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「ここどこだと思う?」

「天国か地獄」


 隣に立つ幼馴染は、俺がしんそこ震えながら聞いた質問に淡白な答えを返した。


 見渡す限りの暗闇。

 星のない夜空のような空間。上を見上げても照明はどこにもない。光源はどこにも見当たらないのに、俺には隣に立つ幼馴染のボブカットの毛先の輪郭までくっきりと視認できていた。


 前(便宜上、俺が向いている方向)から、兎がやってきた。

「ポンだポン」

 兎じゃなかった。兎の頭部だった。

 頭だけの兎は生きて目を輝かせて、喉もないのに口を開いて声を出していた。


「なあ幼馴染よ。この雪球の人形はなんて言ったんだ」

「ポンだポン」


 表情筋を一切動かさずに、幼児のようなハイトーンの兎の第一声を幼馴染はトレースした。少しだけくすりとした。

 調子に乗った幼馴染が勝気に口角を吊り上げる。

 どう考えたって、幼馴染のくだらない芸に笑ってしまったのは俺がこの世界を不安に思っているからだ。断じてネタのクオリティが高いわけではない。


「どういう意味だ? ディア幼馴染」

「私はポンです。これが直訳ね。それか「pon de pon」とも聞き取れるわね。フランス語・・・・・・スペインかも、とかくヨーロッパ系の言語で言い換えたら「ポンポン」という意味になるわね」

 どこでそんな知識を覚えたのだろう。俺にはスペインがヨーロッパ圏にあるのかアメリカの下にあるのかすらわからない。


「私はすっぽんぽんです、か。確かに素っ裸だな」

「女子の前で、きゃーやらしー」

 幼馴染は胸でも腰でもなく、口と目を両手で隠した。

「そのボケに点数が欲しいか?」

「・・・・・・」

 自分でもそのボケに不満だったらしく、鬱憤をポンポンにぶつけた。


「兎、芸をしなさい」


 兎には理不尽な幼馴染に抵抗する術がないらしい。本能でわがままに対する危険性を感じ取った小動物は、頭頂部から汗を垂らし始めた。兎なのに汗腺があるのか。


「ポ、ポンは兎じゃないポン」


 まるで呼吸ができる深海のような場所。光の届かない海の底はとても広く、一週間ぐらいサイクリングしても壁にぶつからないと言われているとかいないとか。ここもその噂に倣ったように、物もなければ地平線の欠片も見当たらない。

 俺が立つこの場所がどこだかわからない。そのことに、正直ぶるってた。

 お化け屋敷のようなアトラクションじゃないことは一目見てわかった。幽霊が出てきてくれれば安心して頭を下げただろう。


 けれど代わりに名乗り出てきたのは、体のない兎だった。これは兎とは呼ばないだろう。ではなにか、まさかポンというのが種族名ということはないだろう。挨拶で「私は人間です」なんてぶちかますファジーな病気持ちがいるのなら、キャンプファイヤーで火にくべるべきだ。


 脱線した。なんだっけ・・・・・・?

 ああ、そうだ。俺はこの状況を怖がっていた。という話だ。もう過去形だ。なんせ、隣に幼馴染がいる。知っている人間がいることは心強い。人は群れる生き物だ。一人でいるだけじゃ虚しいし退屈だ。でも、他人がいれば会話の摩擦熱で世界が明るく見える。


 それか彼女なら文句がない。

 もしこれが普通の男女なら、手を繋いで喋る奇怪生物から脱兎の如く逃げて、本業の兎に捕まって捕食されていただろう。

 しかしどうか。俺の横に立つこの女は、ポンと名乗る兎に芸を仕込む段階に進んだ。神様が運命のフローチャートを作っていても、彼女だけはその輪から外れることの出来る存在だと、俺は尊敬した。


「いい? 私が右手を差し出したらお手の合図よ。兎は左耳を私の手に乗せなさい。左ってわかる。お箸持たないほう」

「お箸はもてないポン」

 唐突に、幼馴染の手がバットのスイングのような速度で、兎にチョップをかました。

「甘えないで。持てないとショービジネスの世界では生きていけないわ」

「・・・・・・持てるようになるポン」

 兎は鳴いていた。兎が滝のような涙を流す事実より、幼馴染が小動物に容赦なく暴力を振るう現実に俺は泣きたくなった。


「そこらへんでやめとけよ・・・・・・あれ?」

 ・・・・・・こいつ、名前なんだっけ?


「なに?」

 俺に呼ばれて振り返る幼馴染。俺という存在も微塵も疑っていない気楽な素振りだ。染めた形跡のない黒いボブカット。よく見たら黄色のパジャマ。身長は同じくらいだ。おない年か?


 混乱する。記憶を引っ張り出そうとすると、更に困惑した。

 幼馴染と呼称する目の前の女についての記憶が、一切ない。

 見た目からはわからないが、もしかしたら十年来以上の関係を築く俺たちなのかもしれない。もしかしたら同じ病院で同じ日に同じベッドで産まれたという曰くつきの腐れ縁かもしれない。・・・・・・同じベッドならそれは双子だな。

 どんな可能性も浮かび上がり、そしてそのどれもを俺はピックできなかった。


「どうしたポン?」

 心配するような声音の兎が、頭部と同じくらい大きな両耳をまたたびのように揺らしていた。


 その姿を見て、俺は悩んでいたことがどうでもよくなった。


 記憶喪失のひとつやふたつで慌てふためいてどうする。それ以上に不可解な現実が目の前には転がっているのだ。

 それに、幼馴染が幼馴染であるということを疑う気がおきなかった。それで十分だ。

 光のない真っ暗闇の中で、輪郭がはっきりしている彼女に話しかける。


「悪い幼馴染。名前を忘れた」

「奇遇ね。私も幼馴染の名前を知らないわ。ついでに自分の名前を忘れたわ」


 言われてから思い出す。俺も、俺の名前がわからなかった。

 人として当たり前のことを失念していた。まだ相当にてんぱっているらしい。そして、焦っているのは俺だけらしい。なんでだ。


 幼馴染は立ち上がり、提案をした。

「とりあえず便宜的な名前を考えましょうか。ポン、名前を二つ挙げなさい」

「え」

 汗腺がこの短時間でひからびしてしまったのか、なんだか黄色い汗を垂らしていた。


「じゃ、じゃあ。男はマナブ。女はチトセだポン」

「ああ、それでいいんじゃ――」

「却下」


 女王様の裁定は絶対である。と、言わんばかりの腕組みをするのは勿論幼馴染。


「感動しないわ。もっと、あかずきんちゃんの祖母が実は満月の夜には狼化するみたいな、私の胸に新時代が去来するような名前を考え直しなさい」


 俺は人間だ。

 でも、目線が交差したとき兎と気持ちがシンクロしていた。これ以上いたいけな妖怪をこき使うのも不憫だと思い、無恥な彼女を説得することにした。


「記憶が戻れば元の名前で呼ぶ。一時凌ぎの名前なんだから、なんでもいいだろ」

 正論に噛み付きたいお年頃なのか。腕を組んだ幼馴染は首を大仰に横に振った。

「いやよ。もしも記憶が戻らなかったら私は一生弄られやすいその名前で呼ばれるのよ」

「チトセでどう弄るんだ。なんだったらこの世で超絶一番可愛いプリティーレーベル」

「私はチトセよ。末永くよろしく」

 解決した。この女、ちょろい。


 チトセが恭しく頭を下げたのを見て、兎も安堵の息をついていた。肺も頭の中に入っているのか。脳みそと肺と筋肉とか全部あの中にあるのか・・・・・・。調べてみたい。解剖してみたい。機械仕掛けのロボットであってくれたほうが現実味がある。


 新チトセは、離陸する飛行機の無事を願うような所作で俺に囁いた。

「マナブも、いい名前だと思うわ」

「・・・・・・そうか」

 凄い余計だった。ていうか、こつモジモジしてるけれどさっきの今で俺に恋心を抱いたりなんてしてないだろうな。地獄で遭難しているほうがまだ道標がありそうな摩訶不思議な状況なのに、どんだけマイペースなんだ。


 俺は空気を変えたくて、兎に話しかけた。

「なあ、えっと、ポンでいいのか? 名前は」

「ポンだポン」

「そうか、ポン」


 俺はある種の直感を持っていた。

 突き当たりの存在を感知できないこの場所を、俺は四畳半や東京ドーム、雲の中だと言われても信じられないだろう。ここがどんな場所であれ、俺の知っているような場所に暗闇だけの空間は存在しないからだ。

 そして存在が認知されていない世界で、この訳のわからない兎・ポンだ。どんな生物的変化が起きようと、兎は頭だけにならないだろう。代名詞の逃げ足を失うような進化の過程を逆戻りするオバカな動物なんて居はしないのだから。それに加えて日本語を喋る。宇宙人がカッパと二人三脚している写真よりマニア好みだ。


 そんな未知な生物が、俺とチトセの前に現れた。

 こいつは、何かを知っている。

 きっとポンは、案内人なのだ。交番に行けばお巡りさんがいるような。ホテルにいけばボーイがいるような。遊園地なら係員のような。


「ポン、ここはどこだ」


 こいつが俺たちをここに召喚した理由はわからない。もしかしたら、呼んだのはポンじゃないのかもしれない。どういった理由であれ、ポンが事情を知らない、なんてことはありえない。

 質問をされたポンはその場で飛び跳ねた。

 そのとき、床と衝突した音がしなかった。


「ここは天国だポン」

「なっ・・・・・・」

「私正解」


 俺は信じたくなかった。深海だなんて自分の定義の中で言葉を濁していたのに。でも、そうだ。ガッツポーズして正解だとほざくチトセが発言したとおり、可能性として高いのは天国か地獄なのだ。

 そしてここは、一番最悪と二番目に最悪の中で、二番目のほうだった。


「ま、まじかよ。おれ、死んだのか」

 直前の記憶は、鮮明に思い出せる。試験勉強をしようと、長い夜を耐えるためにキッチンでコーヒーを淹れたら美味しくなくって、母親と不味いコーヒー豆買ってくるなとか喧嘩して、つまずいた拍子に倒産に牛乳半分のコーヒーをぶちまけて叱られて・・・・・・。

 しょうもねえよ。


 腰が抜けてしまった。上を見ても、下を見ても、無だ。

 でも、コレが俺の最後の記憶なんだ。いつか、家族が天国に昇天されたとき、俺はその入り口で待って、謝ろう・・・・・・。


「早とちりしないでくれポン。二人とも死んでないポン。今日は、寝ている三人の精神だけを汲み上げたポン。神様が戯れでたまにこうやって人間を天上に連れてきてるんだポン。記憶がないのは、二人が天国での記憶を忘れるように、最初から海馬の機能をストップしているんだポン」


「・・・・・・」

 ポンの言葉を理解するのに時間がかかった。

 ・・・・・・俺は、そもそも試験勉強なんてしない。


「ついでに、さっきの二人の名前は、正真正銘の本名だポンぐっ!」

 チトセが兎を、生卵で割るかのように叩きつけ始めた。

「うさぎ! うさぎ! うさぎ! ちょっとアンニュイになった気分を返して!」


 記憶はない。けれど、俺の幼馴染がアンニュイだなんて言葉を発しながら恥辱と激昂に揉まれる姿は珍しいとわかる。子どもみたいにポンに対して怒りをぶつけた。内蔵があるのかわからないが、臓器の全てが飛び出してもおかしくなかった。

 中身は綿で組織づくられているのかもしれない。ポンは痛そうな喘ぎ声をあげるものの、負傷しているようには見えなかった。


 チトセのストレスが程よく解消されたらポンは解放された。

アンテナのように立っていた兎耳が縒れていた。非道な暴力を振るったチトセに俺は共感していたから止めなかったが、痛ましい耳は俺の責任でもあると思い、真っ直ぐになるように両手で支えた。


「――ありがとうだポン。曲がったと聞いたときには泣きそうになったポン」

「悪かったな。チトセも、謝れよ」

「いやよ。でも、私もやりすぎたわ。ごめんなさい」

「心配しないでくれポン。耳も、神様に言えば治してくれるポン。きっと」

 神様がどういう存在かわからない俺とチトセは、しょんぼりしたポンに気休めの言葉をかけることができなかった。





 ポンは案内人で正解らしい。

 道中に聞き及んだ話を纏めてみた。


「――つまり、神様は寂しがりやだから、たまに人間の意識だけを天上に迎えることがある。この場所は、そういった生きている人たちには真っ暗に見えてしまう。なぜなら、死後の世界は光を用いた目という器官ではなく、魂の目で見る場所だから」

「そうだポン。だからポンには世界が虹色に見えるポン」


 晴れ渡る空を見上げて口笛を吹くような快活な調子でポンは教えてくれた。

 虹色に見える景色が正しいとは思えないのだが・・・・・・。ピー音と共に映る真夜中のテレビのような光景が延々と続くような世界が天国なら、地獄に行くのも悪くないかなと思った。


 女王様の気分は終わったらしく、旅の御一行の一人として、俺の隣を歩くチトセ。

「ねえ、ポン。その虹色のファンシーな世界には、乗り物としてのユニコーンはいないの? もしくは車」

 生々しかった。歩きつかれたという欲求が過分にポンを責め立てていた。


「ユニコーンはいるけれど乗ることはできないポン。申し訳ありませんポン」

 チトセが怖いらしく、俺の肩に乗ったポンが大きな声で答えた。俺の頭の向こう側で歩くチトセにも聞こえるようにした配慮なんだろう。けど、今の俺はステレオラジオを肩に乗っけるヒップホッパーみたいな体勢だ。そう何度も大声を出されると耳が痛くなる。

中立案として、俺の頭の上に乗せることにした。ポンの見目はクッションのような形状なのに、触ってみると昆布のように硬かった。明らかに動物性の皮膚ではなかった。


「じゃあどうして私は歩かなくてはいけないのかしら?」

「神様に呼ばれたのは三人だポン。でもまだ二人だポン。もう一人も一緒に連れて行かないと、神様が困るポン」


 現状、俺たちがポンのナビゲーションで暗闇の中を徒歩していた理由は、そういうことだった。

 神様は、俺とチトセ、そしてもう一人を天上に呼んだらしい。

 俺らよりも早く目覚めた彼は、暗闇の中を当てもなく彷徨ったらしい。なんと勇気のある人間だと賞賛したかったが、喚きながら走り回った挙句に泣き疲れたと聞いて、手放しで誉めることができなくなった。

 しかしその一人は、狂乱となって走った方向が運良く、神様の間のドアまでもう辿り着いているらしい。

「じゃあ俺たちは、そのまんま神様の間まで歩けばいいのか?」

「そうだポン」


 そう言われたのがもう数十分前だった。

 チトセは幼馴染だと心は思っているのに、頭にはその記憶がすっぽりない。だから共通点もなく、話の入り口を提案することができない。距離感なんて掴めない深い闇の世界で、次第に口数も減って気まずい空気になってしまう。雨の音を聞くだけでも気晴らしになる俺でさえ、風景は変わらないし足音も響かない世界というのは退屈だった。

 我慢強くないチトセも、とうとう痺れを切らしたようだった。

「まだ? ねえ、まだ? もう三十分近く歩いてるんだけど、何もない空間を。ねえ。私たちを騙してないよね。足の骨を折らせるまで酷使させる地獄とかじゃないの? もし騙してたらあんたなんかアメリカに売り飛ばしてやるからな」


 ・・・・・・これはあれだ。チトセなりの空気の換気だ。暗い雰囲気を吹き飛ばすために、体育教師がとりあえずグラウンドを一周させるようなものだ。はた迷惑極まりないな。


 ポンも露骨には態度を明らかにしなかったが、体をつつくチトセの指を悪魔が持つさすたまにでも見えていたのだろう。

「だ、騙してなんかいないポン。神様の間まではもうちょっとだポン」

「ポンの言う「もうちょっと」ってどのくらい?」


 チトセは試していた、ポンの芸人としての才能を。

 ポンはわかっていた、限度を超えた無茶難題には俺が助け舟を出すことを。

 俺は歩き疲れていた。

 だから助け舟を出さなかった。


「俺も見たいな。ポンがマンハッタンで気球船の上からワンマンショーを披露するところを」


 逃げ足の速さが売りの兎は、道がなくなればどうするのか。

 ポンは俺の頭頂部から飛び降りた。音もなく着地したその姿は、滑空するドラグーンから降り立つ騎士のように流麗な様だった。垂れ落ちる汁は、三日は続く土砂降りの雨のようだった。


 チトセは腕を組んでいる。振り向いたポンが、お代官様の前に出た。

「行くポン」

 開幕の言葉に、気分上々の魔王ちゃんがマントを翻すような動作でパジャマの裾をはためかせた。

「ああ。見せてみろ、お前の真の力を。示すのだ、世界の理を定めた、いそいそしい神に!」

 興が乗ったチトセが背を向けたポンを指差す。


 ポンは、

「神様の間はこっちだポン」

 歩き出した。

 チトセが逃亡兎を鷲掴みにした。

「ねえ兎」

「なななななななななんだポン!?」

「私の発言を覚えているかしら?」

「そんなことよりも早く神様の間へ」

「ねえ、うさぎ」

「チトセ、タイム」

 どうしても芸をやらせたいらしいチトセが恐喝紛いをしているところ悪いが――いや、悪くはないのだが――俺は一人と一匹を止めた。


 チトセの顔が何故か赤らんだ。

「・・・・・・チトセタイム。私を好きにする時間ってこと?」

「何言ってるのかわからないポン」

 俺の代弁をしたポンが手加減のないハンドクローで熟れて落ちた梨みたいに潰されかけていた。俺がされたら正真正銘の死を迎えてしまうが、ポンは痛くないんだろうな。


 大名様が喰らって喉を詰まらせてしまう前に、捏ねくり回された白いお餅を奪い取った。

「落ちつけって」

「これが・・・・・・落ち着いていられると思うの」


 チトセは、今にも涙を流しそうだった。

 俺もポンも言葉を継ぐことができない。これまでのやり取りを思い出してみる。けれども、やりたい放題ではっちゃけていたチトセが憤慨して落涙する理由がわからなかった。


「マナブが何かしたポンか?」

「語尾はそこか? そこでいいのか?」

「あなたよ、ポン! あなたが芸をしないせいで・・・・・・!」


 ロウのように透明な世界で、彼女の声だけが反響した。まるで自身の前触れで木々が揺れるような、雄大な息の吸い方をしたチトセは、声の限りに叫んだ。


「私だけがイタくて恥ずかしい人みたいになったじゃない!」


 空間は、その全ての声を吸い込んだ。空間は、消化不良を起こす前にお餅を吐き出した。山びこのように、自業自得の逆ギレ発言が何度も聞こえてきた。

 俺はチトセの耳を両手で塞いでから、厳しく評価した。

「それが四ページも費やしたオチか!」





「そろそろドアの前だポン」

 ポンがそう言うか否かのタイミングで、枠組みから真黄色なドアが見えた。

 その先に六畳間でも通じているのではないかと危惧するほど普遍的なドアは、ぽつんと佇み、部屋としての奥行きが存在しなかった。ショールームでドアだけ見ている気分だ。単体のドアは開け閉めするためだけに設置されていた。


 そして、その黄色いドアの前には、親友がいた。

「呼ばれたのってお前かよ」


「・・・・・・お前は・・・・・・」

 会って早々憎まれ口を叩いた俺に、何かを言い返そうとしたのだろう。しかし、うろたえていた。相手に対する認識だけあっても名前や記憶が思い出せないことに混乱したのだろう。

 

 思えば、彼女は一人だったのだ。


 俺は目覚めたときに幼馴染が傍にいた。しかし彼女には誰もいなかったのだ。案内人となるポンのような存在も見当たらない。非日常な空間に独りでいることがどれだけ心細かったか、想像すると胸が苦しくなった。


「いいんだ。大丈夫。お相子なんだ、名前を忘れて――」

「お前は! 白日の恋に現を抜かした挙句、その娘の親にあたる女王にも二股をかけて国を追い出された・・・・・・私の親友じゃないか」

「最初と最後だけで伝わることなのにどうしてそうなった・・・・・・。というよりも、だ。お前はそんな奴だったか?」


 俺はチトセを幼馴染だと感じだ。そして、チトセがどこぞの団体の倫理規定を犬の餌にするような行動を不審に思わなかった。

 しかし今、親友だと体が反応した女の、一種の病気とも思える言動(さっきの発言では息継ぎをするたびにポーズを決めていた。うぜぇ)には、答案がズレたような違和感を覚えた。


 チトセも、どこかぎこちないものを感じたみたいだった。

「なんかあれだよね。私もさっきギャグ、でやったけど、ゲームでパーティに入った後に扱いが一番面倒なキャラみたいな言動だよな」

 たとえがよくわからなかった。よくわからないことにしておきた。

「物語のチョイ役のくせに地味にステータス高いから起用せざるを――」

「シャッラブ!」

「言いたかったのはたぶんシャラップだポン」

 わかっていたさ。噛んだだけだ。舌の回りのせいであって、決して頭の回転のせいじゃない。どうでもいいけどさ、思考が回転するって頭痛が痛いみたいなトートロジー感溢れてる。


「お前ら、私を、忘却回廊の渦から解き放て!」


 ほったらかしにされていた親友がついに怒鳴った。何を言っているかはわからなかったが、手を広げて大声を出したから、ジェスチャー的に怒っていると思う。


「怒ったの?」

 怖いものなしのチトセ。同年代が相手だからこそ出来る芸当だ。目上にはやっていないと信じたい。

 問われた親友は広げた手で、優しく自己の体を抱きしめた。

「怒りの羽がミラノを覆う」


 チトセがポンを上司の瞳で見ていた。けどなチトセ、ポンは翻訳機じゃないんだ。


 今度のはわかりやすかった。怒りの羽とは、そのまま怒っているということだろう。

 さっきも忘却が云々と叫んでいたし、たぶん会話の輪に加えられなかったことに憤慨している、という予測が立てられる。


 目の前で服を脱ぎ始めた親友が何らかの病気を患っているとしても、容赦なくみぞおちにトーキックをぶち込む幼馴染と同じだ。

 どっちも大切だと魂で感じました。

 そう手短に綺麗にまとめておこう。一刻も早く、追撃に悶える親友を庇うために。


「クールダウンだチトセ、親友が死ぬだろ。いや死なないけど。てか痛み感じるのなこの世界」

「いきなり服を脱いだそいつが悪い。ポンと同類」

「ポンは裸だからチトセに酷いことされてたポン?」


 数秒逡巡してみた。


「そうだな、脱ごうとした親友が悪い。それは俺も認めよう。けど、腐っても俺らの親友だ。いきなり脱ぐだなんて、大切な理由があったんだよ。そうだろ?」

 蹲っていた親友は勇み、立ち上がり、見えない太陽に手をかざした。

「流るる水と海の血を浚う風を受けて我は思った。輝かしいアースの恵を我が裸体に注ぎ込むことによって、高潔な身分が清浄されるのだと」

「チトセ」


 俺が三行半を下して呼びかけるまでもなく、裁定者は知る限りで最強の技を放った。

 それはどんな悪者でも決して敵わない無敵のヒーローが、自分の体を犠牲にしながらも繰り出す超絶最終奥義だった。

 振りかぶった手が、親友のひらべったな胸にめりこんだ。

「アン、パ~~~~~~ンチ!!!!!」

 模範どおりには、世の中ならないものだ。

 親友は空の彼方に吹っ飛ぶことなく、等身大の女子の本気パンチをくらって、倒れた。





 神様の許可がないとドアは開かないらしい。そして神様と連絡を取れるのはポンだけだ。


「ここまで殴ることないポン」

 親友の介抱を終えてからでないと、謁見の間には通せないらしい。謁見の間ではないとポンに注意された。神様の私室だという。どっちでもいい。


 チトセは疲れたらしく、何度も寝ようと横になっていた。

「・・・・・・寝れない」

「神様が許可するまでは下界に返せないポン」

 面倒くさい。もう俺もチトセも嫌々だった。早く帰るために神様に会いたい。神様に会うためには親友が復活しないといけない。親友の復活を待つ時間は暇だ。

 時間つぶしのために、ポンに親友について聞く。


「親友の名前はなんなんだ?」

 訊く必要はなかった。ベッドの上で起きた頃には思い出すことだ。そして同時に、この空間での出来事は全て忘れるらしい。寧ろここで、幼馴染に告白の練習をするのもいいかもしれない。忘れるから経験にもならないんだけど。


「シマナガシだポン」

「ふっ」


 チトセがくすりとしていた。何が面白かったんだろうか。しっくりこないけれど、親友の名前はシマナガシなんっだろう。・・・・・・親友はそんな名前を思い出したいのかな? 起きても教えないでいいか。

 はぐれで寝返りを何度もうっていたチトセも興味が沸いたらしく、起き上がった。


「どうしてシマナガシは、シマナガシなの・・・・・・ふふっ」

「ポンじゃなくてシマナガシの親に訊いて欲しいポン」

「失敗は成功の母。シマナガシは島に流された流浪の民の末裔」


 ポンがチトセから視線を外した。その口許がすこし笑っていた。

 この二人の笑いのセンスは俺にはわからなかった。が、何度もその名前を口にされたせいで、俺も面白いと感じるように鳴ってしまった。全力で悪いと思っているので、チトセがこれ以上名前を弄くる前に話題を転換。


「なあポン。シマナガシはどうしてあんな言葉遣いになってたんだ」

「ここに呼ぶと、半分の半分くらいは怖くなったり、自分が特別だと感じちゃうポン」

 一人だと尚更そう思ってしまう、ということなのだろう。


「シマナガシは典型的な後者だポン。そういう人は、内々にいつもそういう思考を持っている人だポン」

「そうか。おしわかった」

 手を打った俺に、チトセが首を傾げる。

「何がわかったの? 婚姻届の書き方?」

 チトセが少し近寄る。不思議な感じがする。親友に違和感を感じたのと同じだ。

「お前、後で忘れるからって好き放題言い過ぎじゃないか。これで起きたときに記憶があったら明日から顔合わせるの恥ずかしいんだけど」

「・・・・・・もし忘れてなかったらポンをオーストラリアの民間サーカスに売る」

「ひっ」

「その日の売り上げが少なかったら晩御飯が兎の煮鍋」

「絶対! 絶対忘れるポン! 確約するポン!」


 振り返ったチトセが俺に視線を向ける。急に笑顔を作ったけれど、ポンに向けていたものを俺も見ていたから意味ないぞ。もう応感度はガッツリ下がっている。明日の朝、起きた俺にひとつだけ伝えられるなら、幼馴染の前で兎を放してみろと言いたい。


「それで、何を意気込んでいたの?」

 軌道を戻してもらった。この話題を続けたくないのは俺もだから、乗っかる。

「ポンの説明のとおりだと、シマナガシはああいうのが元から好きだったってことだろ。だったらこの場だけでも、あいつのいたいままでいさせてあげられればと思うんだ」

「私には忠告を入れたのに」

 限度があるだろ。

「シマナガシが露出も始めようとしたら止めるよ。とりあえずシマナガシの言うことにはあまり否定をいれないでいよう。いいか?」

「ポンはいいポン」

「チトセは?」

「まあ、いいけど」

 不承不承といった感じだった。たぶん、単純に興味がないんだと思う。

 約束は取り付けたからよしとする。


「う、ふぁあわ・・・・・・」

 後ろから欠伸っぽい息遣いが聞こえた。シマナガシが起きたのだ。ポンが跳ねてシマナガシの傍に近寄った。

「ポンだポン」

「兎・・・・・・頭だけの。きゅー」

 ポンを見たことで、ホラーによわいシマナガシはトラウマを抱えて床に埋まった。



 起き上がったシマナガシ。

「俺は、幻のなかで、不思議な兎と」

「ポンだポン」

「きゅー」


 それはもういいって。俺はシマナガシの背中を支えて起き上がらせる。立ち上がったシマナガシに見えるように、ポンを持ち上げて掲げる。


「兎だ。これは変哲でそうは見えないだろうが兎」

「うさぎ・・・・・・」

「そうだ。兎だ。お前は動物園で兎を見たことがあるか? ないだろ。本物の兎はこれなんだ」

「そうか、これが、うさぎ」

「そうだ」


 シマナガシには動物園に行った記憶がないはずだ。俺にもない。そして俺なら絶対に騙されないだろうが、シマナガシはちょっと抜けているところがあるのだろう。洗脳は完了した。


「兎が喋るのか・・・・・・?」

 まだ疑うシマナガシ。だが常識を一々種付けている時間はない。実際には無限にあるのかもしれないが、単直に言って面倒だった。

「大丈夫だって、危害はないから。寧ろ今のチトセのほうが危険だ」


 チトセは俺のフリには応じず、ポンに話しかけた。


「もう起きたよ。さっさと神様に会って帰る」

「神・・・・・・そうか、チトセには見えるのか、神の姿が」


 ひとりほくそ笑むシマナガシには誰も触れず、ポンも「わかったポン」と言って、黄色い扉の近くまで跳ねて移動した。耳で取っ手をくるりと回転させた。


「開けるポン。用意はいいポンか?」

「語尾はそこなのか、本当に」


 軽い音がした。ポンがドアノブをひねったのだ。

 黄色い扉が少しだけ開くと、眩い光が溢れ出てきた。それは思わず目を瞑って手を庇にしなければいけないほどに強い光だった。

 暗闇の世界で、たった一つの光源。


 斜めに傾いていたポンの体が着地し、ドアの隙間に耳を滑り込ませる。


「三人とも、そこに立つポン」


 シマナガシ、俺、チトセはドアに正対した。途端、緊張感が沸いてきた。それは他人から伝播してきたかもしれないし、自分が発しているかもしれなかった。


 漫然と神様を思い描いた。どんな姿だろう。神殿に座る彫像のようなギリシャ神話の神々。海をあまねく統べるポセイドン。情報統合思念体かもしれない。日本の仏像なら、ドアの向こうは神社仏閣よろしく板の間に迎えられるのだろうか。あれってなんで畳じゃないんだろうな。


「目が痛くなるから、ポンが言うまで目を瞑ってるポン。じゃあ、開けるポン」


 黄色い扉を、ポンが耳で内側から押し開ける。

 瞼越しにでも伝わってくる強い光は、熱したフライパンが目の前にあるんじゃないかってぐらい怖さがあった。痛いくらいの光量は、神様のオーラなのかもしれない。

人の姿ではなく、哲学であるような火や水の姿をしているのかもしれない。概念のような、抽象的な存在。姿かたちのないものなのかも――。


「神様!」

 ポンの慌てふためく呼び声が届いた。それは悲痛な叫び声だった。


「あ」

「・・・・・・」

 瞼を開けるか迷ううちに、二人の驚く声と浅い息遣いが耳に届いた。もう目は開けても安全だろう、俺はゆっくりと目を開いた。


「なっ」


 ファンシーな部屋だった。石造りの祭壇でもなければ宇宙空間でもない。庶民的なマンションの間取りのような部屋が、ピンク色に染まっていた。

 桜が蠢く壁紙。市販に出回っていそうな生き物のぬいぐるみ淡い色に褪せたソファ。

 

 夢だと、再認識した。


 神様の部屋だということを疑いはしなかったが、こんなの少女趣味な女子大生の部屋だ。。

 記憶がないから、その理由だけではこの胸のざわつきを説明できないだろう。こみ上げてくる吐き気を寸前で塞き止めることができているのは、両隣に幼馴染と親友がいるからだ。


 叫ぶ二人を、俺が支えないといけない。


「きゃああああああ、し、ひとが、し、し」

 チトセが青ざめた顔で尚わかりやすくうろたえる。


「神様! 神様!」

 ポンが天変地異を予言して倒れたババサマを心配するかのように部屋の中を一直線に跳ねる。


 ポンに続いて、愉悦の神輿を拝見するが如く態度でシマナガシが部屋に入った。

 薄い桃色の絨毯に土足で踏み込んだ彼女は、ルージュのような濃い赤色を指で掠め取った。

 包丁を一刺しにされた人型の、見覚えのない男の胸の包丁を眺めたシマナガシは、お芝居のような演技がかった口調で、笑う。


「神は死んだ!」


 ポンが、縋りつくように男の足元で泣いていた。

 これ、なんなんだよ・・・・・・。



あとがきその1

 文章の間に空白行を取り入れました。正直こっちのが読み難い。

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