序章
例えるならば海の色。
遠い遠い沖合の深く澄んだ海の色。
冴え冴えとした輝きが冬を纏った宝玉のようで光の加減で揺らめくその色に感嘆を吐くのも忘れて見惚れたことを覚えている。
美しかった。
ただ、ただ美しかった。
余寒に手足を擦り合わせる如月も過ぎて木々の芽も膨らみ始めた弥生の頃。
収穫時期を迎えた春の野菜が村の者より御社に献上されたらしく外殿に務める女中から譲り受けたそれらを姉の薊が離殿に持ち帰った。
牛蒡に蕪に蕗、蕨。
傷が目立って形が悪かったり故に足が早かったりするようなものばかりだったが、水っぽい粟や稗の粥で凌いでいた冬場を思えば大層なご馳走である。
声に出して喜んだ弟の萍のように分かりやすい態度こそ取らなかったが同じ気持ちの火茨は自らの頰が緩むのを感じた。
久々の贅沢であることを除いても採れたての野菜というのは美味いものだ。
蕪は塩で揉んで浅漬けにしても良いだろう。
これから数日の献立を頭で巡らせながら今は使わない野菜を片付ける。
そういえば、と姉に声を掛けられたのは早速蕨を和え物にしようと夕餉の支度に取り掛かってからしばらく経ってのことだった。
「聞いたわよ、火茨」
竈の前にしゃがんで火をくべていた火茨はその手を止めて振り仰いだ。
今夜のおかずとはならないが明日の為の下拵えとして牛蒡を笹掻きに切っている彼女がチラリとこちらに視線を向けながらによによと口元をにやつかせている。
明らかに好ましいとは言い難い。
火茨からすれば面倒でしかない話題が口にされようとしていることを察して思わず眉間に皺を寄せた。
目が合ってしまった以上聞き返す他ないのだが。
「誰に何をだよ」
身構える弟に薊はいやらしい笑みを深めて言った。
「都輝姫様に寝込みを襲っていただいたんですって?」
ガシャンッ。
言い終わるか否かという時に近くで鋭い物音が響き渡る。
器の用意を進めていた萍が姉の言葉を真に受けて手を滑らせたらしい。
二人で振り返ると厨の土間に散らばった椀と小鉢に慌てて手を伸ばす末弟の姿があった。
陶磁器の類いではなく、木製だったことが救いと言えるだろう。
人を揶揄う為にわざと紛らわしい言葉を選ぶ薊の悪癖に振り回されるのはいつものことであるが、話の先が気になるのか散らかした器を拾うのもそこそこにチラチラとこちらの様子を伺ってくる萍に軽く嘆息が漏れた。
竈の番をひとまず置いておくこととして立ち上がる。
「誤解を招くような言い方をするな」
都輝姫が火茨の元を――というより所用の関係で離殿を訪れたのは昨日のことだ。
週に一度の非番で御社の庶務に走らされることもなく、麗らかな春の陽気を感じながら縁側でうたた寝に興じていた時だった。
だから、寝ていたのは確かであるし、そこに姫様が現れたことを取り上げるなら事実でもある。
襲われたという表現はそぐわない……と、言い切れないのが少々、いやかなり苦々しいところだが。
弟が想像したであろう不義や不埒な行い、疚しさを抱かねばならないような話に限るなら断じて何もなかった。
……断じて何も。