蒼い目の少女
神切虫と、音戯話
それは与太話。世捨て人が見た果ての世界の話。
その地域では山を背負い、草を薙ぐ風が囂々と吹く。冬になると白い雪に覆われ、すべての生き物がひっそりと息をひそめる。
村には人間人外鬼河童。たくさんの種族が混ざり合って住んでいた。働き者はまじめに農耕にはげみ集落にめぐみをもたらし、怠け者はただそれを食らっていた。そこに壁はなかった。
十五夜の夜には星が降る。空からキラキラと白い粒子が降り注ぎ、その中で人と鬼と魔と妖は手を取り合い、生を歌い収穫をよろこぶのだ。
人生を投げたその旅人も、ついには村に居ついて酒を飲み暮らした。いつぞやその村は星楽村、と呼ばれるようになった。
蒼い目の少女
1
太平洋を正面に迎え、神様が住むとされる光ヶ丘市の隣に位置する「星楽村」は、人口2000人ほどの集落だ。都心部の光ヶ丘市に行くには電車で一時間ほどかけねばならないなど、交通の便は悪い。特産物と言えるものも養蚕の他にはリンゴなど果物が少々とれるだけ。村人は入れ替わり立ち代わり、なんとか2000人ほどの規模を維持している。駅の真向いに役場があり、役場の隣には古くから伝えられる神社が在った。……神社が先か、役場が先か。住居という人の拠り所と、信仰という心の拠り所。太古の共存の仕方とは、現在と大差ないだろうと「神切透」は思う。神社の境内から太鼓の音、それに混じって和笛の冬の済んだ空気のような音が聞こえてくる。何か祭りをやっているみたいだ。のぞいてみようか。悩むけれど、……右手が痛くなって考えるのをやめる。そうだ、自分は目的があってこの地を訪れたのだ。
それは呪いだとおばばは言った。先祖代々、「神を殺してきた罪」を背負って生まれてきたのだ。透の右腕はひじから先は深緑色の鱗に覆われ、満足に自分で動かすこともできない。年を重ねるごとに硬度を増していく右手。15歳の成人の儀の時に、突如として暴れだした。「それは呪いだ」。おばばは断言した。
「お前の親も、そのまた親も、代々遡って祖先でさえも殺し続けたカルマを還さねばならん」
「俺だって、満足に成人してないんだぜ」
祖母から渡された、身を清めるための短刀が、透の右腕に突き刺さっていた。
「俺一人が背負わなきゃならんて、そんな話はねえだろう」
「仕方ないのじゃ」
「仕方ない? 」
透は暴れ狂う右手を抱きしめながら、笑い声をあげた。
「おっかがここを見限って外へと嫁いだのも、おっとうが死んだのも仕方ないってのか。
みんなが見捨てたこの村で、いまさら神様退治なんてわりに合わない」
それ以来、おばばの制止を振り切り、村を出た。出先は自分とは遂にあると言われていた星楽村だった。
太鼓の音に合わせて、右腕がうずく。……どうも鼓動しているようだ、という不安をぬぐえないでいた。日に日に活力が増し、まるで別の生物のように脈打つこともある。いつか不安とともに破裂して、自分の体を食い破るのではないか。……そんな漠然とした不安がある。水筒の水を飲むと、気を取り直し、歩を神社のほうへと進めることにした。
2
「祭りじゃ」
言い出したのは、村長のおいである「太郎正房」である。御年70にも差し掛かろうという年配の男だった。
「今さら、祭りかよ」
不満を口にしたのは村で唯一の土建屋を営む金田進である。シャツから突き出た腕は黒く日焼けしている。
「村に活気がねえ。活気がねえのは若いやつがいないから。
じゃあ祭りをやって若いやつを呼ぼう。もうそんな時代じゃねえだろ」
「うちの村にはほかにはないものがある。音人じゃ」
「音人ぉ? 」
金田は思いっきり声を際立たせて、両手をあげてみせた。
「そんなおとぎ話の住人だぜ。俺は見たこともない」
「うちの裏に住んどる樅ノ木かなえがそうだ」
「かなえぇ? あいつはだって、身寄りがなくてこの村に引き取られてきたんじゃ」
太郎は金田のことをジロリとにらむ。
「……悪かったよ。禁句だったな」
「この村を作った初代さまは一切の憎しみや蔑みを持ち込んではならんといった。
それは音を濁らせ、ひいては豊穣にも影響するとな。この役場じゃルールに従ってもらうぞ」
「悪かったよ。それで」
「樅ノ木かなえも、この村に血縁がないわけでもない。遠縁にあたるのが御伽のばあさまだ」
「御伽のばあさまか。まだ生きてるような気がするな。100歳まで生きたんだっけか」
金田は遠くを見つめるような目をした。自分が生まれた時から生きてきた、この村名物の老婆だった。几帳面に髪を真後ろで結びつけ、間違ったことをすると大人も子供もしかりつけた。いつも紫色の和服を着ていて、歩くと足を引きずる音がした。この少し不気味でおっかない老婆を、村のみなは慕っていた。祭りのたびに演奏する老婆の奏でる音楽が、人々を楽しませるのだ。
「今じゃおばばほどの使い手もおらん」
「ありゃあ、神業ちゅうんじゃ」
「ちげえねえ」
2人で声をそろえて笑う。
「あんな小娘に任せて大丈夫か?
……そうだな。蔑みは禁止だったな。
畜生、ここで相談されたときから答えなんて決まってるじゃねえか」
にやりと、いたずらが成功したときのように太郎は笑った。
「答えは? 」
「楽しみにしてるぜ」
肩を落として金田は小屋を後にする。
樅ノ木かなえがこの村にやってきたのは、10歳ぐらいの時だったと思う。断言できないのは、当時の記憶があやふやだからだ。思い出そうとすると紫色のもやがかかって、目の前がぐわんぐわんとまわりだしてしまう。最後は自分を引っ張ってくれた御伽おばばの姿が浮かぶだけだった。両親の顔も記憶も、写真で見る以外に思い出せなかった。
それを別段寂しいと思うわけでもない。御伽おばばが愛情以上のものを注いでくれたからだ。夜一人で、寂しくて泣いていると、御伽おばばは自慢の楽器を倉庫から持ち出して、こっそりと弾いてみせてくれた。真っ暗闇で不思議と彩を持つその調べを子守唄に、かなえはいつしか眠りについていた。
おばばが死んだのは、15歳の時だった。悲しいとは思えなかった。本人も、村人も予感はしていたのだ。葬式ではかなえが代わりに、演奏をした。悲しいを調べだった。以来、二度と楽器を持っていない。
「よしっ」
今日は午後から学校だった。午前中はどの家も田植えの手伝いをするらしい。かなえは明るいうちに畑の見回りと、家の裏にある祠を清めることに決めていた。おばばと約束した、数少ない頼みでもある。
畑の棟に水をやる。濡れて、土の香りが鼻をくすぐる。もうすぐ夏が近い。シャツから伸びた手はじんわりと汗ばんでいた。大きくなり始めたキュウリの葉を裏還すと、地面に横たわっている人影が見えた。
「だいじょうぶっ? 」
焦って思わず声をかけてしまう。日射病になっていたらどうしよう。触れてみると、驚くほど冷たかった。それ以上に、髪の毛が真っ白いことに驚いて、かなえは溜息をついた。
「とにかく運ばなきゃ」
ほかに頼る当てもなく、かなえは少年を木陰の下へと運んだ。
悪魔祓いと対をなす神払い。それが神切家の生業だった。悪魔が人間の欲望、絶望、憎悪に増徴して悪事をなす。対する神払いは、不要と成り果てた土地に住み神様、長く愛用されたが持ち主を喪って行き場のない魂を浄化するのが目的だった。日本古来の土着の信仰に基づき、アニミズム精神にのっとった、シャーマン信仰のようなものだった。本来は体に潜む穢れなどつきようのないはずだった。
しかし時を経て、食い扶持を得るために神切家は没落し、一族の能力を一種の悪霊退治に使うものも居た。そのハグレもの達を「穏神切」と呼び、従来の「表神切」と差別した。
神切透は穏神切の一族に生まれ、「表神切」に養子に出された。血筋の中に、本家のものが入っていたことが原因らしい。噂では「表神切」の当主が、白髪赤眼に生まれついた透のことを面白がったというが、真相は不明である。養子に出されたとき、年は10.すでに物心はついていた。
養子では何不自由なく暮らすことができた。同時期に暮らした養姉妹の視線は不快ではあったが、死ぬほどの生活を思えば苦でもない。右手にさらしを巻き、病人を装うことで異形の手を隠していた。
姉に憑かれた神を払うために、右手の正体がばれてしまったのは、皮肉ではある。姉妹は透をさげすんだ。透は家をでる決意をした。「呪いなのだ」。おばばの声が繰り返される。
神切家は呪われているから、つらい人生を送るのだ。
「痛い」
頭を抑える。……左手だった。神撫手も関係ない。鱗に覆われた右手は、視界に入るのさえ不快だった。
自分を覗き込む顔があった。知らない少女だ。髪の毛は栗色をしているが、覗き込む瞳はほのかに碧い。森のような色をしている、と感じた。
「大丈夫ですか?
不安げにこちらを気遣う声に、透は首をふって答える。
「心配かけたみたいだ。すぐに行くさ」
地面に手をついて上半身を持ち上げると、……重力に耐えかねてゆっくりと前傾姿勢になる。倒れかけた体を、少女が支える。
「私、樅ノ木かなえ。もしよかったら、うちで休みませんか」
「いや、俺は……」
俺と一緒に居ると不幸になる。そんな冗談じみた台詞さえも、今のこの体の前では真実となる。だから。
何かを言葉にする前に、少女は部屋の中の箪笥から何かを持ち出してくる。……その正体が包帯であることに気づき、透は驚いた。
「俺に親切にしても、いいことないぜ」
「この村の人は。
見返りなんて求めてませんよ。私たちは神様に生かされている。
だから貰ったものを、困ってる人に返すだけなんです」
神様なんて居ない。そう言葉にしようとして、やめた。自分にとっての神が敵であるように、少女にとっての神がそうであってもいいのだ。もしかしたらどこかに、そういう存在が居るかもしれないから。
かなえが、透の右手の包帯をほどく。そこにはひじのあたりまで鱗に覆われた、異形の手があった。かなえは小さく息を飲む。
「驚かせたな。呪われてるんだ
生家が特殊で、因果を背負ってしまった。
気味の悪いのは認めるが、害はないんだぜ」
左手でそっと、鱗を撫でてみせる。
そこに重なる白い手。はっとして、透は顔を上げる。そこには口を真一文字に結んだかなえの顔があった。
「大丈夫です。心配ない。そういって無茶をする人、何人も見ました。
私に任せて」
透は首を振る。差し出された手を、そっとふりはらう。こんな人種初めてだ。たいていは気味悪がって遠巻きに見るか、偽善で言葉を並べるだけだ。しかしかなえは心底そう思っているようだった。……頑固な善人ほどめんどくさいと透は思う。
右手の先に、柔らかい感触が触れる。それは今までに触れたことのない、暖かな少女の肌だった。ドキリとした透に同調して、右手がいなないた。
「駄目だ。ありがたいけれど。俺の右手が君を殺してしまう」
「あなたに特技があるように、私の家にも秘密があるのであって」
かなえは、押し入れから、あやしげなツボを取り出した。
「それに困ってる人を見捨ててはいけないという家訓もあるのです。
これに手を入れてください。生薬が入っています」
「大事なものなんだろう? 」
「樅ノ木家代々寝かせてきた生薬です」
「俺が触れたら腐ってしまう」
「あなたの根はそんなに直なのに」
透はほほが熱くなるのを感じた。
反論するのももはやバカバカしくて、右手をゆっくりとツボの中にいれる。腐るなら腐らせてしまえ。半ばやけだった。目の前で見せたほうがいいような気もした。
その反応は一瞬だった。少年の右手が、緑色に光る。次の瞬間、その光は壺の中に吸い込まれていった。壺は薄碧の蛍光を放つ。少女はその光を逃さまいと、そっと蓋を閉じた。壺はかすかな鼓動を示すものの、ぼんやりと明りを放つだけで、それ以外の害はなさそうだった。
透は自分の右手を見る。
何度も。
そこにあるのは、鱗に覆われた忌まわしい手ではなかった。肌色の、人間のものだった。
「この壺は、魔除けの一族にもらいました。
魔を以て魔を払う。
壺に押しとどめた呪いで、外部からの魔を払うのです。
神切さんの一族が繁栄しますように」
少女は手を合わせて微笑んだ。
そして透は、自分が泣いていることに、その時気づいた。
そんな少女と少年の出会い。村の外では笛の音が聞こえてくる。
村人が伴奏をする。その予行らしい。軽やかな音に合わせて、家に誰かの走ってくる音が聞こえる。……。
がらりとかなえの家の扉が開く。立っていたのは金田。村で一番の大男だ。
「大変だ。裏の神社が、今にも壊れそうだ。
かなえ、お前なんとかできねえか」
「行きましょう」
ひとつ、うなずくと、かなえは家を後にした。
「まだゆっくりしていってください。
祭りは、まだ始まっていないのだから」
と、透に微笑みかけた。
その山には伝説がある。一途に旦那を思う雪女の話。世捨て山と呼ばれたその地に、住んでいたのは年齢200にもなる仙人が一人。山に迷い込んだ家族が居た。生き残った。修行をさせて仙女にするか、記憶を消して俗世にかえすか。ふつうは2択の中から選ぶならわしだったが、世捨て仙人は変人だった。助かった娘に神通力を与え、衣食住を与えた。何年か一緒に暮らし、娘は仙人の最期をみとった。すると神通を伸ばした娘は、雪降る小屋の中で一人、人として生きるには能力が長け、かといって仙人として過ごすには生きがいも師匠もない。だから激しく雪降る山に居る「存在」としてだけの、雪女になってしまった。時が過ぎれば時代も変わり、世捨て山は「秋葉山」と呼ばれ、紅葉狩りの観光名所となった。雪女は山を登る人々を嬉しそうに、少し迷惑そうに眺めていた。それが 日課となっていた。
雪女はいつまでも旦那を思い、命日には川を下り花を供える。それ以外は下界の人々の暮らしを眺めて過ごしていた。
ふもとから、笛の音が聞こえた。今年も祭りの季節が近づいてきたようだ。去年、奏者のおばばは死んでしまった。今年は誰が務めるのだろう。いつも自分は見送る側だ。いろいろな思いが去来して、けれどそれを溜息で掻き消して、楽しいことだけを思う。まだ年若いあの少女だろうか。今年は楽しみだ。たとえすごく下手だとしても、ゆくゆくはきっと上手になるだろうから。
「右手がうずく」という中二病的な特徴を一話で解決させました。