傍迷惑な休息 後編
笑顔が戻ったことに安堵して、では早速と手を伸ばすより先に饅頭を一つ摘み上げた彼女はそれを火茨の口元に運んだ。
思わず体を仰け反らせて避けようとすれば追ってくる。
「あのっ」
「どうぞ?」
いやいや。どうぞ、じゃなく。
手を掴んで阻む。
同意した以上のことを強いろうとするのはやめてくれ。
「子供ではないのですから」
「食べて下さらないのですか?」
「……自分で食べられます」
眉を下げて悲し気な顔を覗かせたかと思えば、箱を膝の上に置き、空いた手で饅頭を持ち直して唇に押し付けてくる。
にこりと笑って、どう足掻いてもこのまま食べさせたいらしい。
文句を述べようにも口を開けば押し付けられている饅頭をそのまま放り込まれるだろうし、無言で睨んでみても布面が邪魔をしてこちらの視線は届かない。
まったくもって、憎らしいと言う以外になんと言えようか。
「火茨」
「…………」
「食べて下さらないのですか?」
無言の訴えを彼女が汲み取ってくれることはないのだろう。
結局、押しに負けて従わざるを得ないのだ。
内心で暴言を吐いて半ば自棄になりながら、勝手に放り込まれないよう手を掴み直す。
唇を開いて噛り付く。
冷気を纏う指先に冷やされた饅頭は先程とはまた違った味わいで餡の甘さを広げた。
ひんやりとしている分、口内の熱に侵されていく様がはっきり感じられる。
美味い饅頭であることに変わりはないがこの味わいは早々に忘れるのが身の為だろう。
それこそ、癖になる。
十分に楽しむことはしないまま残りも唇で奪って舌の上に転がした。
カスまで綺麗に舐め取って、その冷たさを覚えてしまう前に喉の奥へと追いやる。
「これでよろしいですか」
「駄目、と申したらもう一度食べて下さいますか?」
「姫様」
「冗談です」
普段の行いが行いなので笑顔の『冗談』には安心が出来ない。
手を掴んだままでいれば名前を呼ばれた。
返事をする前に言葉が続く。
「目を見せて下さい」
何故、今この時なのか。
いつもなら二言目には催促してくる彼女が今日は静かだと思ってはいた。
茶と菓子に気を取られて忘れていた訳ではなかったらしい。
思わず閉口してどうにか避けられないかと打開策を探す。
普段のようにただ目を見られるだけなら、いや、それも構うには構っているが今はなおさら曝したくない理由があった。
箱を湯呑なども置いている、側の卓袱台の上に避難させた姫様は向かい合うように体勢を直すと自由の利く手を布面に伸ばしてきた。
饅頭の時より更に体を反らした火茨は彼女の背に添える必要のなくなった手を動かしてそれを阻む。
両手を掴んだことでひとまずは、と思うも目を瞬かせた相手は一拍置くと身を乗り出し顔を近付けて来た。驚きつつ背中を床に付ける。咄嗟に離した手は彼女の肩を掴む前に逆に指を絡めて押さえ込まれた。
逃げられない。
顔を反らす間も無く迫り来た柔らかな唇で布面越しに鼻筋を啄ばまれる。
咥えられた布がそのまま捲られるのを声も出せずに凝視する。
直に視線が絡めば海色の目は細まり、笑った。
「今日は頰も赤いのですね」
「……戯れも程々にしていただかないと困ります」
自覚があったから曝したくはなかったというのに。
布面があれば口元こそ隠れていないまでも、鼻先までの長さで頰の方も隠してくれている。
手ずから饅頭を食べさせてもらう形になったことも、布越しとはいえ唇が触れたことも羞恥心を覚えるには十分過ぎた。
どうして姫様が平然としていられるのか甚だ疑問で仕方がないくらいだ。
思わず眉間に皺を寄せた火茨の頰に手が寄せられて宥めるように親指の腹で撫でられた。
困ると言っているのに、それを無視して吐息が掛かる距離まで近付いてくる。
空いた手で肩を掴んでも覆い被さられている現状では効果は無いに等しい。
「姫様」
「いけませんね」
「自覚がお有りなら離れて下さい」
無くても離れてもらいたいところだ。
「火茨の瞳はどれだけ眺めても眺め足りなくていけません」
「……度が過ぎるようであれば青目神様に御報告させていただくことになりますが」
聞き慣れてしまった賛辞に苦い思いと呆れを抱く。
火茨としても避けたい最終手段は中々人の言葉を聞いて下さらない姫様の耳にも止まったようで、瞳にばかり向けられていた意識をようやく傾けてもらえた。
視線がキツく、表情が硬くなる。
「そのようなことをしたらあなたが」
「ただで済まないのは承知の上です。しかし、元より価値無きこの身が姫様を惑わすものであるのなら早々に天へと還るが正しき選択というものでしょう」
報告する内容の程度にもよるが規則を破り瞳を曝したことに触れれば間違いなく都輝姫よりも火茨の方が重く咎められるだろう。
ありのままを包み隠さず話すならおそらく死罪は免れない。
分かっていて、こちらを責めるように睨み顔を歪める姫様だからこそ例えその選択を選ぶ日が来ても後悔はしないと言えた。
「どうか離れて下さい」
物言いたげにしながらも都輝姫は黙って言葉に従った。
ゆっくりと身を起こす。
頬にあった手は滑るようにして首筋を辿り胸元に置かれ、覆い被さるようにしていた体勢から腹の辺りに座る。
彼女の足に脇と服を押さえられている火茨はまだしばし動けないままだ。
そのまま上から退いてくれるのを待ったが、しかし、願った通りには動いて下さらないのがこの姫様で……。
腹から太腿に位置を直すも跨ったまま、動かせるようになった上体を起こそうと浮かせた瞬間に胸に飛び込んできた。
再び床に沈まんとした体を咄嗟についた肘で支える。
愚図るように擦り寄せられた額に合わせて白糸の柔らかな髪が鎖骨を擽った。
「姫様」
「惹かれて止まない心の止め方を私は知りません。離れろと言うのならまずはそれを教えて下さい」
湯呑みは二つだと訴えて来た時と同じ駄々っ子が顔を覗かせる。
しばらく様子を見てみるも離れて下さる気配はない。
……惹かれて止まない心の止め方、か。
「簡単なことですよ」
それはもう嫌になる程に。
「誤魔化して、否定して、そのような心は抱いていないと思い込むだけでいい。認めてしまうから言動に表れるのです」
「否定しきれなかったら?」
「命尽きるまで否定して下さい」
「無茶を当たり前のように言うのですね」
姫様の声音は呆れを含み、そして少し不満気だった。
ため息に似た吐息と共に身動ぐと顔をズラして鼓動に耳を傾けてくる。
徐々に力の抜かれた体が僅かな隙間さえ埋めて火茨に伸し掛かった。
「この音は誰にも誤魔化せはしないのに」
痛いくらいに早鐘を打っている。
息の詰まる思いを覚えて、身を任せてはならない衝動に襲われている。
自分自身のことだ。
一番よく分かっている。
だからこそ、同じことだと言えるのだから……。
例えどんなに音を立て心臓が己の気持ちを主張してこようとも変わらない。
「理由の付け方次第です」
「自覚があるのなら認めているも同然では?」
「悪化は防げます」
「最後に酷く後悔する未来しか見えません」
後悔するより先に死んでいる……と思ったが、それは忌子である自分にしか当て嵌まらないことだと気付いて口を閉ざした。
薊と二つ違いの火茨も三年後には天還の儀を受けることになる。
けれど都輝姫はその先もずっと、火茨たちが天へと還る年よりも倍の月日を生きていく。
「大丈夫ですよ」
ツキリ、と胸が痛んだ割に開き直した口で発した声は我ながら穏やかなものとなった。
「例え酷い後悔を覚えても、神に嫁いで子を成す頃には忘れています。子が育ち天命を全うし終える頃には思い出すこともなくなっているでしょう」
顔を上げた都輝姫が眉間に皺を寄せた。
不服の中に悲しみもある。
喋れば喋るだけそんな顔ばかりをさせているように思うのは気のせいではないだろう。
憎らしい口しか持たない忌子に構っても時間を無駄にするばかりで得るものは何一つないことをそろそろ姫様は学ぶべきだ。
「あなたには私がそのように薄情な人間に見えているのですか」
「では一つお聞きしますが薊とは別にもう一人、私には姉がいたことを覚えておいでですか」
蓮も内殿務めではあったが七年も前の、召し上げられたばかりだった幼い頃のこと。会った回数もそう多くはないだろう相手を覚えていろと言う方が酷な話だということは分かっている。
もう一人の姉が確かに此処で暮らしていたことを覚えているのはもはや薊と火茨だけだ。
赤ん坊だった萍の記憶にもその存在は残っていない。
しかし、今でこそ時の流れのせいと言えるが天還の儀を終えた翌日には悼む間も人もなく、常と変わらず姉の存在など初めからなかったかのように和やかな笑いさえ聞こえてきそうだったことを、痛感した命の軽さと虚しさを忘れることは難しかった。
……儀式を控えた彼女が掟に逆らい村から逃げ出そうとした事実もまた覚えてはいるが、全ての忌子が天へと還る為にと生まれ持った力で己が身を焼いて命を絶つ定めを素直に受け入れることができる筈もない。逃げ出すことは許されなくても責められるものではないと……そう考えるのは、きっと自分たちの勝手なのだろう。
意図を理解して眉間の皺を深くした都輝姫は目を伏せた。
必死に姉のことを思い出そうとしてくれているらしく逸らされた視線はあらぬ方向を向いているも真剣だ。
ただ、残念ながら例え思い出せたとしてもこの質問には即答でなければ不適切で、時間を掛けた答えに意味はない。
火茨は彼女が答えを出すのを待たなかった。
「我々はその程度の存在ということです……弁えていますから、どうぞ姫様もそのように扱って下さい」
思い出そうとしてくれただけで十分とも言える。
離す機を逃し続けて握られたままでいた手に力が込められ戻ってきた視線は悩まし気な色を残しつつこちらを探るように見詰めた。
そして責める。
「どうやら私は意味を履き違えていたようで、あなたに返さなければならない言葉が出来ました」
「……なんでしょうか」
「聞けない願いというものもございます」
確かに覚えのある言葉ではあった。
睨むように真っ直ぐな瞳に気圧されて思わず押し黙る。
しかし周りの人間がそうするように自分たちを扱えと言っているだけの何が聞けない願いなのか。
彼女の訴えは静かに強く、少しだけ切なく響いた。
「もう一人の姉君のことをすぐに思い出せなかったことにお詫びを申し上げた上で、けれどその姉君よりもずっと関わりを持っている相手を『その程度の存在』などと言って忘れてしまえる人間に私はなりたくありません。そのような人間になれと望むのは止めて下さい」
「いえ、姫様」
「望むのは止めて下さい」
喋ろうとするたびに遮られて申し訳ありませんでした、と謝る以外に言葉を続けさせてもらえなかった。
聞き分けのない少女がまた愚図り始める。
胸に擦り寄せられる額を、そうさせる要因を作った手前、咎めるに咎められずそっとため息を吐き出した。
相手というのが自分のような忌子でなければ一向に構わないのだ。
けれど、どうすればそれを理解していただけるものか。
心を割いて苦しむのは姫様で火茨ではない。
だから忘れてしまった方が姫様の為であるし、そういうものだと諦めの付いている自分を気遣う必要はない。
「あなた方は諦めが早すぎます」
支える腕が痺れてきて一声掛けてから床に沈み直すと返事の代わりにぼやかれた。
捲れ上がったままの布面の位置を戻しながら「そうでしょうか」と、とぼけたら間髪入れずに「そうですよ」と返される。
「あまりに早すぎるから、私が諦められないんです」
酷い責任転嫁を聞いたものである。