<おもいで文庫より その2> 父の物語
早世した母の分まで長生きしてほしいと願っていた父に、まさかのがん宣告。
一年足らずで両親を見送ることとなった私たちの日々を、ありのまま綴ってみました。
病や死は日常の中にあり決して特別なものではないこと、悲しみの淵に突き落とされても人は必ず這い上がる力を持っていることをお伝えできれば本望です。
「いやぁ、これで母さんの納骨も終わったし、ほっとしたわい」「ほんとに……よかったね」
五月晴れの、汗ばむくらいの午後だった。豪雪のため延び延びになっていた母の納骨をようやく済ませ、満ち足りた気持ちで家路につく途中だった。3人の子どもたちは弟の車に同乗させてもらっており、車中は父と私の2人きりだった。
「実は最近、右の脇腹がおかしくてのう…」ふいに父がつぶやいた。
「えっ……」ハンドルを握っていた私は、思わずバックミラーを睨んだ。「それで?」「あさってC病院で診てもらうことになっとる」「何時?」「なぁん、自分で行くからいいちゃ」
――何だろう?がん?いや、そんなはずはない。頑強な父に限ってそれはない。だとしたら……あぁ、もしかしたら若い時に盲腸炎を我慢して腹膜炎を患った痕が、膿でも持ったのかもしれない……きっとそうだ。私はしきりに自分に言い聞かせていた。母が亡くなってまだ4か月。この上父までもが重病などどは言わせない。そんなことがあってたまるか……!!
実家に着くなり、私は弟をつかまえた。「父さん、右脇腹に違和感があるって。あさってC病院で診てもらうらしい。私、付き添ってくるね」「うんわかった、頼む」浮かぬ顔で弟は頷いた。
自宅に戻った私は、すぐさま病院に電話をかけた。「あさって内科にて診ていただくことになっております、Sの娘です。1人で行かせるのは心配なので付き添いたいのですが、予約は何時になっておりますでしょうか?」「午前10時ですね」「ありがとうございました」
平成18年5月23日。午前9時40分、2歳の次女とともに、病院の玄関で父を待ち伏せる。9時50分、父現る。「来んでいい言うたんに……」迷惑そうな顔を見て見ぬふりをし、受付へ。さすがは1日当たりの外来患者数日本一の公立病院。ロビーはごった返している。
約束の10時を過ぎてもなかなか呼ばれず、じれったさが増してくる。
10時30分、ようやく名前が呼ばれる。
父が紹介を受けていたのは、眼鏡に白髪まじりのベテラン医師N先生だった。
簡単な問診ののち、診察台に横たわる。右脇腹を何度か押され、触診が終わる。
「どこまで申し上げてよろしいでしょうか?」単刀直入だった。「ありのままにお願いします」私たちは揃って答えた。
「大腸がんです。既に肝臓へ転移しています。手術はもう無理です。抗がん剤で行くしかありません。あさってから入院して下さい」
――夢を見ているようだった。父が……がん……。みるみる涙があふれ、左手で次女を抱っこしながら、右手はしきりに父の右肩をさすっていた。その確かな手応えが、夢ではないことを無情に証明していた。
「手遅れ、ということですね?」父は聞き直した。もしかすると打ち消されるかもしれない、という一縷の望みを抱いていたのだろうか?「そういうことになります」先生の淀みない口調に、かすかな期待はあっさりと裏切られた。
「しかし最近の抗がん剤はどんどんよくなってきています。ここでも最先端の薬を使っていきますから、がんばりましょう」……空しいフォローとわかってはいても、「はい。よろしくお願いいたします」としか答えようのない私たちだった。
父は、業務用無線機の販売・施工・修理などを手がける小さな会社を経営していた。近年は携帯ショップも展開していた。突然「あさってから……」と言われても、40年に及ぶ積み重ねは、今日明日で引き継げるようなものでは到底ない。
入院を1週間延ばしてもらい、翌日から父は、弟と後見人のTさんを呼んで事情を説明し、引き継ぎと残務整理に取りかかった。当時弟は修業のため他社に勤めており、夏頃から父の元へ見習いに入る予定だった。父は自ら事業を起こし、いずれは会社のことを最もよく考えてくれている人に譲るつもりでいた。かつて一度、弟が「そろそろ手伝おうか?」と持ちかけたことがあったそうだが、「まだ早い。世の中を広く見てこい」と一蹴されたという。こんなことになるなら、あの時すぐに首を縦に振ってほしかったと悔やまれる。
ともあれ弟は即刻退職届を提出し、父の会社に新人として入社することとなった。
平成18年5月29日、父はC病院に入院した。皮肉にも、息子の35歳の誕生日だった。これからつらい抗がん剤治療が待ち受けていたが、気持ちはすこぶる前向きで、子宮がんを克服した友人が飲んでいたというドリンクを差し入れるよう、早速メールが入った。
父は携帯ショップを経営していながら、メールにはとんと疎かった。私がメールを送っても、返事はいつも電話でしてきた。
その父がメールを覚えるきっかけとなったのが、皮肉にも入院だった。大っぴらに通話するのはさすがに憚られるので、メールでやりとりし合うことにしたのだ。
亡くなった母とも、こんな風にメールをやりとりできていたらなぁ……と、ふと思った。母は徐々にパーキンソン病や痴呆の症状が進み、機械の操作は難しかった。母に申し訳なく思うとともに、リアルタイムに要望を把握できるありがたさに感謝しつつ、文明の利器を最大限に活用することにした。
幸い父は個室だったので、私は次女を連れて毎日通った。母の時と同じ、孫の顔が何よりの特効薬になると信じて。
なにぶん急なことだったので、部屋はさながら「応接室」だった。取引先の方がひっきりなしに見え、病院着で点滴をさす父と打合せを行った。あらかじめ約束がある時は知らせてくれたが、急な来客の時は娘と2人、談話室で待ち続けた。
交友の広い父の部屋は花で溢れ、がんとの闘いが待ち受ける重苦しい空気を和ませてくれていた。父のお気に入りは、深紅のバラだった。意外にロマンチストな一面を知って、おかしかった。
検査の結果、父の「上行結腸がん」は、肝臓、肺、さらには「五十肩だ」と痛がっていた左肩甲骨にまで転移していることがわかった。いったいいつから持っていたのだ!?と呆れて言葉もない。
確かに父はここ数年、徐々に細くなってきていた。「父さん、なんだか痩せてきたよ?」と言っても、「おぉ、ダイエットしとるがよ。」と答えるばかり。父はゴルフを何よりの趣味としており、お腹が出っ張るのをいつも気にしていた。生来甘いものが大好きで、大福やおまんじゅうなどは一度に2、3個平気でたいらげてしまうのだった。
一緒に暮らしていた弟に聞くと、最近は朝ごはんに納豆ひとつ、というパターンを繰り返していたらしい。それも今思うと、既に腸壁が狭まってつかえていたために、食べるに食べられなくなっていたからかもしれない。
父は元々山育ちで、自然食をこよなく愛した。トイレにはpH試験紙を置き、用を足すたびに検査していた。人間ドックも毎年欠かさず受診しているはずだった。
ところがよくよく問い詰めてみると、ここ数年は何かと忙しく、受診していなかったと白状した。母が5年来入院していたことや、バブル崩壊の煽りを受けて会社がバタバタしていたことなどが重なり、機会を逸してしまったらしい。事実、母が危篤と告げられた時も、金沢の自社ビル引き渡しの約束があり、結局死に目に会えないでいた。
自覚はかなり前からあったらしいのだが、どうやら「今わしまで入院するわけにはいかん」と決めつけ、周囲に悟られぬように過ごしてきたようだ。
今年に入ってひときわやつれたのも、てっきり母が亡くなったせいだと思い込んでいた。四十九日の折、いとこが「おじちゃんまた痩せたんじゃない?」と心配して尋ねた時も、「なぁん、これぐらいでちょうどいいがやちゃ」と笑っていたという。
結局、父の下手な芝居にまんまとだまされ続けていたわけだ。しかし、そうまでして子どもたちの生活や会社を守ろうとした父の気持ちを思うと、責めるに責められず、かくなる上は一日でも長生きし、願わくはもう一度仕事に復帰してほしい、と祈ることしかできない私たちだった。
ひたすら我慢し続けた父の大腸は、入院時には腸閉塞の寸前まで狭くなっていた。ほんの2週間前、5月17日の母の月命日には、みんなでとんかつを食べに行ったばかりだ。父もたしかロースカツを平らげていた。「知らぬが仏」とはいえ、よくここまで無事だったものだと、背筋が凍る思いがした。
平成18年6月6日、1回目の抗がん剤投与が行われた。抗がん剤にはつきものの「吐き気」「脱毛」が脳裏をよぎり、副作用が少しでも軽く済むようにと祈る。
「具合どう?」丸2日に渡る投与ののち、恐るおそる問いかけたメールに「いつもと変わらない。ありがたいと思います。」との返事。ほっとすると同時に涙が溢れた。この人には感謝する余裕がある。「大丈夫、父さんは絶対に抗がん剤治療を克服して、よくなってくれる……」と確信した瞬間だった。
入社と同時に父が入院したため、弟は父とともに挨拶回りをすることすら叶わず、引き継ぎもベッドのそばで、という日々が続いた。「せめて一緒に客先を回りたかった……」と弟は悔しがった。
お互いにもどかしい思いを抱えた2人は、病室でもよくぶつかり合っていた。仕事の話をする時は、私は席を外すように言われ、帰途につきながらハラハラし通しだった。
抗がん剤投与は2週間おきに繰り返され、多少のむかつきを感じながらも(本当はもっとつらかったのかもしれないが、私たちにはあくまで「大したことはない」と言い張っていた)、父は果敢に治療に耐えた。体格がよく、病気といえば盲腸を我慢していて腹膜炎を患ったくらい。心身ともに頑丈な父でよかった……と神に感謝しつつ、ささやかながら闘病を支える日々だった。
母の時と同じように、次女とともに昼食時めがけて訪ねるのがパターンであった。「何か欲しいものある?」とメールすると、たいてい「日経をたのむ」と返事が来る。そこで病院に着くとまず売店へと向かい、新聞と次女のおやつを買うのが日課になった。店員さんもほどなく覚えてくれ、次女も売店でのおつかいが楽しみのひとつのようだった。
時には好物のカステラを頼まれたりもした。「お腹に響くのでは?」と心配だったが、入院直後に激しい腹痛と吐き気(おそらく腸閉塞まがいの症状だったのだろう)に襲われて以来、点滴栄養のみで過ごしていた父が不憫になり、ついつい差し入れてしまう。一口一口、ゆっくり溶かすようにかみしめながら味わう父を、ハラハラしつつも愛おしく見つめていた。
抗がん剤の効果は明白で、3日おきに繰り返される血液検査の値は、徐々に改善していった。父は逐一データをチェックし、前回との差をマーキングしてはファイルに保管していた。あくまで前向きで、がんを克服する意欲に満ちみちていた。弟との打合せでも「わしが戻ったらやるから」が口癖で、すぐにも処理したい弟をやきもきさせた。
しかし、進行がんはやはり侮れなかった。3回目の投与後のCT映像には、新たな腫瘍が確認された。次回以降は、抗がん剤の種類を変えてみることとなった。
新しい抗がん剤は当初、威力を発揮してくれた。腫瘍は軒並み縮小し、血液検査の値にも改善を示す丸印が増えた。「今度こそ……」私たちの期待は高まった。
だが、通算5回目投与後の8月7日、CT所見には不吉なコメントが記されていた――「少量の腹水」。
素人ながら、腹水が溜まり始めるといよいよ末期だということは聞き及んでいる。母の元主治医であり、父の件でも私を精神面で支えて下さっているS先生の見解では、父は診断当初からすでにステージⅣBの段階にあるようだった。「余命半年ぐらいではないか……」とのことだった。覚悟はしていたつもりである。でも母の時と同様、いざとなると往生際が悪い。「まだいやだ……母さんと同じ年に父さんまで逝くなんて……許さない!お葬式が2つもなんて、絶対に許すもんか!!」――私は忌まわしい5文字を睨みつけた。
その後の血液検査の結果は一進一退。父は毎回つぶさに前回と比較し、変化に一喜一憂を繰り返した。
決して経過は良好とは言えなかったが、父にも「入院3か月」のリミットが迫り、ひとまず一時退院することとなった。
父は退院中の療養場所に、会社で所有していたマンションの一室を選んだ。部屋は16階にあり、地上50メートルから見渡せる立山連峰の大パノラマがお気に入りだった。
平成18年9月21日、父は念願の一時退院を迎えた。記念すべき日を祝うかのような秋空が広がっていた。
荷物を衣装ケースにまとめ、マンションへと移る。果たして独りで大丈夫だろうか?と不安だったが、「友だちも来てくれるから」と楽しげな様子。考えようによっては気ままでいいのかもしれない。食事は階下のレストランで摂れるし、お粥などもあるという。幸い、わが家からもほぼ一本道、車で10分もあれば行ける所だったので、何かあればすぐ知らせるよう念を押す。
翌日、「今から行くね」と打つと、「レストランにいる」との返事。次女と行ってみると、なんと来客中。久々のスーツ姿での商談だ。なんとかよくなって、またこうして父が仕事に打ち込む姿を見られる日が来てほしいと願う。
父はカレーを注文していた。味気ない病院食が続く中で、よほどコクのある味が恋しかったのだろう。お腹に響かないことを祈りながら、愛おしく見守る。
食事を済ませると、「散歩するかの」と父が言う。今日も穏やかな秋の日差しが降りそそいでいる。右手のステッキを頼りに、ゆっくりとした足取りで敷地内を歩き始める。かつての大股で闊歩する勇ましい姿はなかったが、一歩一歩、確かめるようにアスファルトを踏みしめる父の背中は、弱々しいながらもうれしそうに見えた。背広の上から肩甲骨がはっきり見て取れるほどに痩せているのが痛々しい。
そんな父に寄り添うように、次女が歩く。もしかしたら最後になるかもしれないほのぼのとした光景を、私はそっとカメラに収めた。
9月24日、主人が「みんなでお見舞いに行こう」と提案してくれた。レストランで待ち合わせ、お昼を食べることになった。週末でランチバイキングの日だった。子供たちは初めての体験に目を輝かせた。息子がローストビーフを何回もおかわりした。見ると父も便乗してお相伴している。生に近いため、「腹痛を起こすのでは……」と不安がよぎったが、孫たちとの楽しい食事に水を差してはなるまい、と思い留まる。
9月28日、再入院の日が来た。「いや楽しかったなぁ」父はこの1週間の短いバカンスを存分に満喫したようだった。友人が入れ代わり立ち代わり訪ねてくれ、あちこち連れて行ってくれたそう。私にとっては心配も重なり、やや長い1週間であったが、次の一時退院もまた有意義な日々になることを祈りつつ、病院へと送る。
翌日から9回目の抗がん剤投与を行い、10月3日には2回目の一時退院となった。
今回は再入院まで2週間も空くというのに、父は翌日から高熱に見舞われた。腹痛もあるというので、予定を繰り上げて病院へ戻ることを提案してみたが、「大丈夫」と言って聞かない。ひとまず近くのドラッグストアで坐薬を求め、急場をしのぐことにした。
父は近く、携帯ショップのひとつをリニューアルオープンさせる予定だった。計画は入院当初からあったのだが、自分自身が現場に赴くことは叶わず、弟や業者に逐一電話連絡を取りながら、準備を進めていた。
その竣工式の際、招待者に配る引出物を見立てたい、というので、「それならデパートからカタログを取り寄せて選ぼうよ。」と提案したところ、「実物を見んことには始まらん」と跳ねつける。「熱や痛みもあるのに無茶だよ。私が手配するから」と言い聞かせるが、一向に聞く耳を持たない。
10月11日、結局体調が思わしくないまま、父をデパートへ案内させられるはめとなる。
まずは引菓子を選びに地下へ。好物の大福やおはぎを売る店の前で、ふと立ち止まる。これ以上腹痛を悪化させてはならないため、買ってあげられず不憫に思う。
ひと回りした末、おしゃれな焼菓子の詰合せを注文する。
次は瀬戸物を選びに上の階へ。エスカレーターはしんどいので、エレベーターに乗る。ここは地元の老舗デパートで、今もエレベーターガールがいる。隅に折りたたみ椅子が置いてあり、親切に導いて下さった。
中村勘三郎プロデュースの華やかな小鉢セットを気に入るが、あいにく品切れ。吟味を重ね、たち吉の銘々皿セットに決める。
父が受付の椅子で休むそばで、私が伝票を記入する。
買い物に同行していた次女が、5匹の小さなうさぎの置き物に釘づけになった。「よし、じっちゃん買うてやろ」ふと、「もしかしたら形見になるの?」とせつない思いがよぎった。
やっとのことで用事を済ませると、「腹減ったなぁ。なんか食べていこ」そこで最上階のレストラン街へ。
豪華なメニューの並ぶショーウィンドウを尻目に、奥のうどん屋さんへ入り、父はにしんうどん、次女と私は仲間で昆布うどんを注文した。「また脂っこいものを…」と顔をしかめたが、「これが父との最後の外食になるかも……」と思い直し、黙っていた。
つくづく無謀な外出であったが、父の思いを叶えられた、ということだけが救いだった。なおも繰り上げ入院を頑として拒む父。5日後の再入院がひたすら待ち遠しかった。
待ちに待った10月16日、再々入院の日。迎えに行くと、父は布団に横たわっていた。相変わらず具合は悪そうだ。だが食欲だけはあるらしく、「香華のマーボー丼が食べたい」と言う。マンションのすぐそばにある、人気の中華料理店だ。元気だった頃に一度連れて行ってもらったことがある。すぐさま出前を頼む。
ひと口ひと口、ゆっくり口へ運ぶ。「出前もこれっきりかな……」すっかり弱った父を見ながら、やるせなさに言葉を失っていた。結局マーボー丼は、ほとんどが次女と私のお腹に収まった。
病院へ向かう時刻になった。「どうかもう一度ここへ戻って来られますように……」願をかけながら、私はスリッパの先を部屋の方向へ向け直した。
車中で父はつぶやいた。「いったいいつまでこんなこと続くんかなぁ。いっそあとどれだけって言ってもろた方が楽やわ…」と。ハンドルを握りながら、思わずドキリとした。初めて聞く父の弱音。あんなに前向きにがんを克服してみせるとがんばっていた父が、ちょっとやそっとのことでへこたれるような人ではなかった父が、ついに本音を吐いた。
がんとはかくも恐ろしい病気なのだ。心身ともに健康そのものだった人を、心身もろとも打ちのめしてしまう。
「がんばらない、でもあきらめない」と鎌田實氏は著書で繰り返していた。当初は希望の言葉だった。しかし残念ながら、それはきれいごとに過ぎなかった。がんとはやはり、がんばらねば負けてしまう病気なのだ。がんばらずにつらい抗がん剤治療が克服できようか。熱に、痛みに、吐き気に、死への恐怖に……がんばらずに勝てるわけがない。
父本人にしかわからない苦しみに思いをめぐらせながらも、「つらいよね。でもきっとよくなると信じて、なんとかがんばって、父さん…」と返すのがやっとの無力な私だった。
最悪の状態で病院に戻った父は、直ちに坐薬と点滴の処置を受けた。「もう心配いらない」とのメールにほっとする一方、行く手に大きな不安が立ちはだかった。父の体はこの先、どこまで耐えられるのだろうか?
10月19日、10回目の抗がん剤投与。すると翌日、N先生から呼び出しがあった。投与後、白血球の激増と血小板の激減が認められたという。腫瘍の増大、もしくは何らかの感染が原因ではないかとのこと。退院中の熱は、いわゆる腫瘍熱だったのだろうか。やはり無理矢理にでも繰り上げて入院させるべきだった。そして感染…真っ先にあの外出が脳裏に浮かんだ。秋冷のさなか、コートもマスクも着用せずに連れ出した無防備さを、今さらながら悔いた。
血小板が減少すると、出血傾向が高まる。一方、がん細胞は凝固作用のある物質を分泌するため、「汎発性血管内血液凝固症」を引き起こすと、たちまち命にかかわるという。当面の絶対安静を言い渡される。いつもなら弟と2人で説明に臨むのに、今日に限って私ひとり。心細さと自責の念に押し潰されそうになりながら、やっとの思いで家にたどり着いた。
父は夏に、紙面で「免疫療法」に関する書物を見つけ、直ちに私に買ってくるよう命じた。おおよそ読書好きとは言えない父が、一気に読破した。それは、健康な人から抽出したリンパ球を、点滴によって患者に投与し、免疫力をつけるという方法だった。父はぜひそれを試みたいと言い、東京にある自由診療のクリニックで、一時退院のさなかであろう10月26日に実施することになっていた。
ところがそれを目前にして、体調不良に陥ってしまった。抗がん剤が父の体そのものにまでダメージを与えてしまう以上、もはやその免疫療法に希望を託す以外にないと思われた。なんとか危機を脱し、上京が叶うことを祈るのみだった。
しかし、容体は相変わらず思わしくない上、10月23日のCTでは、肝臓への転移の増悪に加え、胸水、心嚢水までが確認された。
こうして一縷の望みを託した免疫療法も、土壇場でキャンセルせざるを得なくなった。航空券の予約を取り消す父の声が、空しく病室に響いた。
前回の入院まで、私は孫の顔が何よりの薬になると思い、まだ入園前の次女を連れて毎日見舞っていた。しかし病状が重くなり、自らのことで精一杯になってきた父はとうとう、「連れて来るな」と言い出した。何より癒やされ、可愛がっていた孫すら遠ざけるほど、父には肉体的・精神的余裕がなくなっていた。それほどまでに追い詰められているのだ、と胸が詰まった。その上、免疫力も極端に落ちた今となっては、感染症が何よりの敵だ。そこでこれからは、大人のみがマスクを着用し、手を消毒した上で面会することとなった。
それからは夕飯を並べた後、小学4年生の長女に弟妹を頼み、私だけが病室へ出かける毎日となった。父の好きなおでんやおはぎを持って。
着くとまず、マッサージをせがまれた。ベッドに寝たきりの上、腹水も溜まってつらかったのだろう、背中へ手を差し込み、肋骨に沿って脇の方へ掻き出すようにしてほしい、と言う。
肩凝りの経験がほぼないため、マッサージのマの字も知らないような私だったが、父を少しでも楽にしたい一心から、気持ちを込めて言われる通りにやってみた。
「あぁ、気持ちいい……」目をつむりながら父がつぶやく。「ほんと?」思わずうれしくなり、掻き出す手に力がこもる。摩擦で手が熱を帯びてくる。
「あぁ、楽や……」それで十分だった。父の温もりと重さを両手に受け止めながら、ほんのひととき苦痛から解放されている父を感じていられるこの瞬間が、私にとっても至福の時だった。
看護師さんに習い、リンパマッサージも試みた。親指と人差し指の間のカーブを使い、頼りないほどにそっと、なでるようにマッサージするのだ。意外な手法だった。
すると、ひと頃別人のようにパンパンにむくみきっていた両足が、嘘のようにすっきりしたのだ。これには父も私も驚いた。ほとんど力を入れないマッサージにも効果があることがあることを知り、目から鱗が落ちた。
この頃から帰りがけに、とある女性を見かけるようになった。父がいつもゴルフや食事を一緒に楽しんでいた仲間の1人のIさんだった。初めはいささか戸惑ったが、母が倒れて以来、さぞかし寂しい思いをしていたであろう父が、気のおけない仲間たちと楽しい時間を共有していたことを知り、うれしくもあった。
Iさんは決まって午後7時頃にお電話を下さり、何か食べたい物はないかと父に尋ねる。そしてリクエストがあると、すぐさま調達して届けて下さるのだった。時には素敵なお花とともに。それは入院直後からずっと続いているらしかった。つくづくありがたく思う。
それ以来、マッサージや足の裏のカイロの取り換え、交換ノートの記入などをしながら2時間ほどを過ごした後、Iさんのノックとともにおいとまするのがパターンとなった。
私が帰った後も、誰かが父のそばにいてくれることはとても心強かった。そして2人が有意義なひとときを過ごしてくれることを祈りながら、家路につくのだった。
10月27日の血液検査では、白血球数が1000を割り、わずか900となった。これはもはや致死ラインに匹敵する値だという。輸血にすがる思い。
10月28日、白血球数700。赤血球、血色素、ヘマトクリット、血小板いずれも少なく、極度の貧血状態。
この極限状況にあっても、いや、だからこそか、父は免疫療法を諦めきれずにいた。当初実施していただく予定になっていたクリニックの回答は、「地元で実施していただける先生がいらっしゃるなら、いくらでもリンパ液を送りますよ」とのことだった。
10月31日、私と弟はN先生に宛てて「嘆願書」を作成、提出した。まだ保険は適用されない、自由診療の領域。あくまでも自己責任において希望するものであり、万が一の場合も決して訴訟等を起こさないことを誓約した上で。
「公立病院で行うことは不可能です」――願いは空しく一蹴された。
もはや父を救う手立てはないのか、と目の前が真っ暗になった。
11月4日、他に頼める当ても見つからないまま、私は駄目もとで再び嘆願書を握りしめ、わが家のかかりつけ医の待合室にいた。
とそこへ、弟から電話。「姉ちゃん、リンパ治療して下さる先生が見つかったよ!」「え、ほんとに1?」すぐさま外へ飛び出す。捨てる神あれば拾う神あり――たちまち涙声になる。
見つけて下さったのは、Iさんたちだった。家族が半ば絶望的になる中、Iさんたちも奔走して下さっていたのだ。そして「ひょっとしてA先生なら……」と、懇願して下さったのだった。
A先生が営む医院は、C病院の目と鼻の先にあった。車で5分とかからない場所だ。「こんなにも近くに、引き受けて下さる方がいらしたなんて……」神の粋な計らいに感謝した。これなら、ストレッチャーごと運ばなくてはならない父の体への負担も少なくて済む。
「リンパの件よかったね。Iさんたちには感謝してもしきれないね……」すかさず父にメールした。
弟は直ちに東京へ連絡し、リンパ液の手配を依頼した。「父さん待っててね。もうすぐ元気になれるよ……」
かくして11月22日、念願の免疫療法1回目の日を迎えた。この日は義父の誕生日。二重におめでたい日となった。
午後5時すぎ、仕事が休みの主人も同行してくれ、家族で父の病室へ。父の弟も駆けつけてくれている。「いよいよだね」父もようやく迎えることのできたこの時に、感慨深そう。
午後5時30分、介護タクシーが到着。看護師さんたちが協力して父をストレッチャーへ移して下さる。外は寒いので、毛布で二重三重にくるむ。
午後5時45分、エレベーターで1階へ。裏口に横づけされたワゴンに乗り込む。
午後5時50分、A病院に到着。ストレッチャーごと中へ。体温、血圧の測定。
午後6時、空港でリンパ液を受け取った弟が到着。銀色の保冷ケースを大事そうに抱えて入ってくる。待ちに待った「命の源」を目のあたりにし、思わず胸が熱くなる。
午後6時10分、リンパ液投与開始。点滴がゆっくりゆっくり父の体へと入っていく。この1滴1滴が、父をもう一度元気にしてくれるのだ。
「ありがとうございます。大変感謝しております。」横たわりながら、父は先生に向かって何度も繰り返した。
「いいえ、僕は決して免疫療法に賛成というわけではないのです。ですからあくまでも点滴の針を刺すだけ、ということでお引き受けしたまでです……」すこぶる正直なお人柄だった。
主人は待合室で子どもたちを見ていてくれた。私と弟は父のそばに並んで腰かけながら、夢にみた光景をじっと見つめていた。何としてでも父の希望を叶えたい。地元にいながらでも、免疫療法の恩恵にあやかりたい……その一心で奔走した9日間。「一念天に通ず」の言葉をかみしめながら、感謝と感慨に、言葉少なになる私たちだった。
午後6時50分、40分間に渡る点滴が終了。滞りなく終わり、先生もほっとされた様子。初めてのことに緊張しながら、慌ただしく来院した時と打って変わって、みんなに笑顔が戻り、空気がやわらかくなる。
午後7時、再び介護タクシーにてC病院へ。寒い中の移動に、さぞかし父も疲れたことだろう。そして今夜はぐっすり眠ることだろう。よくなる夢を見ながら……。
しかしそれはすぐに、ぬか喜びと判明した。11月24日の血液検査。白血球、血小板、CRP(感染症値)は改善したが、赤血球、ALP(肝・骨疾患値)、LDH(悪性腫瘍値)、γ-GTP(肝疾患値)は悪化していた。がんの増殖は、ある時期から劇的に加速すると聞かされていた。父はすでにその段階を迎えているらしかった。もはや免疫療法も歯が立たぬほどに。もっと早く、9月の初退院の間に受けさせるべきだった。あの頃ならまだいくらも飛行機に乗る元気があったのに……。
12月5日、諦めずに2回目のリンパ液投与。前回で多少要領を得たため、今回はいくぶん余裕を持って臨むことができた。「どうか効いて」と祈りながら……。
午後8時、主治医のN先生、担当医のT先生との面談。とうとう「緩和ケア病棟」への打診があった。白血球数が致死ラインに及んで以来、抗がん剤治療は中止となっていた。手術、放射線、抗がん剤のいずれの積極的治療も不可能となった今、急性期患者優先の一般病棟に父が居続けることは難しかった。
ホスピスでは、痛みを取り除きながら、患者が穏やかな日々を過ごせるよう、手厚い看護をして下さるとのことだった。今は隔日しか受けられないリンパマッサージも、毎日していただけるようになるとのこと。家族の面会にも制限がなくなり、好きなだけそばにいられるようになる。そして免疫療法も、ホスピスでなら往診で可能になるという。在院日数も無制限だ。
在宅では、私も義妹も幼子を抱えて行き届いたケアが困難な上、父自身も先生や看護師さんのそばを望んでいた。そこで相談の結果、部屋が空きしだい、移していただくこととなった。
12月9日、父がふと「母さんの水餃子が食べたいなぁ」と言う。実家では、餃子と言えば「水餃子」がお決まりだった。豚ひき肉と白菜、にら、にんにくを練り、皮で包む手作り餃子。私も小さい頃から、お椀にはったお水を前に、母の手元を必死で真似しながら包むのを手伝ったものだ。
「わぁ、なつかしいねぇ。わかったよ。子どもたちと作って、明日差し入れるね」「たくさんは食べれんから、3つほどでいいぞ」「うん、待っててね」
実は近々久しぶりに作ろうと、ちょうど材料を買い出してあったのだ。これは単なる偶然だろうか?翌日、子どもたちの帰宅を待って、さっそく餃子作りに取りかかる。
小学4年生の長女は何度か経験があり、慣れた手つきでひだを織っていく。1年生の息子は四苦八苦しながらもどうにか形に。3歳の次女は粉まみれになりながら、粘土遊びのように楽しげだ。
そういえば最近は、冷凍餃子を半額セールで買って済ませるパターンがすっかり定着していた。手間はかかるが、家族でテーブルを囲んでの作業は、自然と会話もはずみ、実に楽しいものだ。手作りのよさを思い出させてくれた父に、感謝しなくては。
そうしてできあがった、それぞれの作品。思い思いのベストワンを1つずつ差し入れることにした。愛する孫たちが、心を込めて作った餃子。父はさぞかし喜んでくれるに違いない。
実家では、たっぷりのお湯で茹でた餃子をお湯ごとすくい、酢じょうゆを回しかけて食べたが、父は抗がん剤の副作用で味覚に変化が生じ、甘味や酸味が苦手になっていた。そこで、父の叔母が育てたねぎを浮かべたスープ仕立てにし、夕食めがけて持参した。
「父さん、お待たせ」「おう、作ってきてくれたんか」病室に備えつけのコンロで温め、そっと父に手渡す。
「みんなで作ったんだよ。一番うまくできたのを1つずつ、3つ持ってきたの」 「そうか」父はゆっくりと口へ運ぶ。かみしめるように味わいながら。「どう?」「ねぎの香りが強いのう…」「あ、ごめん。父さんお酢がダメだから、スープ仕立てにしてみたの」「そうか」
時間をかけてようやく食べ終わった父は、感慨深げにつぶやいた。「ごっつぉさん。子どもらに『うまかったぞ』言うといてくれや」「わかった。喜ぶよ。ありがとう」
12月13日、ホスピスの見学をさせていただいた。C病院には最上階に19床のホスピスが設置されている。9階のエレベーターを降りるなり私を迎えてくれたのは、パッチワークのクリスマスツリーやリースたちだった。無機質な一般病棟とは異なり、スタッフの温かい心遣いが伝わる、クリスマスムード満点のほのぼのとした雰囲気が漂っていた。父の一件でそれどころではなかった私の心に、小さな灯がともった。
病棟の中央には、家のリビングを思わせる空間があり、大きなテーブルやさまざまな柄のコーヒーカップが並んだ食器棚、オーディオ装置などが置かれていた。患者さんの体調がよい時は、ここへ来て家族と思い思いに過ごすことができるという。カップはその時々で好きなものを選び、お茶を楽しめるようになっているのだった。冷蔵庫にはおやつも用意され、自由に食べてよいという。小さな身内も、おやつを楽しみながらおじいちゃん、おばあちゃんたちと過ごせるのだ。看護師さんたちも物腰がとても柔らかく、患者さんの最期のひとときをあたたかく支えて下さっているのがわかった。
すぐさま父と弟に結果を報告し、入棟できる日を心待ちにする。
12月19日、ついにホスピスへ移れることとなった。当初は2週間ぐらい待つことになるかもと言われていたので、思いがけず早くに入れたことに感謝する。と同時に、空けて下さった方への哀悼の念も忘れてはならない。7か月に渡りお世話になった看護師さんたちに厚くお礼を申し上げる。もうここへ戻ることはないだろう。だが、最期の日々を悔いなく過ごすことを胸に誓って、病棟を後にする。
父の終の住みかは、978号室。和室が付いて奥行きのある部屋だ。家族がくつろいだり、寝泊まりもできたりと便利だ。障子が自宅かのような雰囲気を醸し出している。
折しも今日は、3回目の免疫療法を行う日だった。すぐさまA先生に連絡し、C病院へ往診して下さるようお願いする。落ち着いた部屋で、移動もなく点滴が受けられて……よかったね父さん。
父には既にかなりの腹水が溜まり、手足は痩せ細っているのにお腹だけ膨れ、つらそうな状態が続いていた。孫たちの手作り餃子を最後に、いよいよ物が食べられなくなり、点滴のみに頼る日々だった。
「あんなに食べることが大好きだった父さんが、食べられなくなるなんて……」かつて母が鼻にチューブを通され、栄養を注入された時のことが蘇り、ひときわ不憫に思われてならなかった。
「何とかもう一度口から食べさせてあげたい……」それは弟も同じ思いだった。私は判断に迷うといつも相談に乗っていただいている、母の元主治医のS先生に尋ねてみた。答えは「腹水にはアルブミンをはじめとした蛋白質が含まれており、頻回に抜くとさらに溜まりやすくなる」「大量に抜くとショック状態を起こし、それが最期になってしまうかもしれない」とのことだった。
「それでも……」もしかしたら運よくまた食べられるようになるかもしれない。私たちはどうしても諦めがつかなかった。そして父も同意した上で、抜水をお願いした。
12月26日、抜水実施。しかし――
12月28日、N先生より呼び出し。「黄疸が出てきました。いよいよ厳しい状態です。年越しも難しいと思われます……」
よかれと思った抜水は、結果的に父に決定的なダメージを与えてしまった。黄疸が出ると、概ねひと月以内に亡くなる……と説明されていた。
「ここまで来ると、『いつなん時』ということを覚悟していただかねばなりません。できるだけどなたか付き添ってあげて下さい」
母の時と同じ言葉を、またもや告げられてしまった。もはや父はいつ旅立ってもおかしくない容体なのだ。さあ、覚悟を決めて、きちんとお別れをせねば……。
翌日から日中は、冬休み中の子どもたちを義父母に頼み、夕方まで病室に詰めた。父の好きなCDを終日かけ、秋以降ずっと続けているマッサージをしたり、ノートをつけたりしながら過ごした。
「ただ傍らにあるだけでいい」そうS先生は言って下さった。治せもしない、代われもしない、無力な自分がこの上なくもどかしい。それでも「そばにいるだけでいいのだ」と先生はおっしゃって下さる。
思えば母の時も、私にできたことと言えば、歯みがき、顔剃り、耳かき、爪切りぐらいのちっぽけなものだった。けれども、幸い地元にいたおかげで、そんなささやかなひとときを重ねることができたのだ。
父との時間を振り返ってみても、大したことなどできていない。しかし、同じ時間を共有できるだけでうれしく、満ち足りた気持ちを抱けたことは確かだった。もしも母や父も同じことを思っていてくれたなら……これほど幸せなことはない。
今さらあがいても無駄だ。タイムリミットは刻一刻と迫っている。今こうしてそばに寄り添える幸せをかみしめ、そうさせてくれている全てのものに感謝し、この時間を全うしよう。私は静寂の中で決意した。
全うしようと思いながらも、3人の子どもたちを抱える身で、夜通し付き添うことは難しかった。叔父のように夜中に急変することのないようただ祈りながら、しかしパジャマに着替えることはせず、洋服のまま床に就くことにした。「もしも」の時はすぐに飛んでいけるように…。
12月30日、群馬と埼玉に住む従弟たちが帰省し、その晩からさっそく父の元に泊まり込んでくれることになった。遠方に住んでいたこともあり、これまであまり親交がなかっただけに、厚意が身にしみてありがたかった。
翌朝訪ねると、テーブルの上にメモが置いてある。夜以降の父の様子を交替で見守り、つぶさに書き留めてくれていたのだった。その誠実さに頭が下がり、これまでの非礼を詫びたい気持ちだった。
父は時折痛みを訴えるため、その都度ナースコールをしてモルヒネの調整をしてもらってくれていた。きっとおちおち眠れなかったことだろう。
「気分転換に出かけてきて。代わるから」と言うが、「食料ならあるから」と、ピザを温めに行く程度。和室には毛布と雑誌が置いてある。互いに協力しながら、兄弟揃って片時も離れることなく見守ってくれていたのだ。情け深い身内に恵まれたことに、あらためて感謝した。
ふと見ると、枕元の電灯のアームに、何枚もの写真が貼り付けてある。それは父の妹である叔母が撮影した、父の里の写真だった。辺り一面黄色い落ち葉に埋め尽くされた前庭や家屋、美しいダム湖の風景。それらを従弟たちが、父に見えるようにと並べてくれたのだ。
どんなにか恋しいのだろう、父は時折、写真を引き寄せようと、細りきった腕を伸ばす。
「懐かしいんだね。帰りたいんだよね。もう少ししたら……きっと帰れるよ、父さん……」私は胸の中でそっとつぶやいた。
そして平成18年大晦日。年越しも危ぶまれた父だったが、最後の体力、気力を振り絞り、なんとかこの日を迎えることができた。「一緒に新しい年を迎えようね……」どうか今日が無事に過ぎてほしい――そう祈るばかりだった。
従弟たちの母である叔母が、見事な生花を届けてくれた。「お正月だからね……」殺風景な病室がいっぺんに華やいだ。花たちも父を励ましてくれているかのようだった。
この頃はほとんど眠り続け、時折痛みに目覚めて「苦しい……」と訴えるくらいになった父が、ふと目を覚ました。病室は、父と私の2人だけ。「ようしてもろた…」父は目を見開き、私の右手をしっかり握りながら。振り絞るようにそう言った。突然のことに驚きながらも、私は返した。「それはこっちのせりふだよ、父さん。今までほんとにありがとう……」
一年の締めくくりに、ちゃんとお礼が言えたうれしさに、私は涙をこらえきれなかった。
ほどなく、Iさんと会社の後見人であるTさんが見えた。ついさっきの父とのやりとりを伝えると、2人とも涙ぐむ。Tさんが父の手を取り、「Sさん、わかるか?」と呼びかける。父はうっすら目を開ける。「会社のこと、なんも心配いらんからな」「ありがとう、ありがとう……」と繰り返す父。精一杯元気な姿をアピールしているようでいじらしかった。
あの時と同じだ。脳卒中で倒れた叔父に「何も心配せんでいいからな。自分がよくなることだけ考えるんやぞ」と励ましていた父。その父が、今はこうして呼びかけられ、必死に応えている……。
夜はIさんが泊まって下さることになった。温かい人々に囲まれている幸せをかみしめながら、私は病室を後にした。「父さん、本当によくがんばったね。明日『あけましておめでとう』って言いに来るからね。言わせてよ、絶対に……待っててね!!」
その夜、紅白歌合戦をつけながら、私はまだ済んでいなかった居間の掃除をしていた。ふいに「私の~お墓の~前で~」というフレーズが耳に飛び込んできた。私は思わず手を止め、画面に釘づけになった。それはまるで、父の遺言のように思われた。私はすかさず、病室にいるはずの弟にメールした。「今流れてる『千の風になって』聴いてみて!」涙が止まらなかった。あぁ、父さんもきっと、お墓にじっとしてなんかいないだろうな。自由に空を駆けめぐって、解き放たれた魂を満喫するんだろうなぁ……そうであってほしい。そうすれば私たちも救われるような気がした。父はもうじき、風になるのだ。痛みや苦しみから解放され、自由になるのだ。母と手を取り合って、新婚旅行以来ずっとお預けになっていた、気ままな空の旅を楽しむのだ……。
平成19年元旦。自宅で行われた恒例の新年会もそこそこに、私は病院へと向かった。「父さん、あけましておめでとう。とうとう新しい年を迎えることができたね。ほんとによくがんばったね!!」父は口を開けて、すやすやと眠っている。返事はないが、新年のあいさつが無事できたことだけで満足だった。「一日でもいい、少しでも長くいてほしい…」それが全てだった。
父は小さいながらも会社の経営者だった。願わくは多くの人たちに見送っていただきたいと思う。「父さん、なんとか三が日はがんばって……」と、痩せこけた横顔につぶやいた。
1月3日、仕事が休みの主人が「みんなで会いに行こう。俺、お父さんに言わんなんことあるから」と家族を誘った。
久々にじっちゃんと会う孫たちが、順に手を握った。「これがお別れになるかも……」と思いながら。
「お父さん…」主人が父の耳元に呼びかけた。「あぁ…」父がかすかな声で答える。わかってくれたようだ。「お父さん、美穂さんのことは必ず幸せにしますから、安心して下さい」「あぁ……」それは「ありがとう」に聴こえた。父はさぞかしうれしかったに違いない。いつまで経ってもふがいない娘を残していくのは、さぞかし不安だったろうから。
私も顔を近づけて囁く。「父さん、私たち幸せだからね。これからもなかよく力を合わせてがんばっていくから、ずっと見守っててね……」
家族揃ってきちんと挨拶できたことで、帰り道はすこぶる清々しい気持ちだった。主人の計らいに心から感謝した。
1月4日。お昼過ぎ、弟から電話。「姉ちゃん、いつ頃病院来れる?」「お昼の支度をしたら行くつもりだけど……」「父さんいよいよ危ないらしい。なるべく早く来て」「!……わかったよ」そばで聞いていた主人が促す。「すぐ行け」「うん、ありがと」
とうとうこの時が来た。文字通り三が日が済んだところで……昨日の主人の言葉に安心したから?父さんきっと待っててくれたんだね、三が日が無事終わるのを。みんなで挨拶に行くのを。ほんとによくがんばったね。つらかったでしょう?苦しかったでしょう?もうすぐ楽になれるからね。今、会いに行くよ――
父は肩で浅い呼吸を繰り返していた。危篤の時の母と同じだ。朝方からこの状態に陥ったという。血圧も下がり気味。
「父さん、美穂だよ。今までよくがんばったね。もう無理しなくていいよ。できるだけゆっくり呼吸して……」見るからにつらそうな状態だ。代わることもできず、ただ見守るしかない。おのれの無力さに悔し涙が溢れる。
がんは最後、全身を蝕み、心臓だけを動かすという。まさにそうした状況下で、父は最後の力を振り絞っていた。
私は身内に順次連絡。急を知って、皆ぞくぞくと駆けつけて下さる。「あれおとましいや……」父より年上の身内たちは、口々にそう言って父を哀れんだ。「どうして勝博が……」身内からも厚く信頼され、可愛がられていた父が、古希にも届かず命を終えようとしていることを、誰もが納得できずにいた。
主人と子どもたちも後から到着。今度こそ最後となるであろう握手を交わす。
みんながベッドを囲み、順に呼びかける。口が乾いているので、時折霧吹きをする。「あぁ……」と気持ちよさそうに応える。
父は大腸に原発があったものの、結果的には転移先の肝臓がんの悪化が致命的となった。肝機能が悪化すると「肝性脳症」を起こし、意識障害に陥るかもしれない、と言われていたが、父は懸命に周りの気配を察知し、「まだ大丈夫」「まだ大丈夫」と繰り返しているかのように思えた。「安心してね。みんなついてるから」私は父の右側に座り、右手を握りながら呼びかけた。
夕方。「君も何か食べないと。持たないぞ」と主人がパンを差し入れてくれ、自らは子どもたちを一旦食事に連れ出してくれた。
重苦しい空気の部屋に、私は父のお気に入りの曲を流し続けた。入院当初、「『こんなものいらん』て言われるかな……」とドキドキしながら取り出したデッキでかけたモーツァルト。始まるなり「お、これ父さんの好きな曲や」と喜んだ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。最もお気に入りのピアノ曲で、会社の電話の保留音にまでしていた、リチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」。ケーナの哀愁漂う音色に乗せて唄われる「こきりこ」。最後のクリスマスプレゼントに……と贈った「シルクロード」のテーマ。遠い昔に放映されていた番組は、いつも家族揃って見ていた。平和だったあの頃を思い出し、私までがせつなくなるメロディー。朴訥な父そのものを思わせる、河島英五の「時代おくれ」。
父とともに過ごしてきた7か月…いや、38年間を走馬灯のように思い起こしながら、私は父との最後のひとときを共有していた。思い出の旋律が父の耳にも届いているようにと祈りながら……。
午後9時すぎ。主治医のN先生が回診に見える。「どなたか外へ」と呼ばれ、私が出る。「もうすぐにもだと思われます。ついていてあげて下さい」「わかりました。先生、今まで本当にありがとうございました」母の時同様、足元から崩れそうになるのを必死にこらえ、直ちに部屋へ戻る。
「もうすぐにもだろうって。たぶん今夜中…みなさん、よろしくお願いします」嗚咽が漏れ始めた。
いよいよお別れだ。しっかりしなくちゃ。もう一度ちゃんとお礼を言わなくちゃ。
再び父の右側に座り、右手を握りながら呼びかける。「父さん、38年間ほんとにありがとね。父さんと母さんの子に生まれて、幸せだったよ。長い間がんばったね。もう無理しなくていいよ。家のことも、会社のことも、何も心配しなくていいからね。母さんによろしく伝えてね。なかよく幸せにね。けんかしちゃだめだよ……」涙に咽びながら、私は繰り返した。
危篤と告げられてから12時間。時計はついに0時を回った。「父さん、がんばったね。日付が変わったよ。」
もはやまばたきする力もなく、目はずっと開いたままで乾いている。目薬をお願いしてみるが、気管に入ると詰まらせるからともらえず。「ごめんね」と謝りながら、口にだけ霧吹きを繰り返す。その都度懸命に飲み込むような仕草を見せる。よほど渇いているのだろう。
午前1時。父は「はぁ……はぁ……」という浅い呼吸をずっと続けていた。さぞかしつらいだろうに、私が駆けつける前から既に半日以上、この状態を保ち続けている。なんだかこのまま朝を迎えそうな気さえしてきた。
自然いっぱいの山に育ち、恵まれた体格から「熊」の異名を取った父。運動会では騎馬戦の馬でありながら、敵のはちまきを奪って回った武勇伝?を披露し、私たちを笑わせた。庭の柿の木から落ち、石に頭をぶつけたものの、頭ではなく石が割れたという伝説?もあった。高校時代にはハンドボールの選手として国体に出場した経験もある。
私たちにはスキーやキャッチボールを教えてくれた。休日もほとんど仕事でなかなか家にいなかっただけに、たまにではあったが相手をしてくれたことは、今となっては貴重な思い出だ。
それほど頑丈で病気知らずだった父も、がんの前にはなす術がなかった。けれども父はこの7か月間、精一杯闘ってきた。一代で起こした会社への復帰を夢見て耐えた抗がん剤治療は、10回を数えた。富山では不可能と思われた免疫療法も、生への執念でとうとう叶えた。
最後まで生きる希望を失わなかった父を誇りに思うと同時に、同じ時間をともに過ごせた幸せをひしひしと感じながら、私は右手を握りしめたまま、少しまどろみかけた。
……とそのとき。ふいに父の規則正しい呼吸が乱れ始めた。「はぁ……はぁ……」という短い息が、弱く長くなった。慌てて外にいた弟に知らせる。「すぐ戻って!」そしてナースコール。おそらくナースステーションでも心拍数などをモニタリングしていたのだろう、押すやいなや、担当医のT先生が飛んで来られた。
「父さん、ありがとう。また会おうね……」私はつなぎ続けた右手をそっと離した。
平成19年1月5日午前1時32分、父は旅立った。親戚中に看取られながら。家族がそばを離れたすきに独りで旅立たせてしまった母がやきもちを焼くくらいにぎやかに。
父とともに実家へ帰るべく外へ出ると、空には鏡のような月が輝いていた。雲ひとつなく澄みわたった空。叔父が亡くなった朝と同じだ。きっと父が昇ってゆく道を、明るく照らしてくれているに違いない。
叔父や母と同じ1月に、父もまた逝った。おそらく2人が迎えに来たのだろう。おじちゃん、母さん、父さんの道案内をよろしくね。
葬儀の打合せを終え、自宅に戻ったのは午前6時前だった。0時頃「きっとお父さん、まだまだ大丈夫。明日の朝もう一度会いに来るね」と帰宅した主人と子どもたちが寝静まる部屋をそっと通り過ぎ、リビングに入る。
気配に気づいたのだろう、ほどなく主人が起きてくる。「戻っとったんか。お父さんは?」「うん。1時32分に……旅立ちました……」あとは言葉にならず、主人の胸に泣き崩れた。
夜が明けても晴天は続いていた。叔父の時と同じ「悲しいほどお天気」。家族揃って父の顔を見に行く。
早朝、知らせを受けた菩提寺のお尚さまが見え、お経をあげて下さるも涙で声にならなかったと弟が教えてくれた。ありがたいことと思う。
昨年母が亡くなって以来、月命日には揃ってお参りしていた父。なのに5月には自らが入院。お尚さまもお見舞い下さり、始終ご心配下さっていた。これからは、2人分のお参りをお願いせねばならない。
父はあの時、どんな思いで正信偈を唱えていたのだろう。そしてどんな思いで母の納骨に臨んだのだろう。こんなことなら、四十九日に何が何でも納骨を済ませておくべきだった。1メートルの雪を手でかき分けてでも……。
「ごめんね父さん、ずっと我慢させて。もう痛くない?楽になった?これからは、天国でみんなと安らかに、幸せに暮らしてね……」冷たいおでこをなでながら、私は繰り返した。
まさか2年続きでお葬式を出すことになるとは思わなかった。だが、母の見送りが記憶に新しいこともあってか、弟たちは滞りなく準備を進めてくれた。母の葬儀はまるで、父のそれに備えた予行演習だったかのようにすら思われた。
父の遺影は、船舶免許の顔写真に決まった。弟が会社に保管されていたのを探し出してきてくれた。ふくよかな四角い顔……私はよく「お獅子」に似ていると思ったものだ。俳優で言うなら、高松英郎さんに似ていた。そんな父のトレードマークも、最期は見る影もなかった。がんという悪魔の恐ろしさを、まざまざと見せつけられた。
葬儀では、2人の旧友が弔辞を読んで下さることになった。高校時代からの親友であるYさんと、町内会で仲良くしていただいたNさんだ。
「すみ…」「ちゃん…」Yさんは、当時のあだ名で父に呼びかけた。「すみ」は名字の一部だが、「ちゃん」は体格がよかったことから「父ちゃん」の意味で付けられたものらしく、私たちも初めて耳にするあだ名だった。亡くなって初めて知るエピソードの数々に、また涙が溢れた。
「Sさん、聞こえるか!!」普段は温和なNさんが声の限りに叫び、私たちの涙を誘った。家のことはとんと顧みないが、町内をはじめとする外のことには一生懸命だった父の姿が偲ばれた。
出棺と同時に、雪が激しく舞い始めた。涙雨ならぬ涙雪だろうか。
父の骨は太かった。左肩甲骨はがんに侵され、破骨するまでになっていたが、それ以外は真っ白く、美しいとさえ思えるものだった。さすが頑丈だった父さん、と誰もが納得した。
豪雪だった去年とは打って代わって、今年は記録的な暖冬となった。おかげで、父の納骨は予定通り四十九日に行うことができた。
父の生家は、隣県との県境に近い山奥にある。目の前にダム湖が広がり、四季折々の景色が堪能できる、風光明媚な所だ。先祖代々のお墓は、家とダムを見下ろす場所に、守り神のように建っている。
まだ新しい母の骨壺の隣に、父の骨壺を並べる。これで2人なかよく揃ったね。ここから、みんなのことを見守っててね。そして自由な風になって、いつもみんなのそばを吹き渡っていてね。
キッチンに立てかけてある母の写真を、私は両親の写真と取り換えた。2人が父の実家の縁側で肩を寄せる、私の一押しのスナップだ。確かな記憶はないのだが、私がシャッターを押す姿が横のガラス戸に映っている。2人とも、実にいいカメラ目線だ。
そして私は、母にしてきた頃からと同じように、毎朝写真に向かって呼びかける。「おはよう。今日も一日よろしくね」
実に皮肉な話だが、こんなにも両親を身近に感じることはなかった。キッチンに立てば、いつも微笑みかけてくる。目を閉じれば、すぐそこに降りてくる。そして何より、私はあの日以来恐れるものがなくなった。いつも両親がそばについていてくれるから。「やってごらん」と背中を押してくれるから。弟もきっと同じ思いで、父から受け継いだ会社を切り盛りしていることだろう。
かけがえのないものを失った代わりに、新たなかけがえのないものをもらった気がする。「人は悲しみを乗り越えて強くなれる」というのは本当らしい。
今も夢を見ているような気持ちになる時がある。そして次の瞬間、ふと我に返る。両親の肉体はすでにない。しかし魂は、いつもそばにある。
さあ、今日も顔を上げて外へ出よう。そして胸を張って歩こう。体いっぱいに父と母の風を感じながら。(完)
計らずも母の一周忌と父の四十九日を同じ日に執り行うこととなりました。
叔父、母、そして父までもが天に召された1月。
年の初めは身内を偲び、感謝の思いを新たにしつつ、今年もがんばろうと心に誓う私たちです。
拙文に長らくお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。