胸を過ぎる。
穢れとは何か、そう聞かれた時点で察して話を打ち切るべきだったのかもしれない。
「誰も彼もが穢れたものだと繰り返すばかりで何をもって穢れとするかという問いには答えて下さらない……疑問を持つことが愚かとでも言うように、決め付けられた言葉をどうして鵜呑みにすることが出来るのでしょう」
耳に届いた言葉を理解出来なければどんなに良かったか。
視界が暗くなるようなドロリとした感情が腹の中で湧き上がらんと待ち構えるのを感じた。
無頓着が過ぎる姫君には人の機微に気を配る細やかさを期待するだけ無駄だろうが……。
もしそこに答えがあるとするのなら、知りたいのは他でもない火茨たちの方である。
理由も語らず事実と押し付ける側の立場で何を言い出すのか。
興味本位ならやめていただきたい。
「姫様が疑問に思われていることは十二分に理解しました。しかし覆ることのない事象を前に理由を知る必要が何処にございましょう」
そうやって納得するしかない。
触れて欲しくはない話題だった。
触れないように日頃から目を逸らしてきた話題だった。
危惧している流れから逸れないままに話が進めば、きっと声を張り上げ立場も身分も忘れて怒鳴ってしまうだろう。
「物事を解決に至らせたいのならまずは原因を究明しなければならない、と奥方様に教わりました」
「……我々忌子の話ですよね?」
「ええ、そうですよ」
空いているもう一方の手も伸ばしてきた都輝姫は布面を捲ったまま火茨の目の淵をなぞった。
反射的に目を閉じる。
指先が頰に下がってからゆっくりと開けばそれに合わせるようにして彼女は言葉を続けた。
「こんなにも美しいのに……あなたの瞳が穢れの証であるのなら、この世に溢れる全てのものが穢れていなければ辻褄が合いません」
相も変らず真っ直ぐに火茨を見詰めるばかりの姫様は大真面目な様子であるし、美しいという評価を聞くのはこれで二度目である。
慎重に身構えながら聞いていた火茨からすると予想だにしなかった台詞でもあった。
忌子の何を解決せんとしているのかも含めて自分のような者では理解の及ばない物の見方や考え方をなさるらしい。
礼を言うのも違うだろうし、苦虫を噛み潰せばいいのか否か。
何とも言い表し難い妙な心境は顔に出ていたことだろうと思う。
「随分と変わった感性をお持ちなのですね」
そう返せば首を傾げられた。
「そうでしょうか?」
「はい。私たち忌子の目を血の色と仰る方はいますが、美しいなどとは……それこそ聞いたこともありません」
鏡面や水面に自身の目が映った時のことを思い返す。
普段目にしている薊の深紅の瞳も萍の朱色の瞳も。
色の濃さは違えど血を溶かし込んだように赤いそれであるから、禍々しいと言われるのなら、気分の良いものではなくともまだ分かる。
それを美しいと言って、他の全てのものも穢れているとまで述べる相手を『変わっている』と言う以外にどう表現出来よう。
「まるで宝玉のようだと私は思うのですけれど」
「御冗談を。それは姫様の方でしょう……このように穢れた瞳などとは比べるまでもなくずっとお綺麗であらせられる」
深く深く澄んで美しい海の色。
持って生まれた力の強さが瞳の色に関係し、故に都輝姫は齢三つにして許嫁に定められ召し上げられたのだと聞くが……そのようなことは些末事だと捨て置けるだけの輝きを宿している。
見惚れて、時間を忘れて、眺め続けることが許されるなら喜んでそうしただろう。
目の前の姫君がただの村娘で、自分が忌子に生まれていなければ手を伸ばしていたのは火茨の方だったと確信を持って言える。
抱くのも烏滸がましい感想は胸の内に留めつつ、目を瞬かせる少女に腰の座りの悪さが増して、顔ごと逸らした目をそのまま閉じる。
……閉じなくとも定位置に戻った布面が視線を隔てていたのだけれど、そこはまあ、気分の問題だった。
「もうよろしいですか」
それなりの時間が経ってもいる。
目的が書物蔵にあるなら此処で延々と油を売っている訳にもいかない筈だ。
「……気分を害してしまったようですね」
申し訳なさそうな声音が耳朶を叩いてほんの少しの罪悪感を覚えた。
別段、害されてはいない。
けれど否定しても面倒が増すばかりだろうし、それは勘弁願いたかった。
身を引く彼女に合わせて肩に添えていた手を放す。
「けれど私は本当にあなたの瞳を美しいと心から思っていますし、述べた言葉に嘘や偽りはありません」
目を伏せて弁明を口にする姫様は何やら勘違いをなさっているようだ。
苦々しいような、ないような妙な心持ちのままの顔でいた為だろう。
「都輝姫様」
呼び掛ければ眉根を下げた少女の視線はすぐに戻ってきた。
一拍、言葉に悩んで、思い浮かべたそのどれとも違うものを舌先に並べる。
保身の為でもあった。
立場を忘れない為の線引きでもあった。
お互いの為を思えばこその判断だった。
「戯れに真実は必要ございませんよ」
驚いたように目を見開いた少女はきっと心豊かで自分たちのような卑しい忌子にもその心を割いて下さる人情味に溢れたお方なのだろう。
薊が気に掛けているくらいなのだから間違いなく、これ以上こちら側に近付くべきではない方だ。
「戯れのつもりはっ」
「御身のお立場を顧みた上で繰り返せるお言葉だけをどうぞ続けて下さい」
申し訳なさそうに気を落としていた姫様の顔は不満気に歪んだ。
表情に見合った声音で彼女は火茨を責める。
「……意地が悪いのね」
「誉め言葉として受け取りましょう」
彼女はただの村娘ではなく神の妻となることを定められた姫君で、自分は穢れを宿して産まれた忌子なのだから。
関わることで彼女の将来が危ぶまれてはおちおち天にも還れやしない。




