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花と骨  作者: 花森あさひ
3/7

(三)

 梅雨葵は、自分のことをどう思っているのだろうか。花曄はそう思いながら姉女郎の顔を盗み見ていた。もう、彼女が花曄の姉女郎になって一年近くが経つ。恐ろしくて問えずにいると、梅雨葵はカンと煙草盆に煙管を打つ乾いた音を響かせて溜息を一つ落とした。



「あんたの目は、気味が悪いよ」



 花曄の心を見透かしたようにそう口にした梅雨葵は鋭い声音をしていた。しかし、でも、と彼女は少し鋭さをやわらげて続けた。



「あんたのお蔭で、私は予定よりも早く年季が明けそうだ」



 女郎が遊廓を出る方法は借金の返済を終えるか、身請けされるか、死ぬかの三つだ。足抜けが成功することはない。万が一、遊廓を出ることができても必ず追手に捕まり、遊廓へ戻されて酷い折檻をされる。この牢獄から出られる日を心待ちにしない女郎はいないだろう。


 梅雨葵は強さの滲む笑みを浮かべて、花曄へ言う。



「道中、楽しみにしておいで」



 それから数日後、梅雨葵の部屋に呼ばれて顔を見せると、そこに綺麗な仕掛けを見付けた。白い地に咲くのは、真っ赤な椿だった。その椿をそっと撫でた指先から感じた生地の滑らかさに、いつかの政嘉の言葉を思い出す。金色にちらちらと光って見えるのは、金が織り込まれているのかもしれない。帯は白地に金で蝶が舞っていた。その仕掛けをうっとりと眺めている花曄に梅雨葵はゆっくりと紫煙を吐き出しながら告げた。



「あんたの道中の仕掛けだよ」


「私の?」


「そう」



 梅雨葵の冷たい物言いは、彼女の癖なのだと花曄は既に理解している。礼を述べて、花曄は仕掛けを眺めた。その脳裏に喜遊の突出し道中が思い出される。天女のように美しかった彼女。


 そこで花曄は自分の手が震えていることに気付いた。道中の後に花曄は好いてもない男に身を捧げ、破瓜の血を流す。そんなこと初めから分かっていたはずなのに……――。


 縋るように思ったのは政嘉の姿。それが苦しく、花曄は泣き出したくなる。そんな花曄の顔から外に視線を投げたまま、梅雨葵は言った。



「そうそう。あんたの水揚げのお客さんは、伊勢屋様だよ」


「……伊勢屋さま?」



 伊勢屋、とは政嘉のことだろうか。ぐらぐらと強く早い脈に合せるようにして視界が揺れている。呆けた顔で首を傾げる花曄に梅雨葵はどこか羨ましそうに天井を見上げていた。



「それは高い値で買ってくれたって親父様から聞いたけどね」


「……伊勢屋さまは、見世替えしたんじゃ……」


「私もそう思ったんだけどね。文でお知らせしたら、是非に、とのお返事だったって」



 花曄の胸いっぱいに、政嘉の顔が浮かぶ。その途端、心の臓が痛いほどに跳ねた。呼吸も浅くなり、身体の内が火照ったように熱い。その不可思議な感覚に眉を顰めて胸に手を当てていると、不安がっていると勘違いしたのか梅雨葵は優しく苦笑して、いつもより少しばかりやわらかい声音を花曄にかけてくれた。それに曖昧に返事をしながら、花曄は視線を落とす。



(伊勢屋さま……)



 頬に触れた彼の熱が、花曄の頬に蘇る。


 あの熱いほどの体温が、低い声が、彼女の胸を焼いていく。






 椿の仕掛けを身に纏い、高下駄を履いた足で外八文字を踏む。道行く人々の視線が自分に集まっているのを、花曄は顔に突き刺さる痛みで感じていた。彼らは一様にこの異色の目を見ているのだろう。怯みそうになる心は花曄の瞼を重くする。だが花曄は心を強く保ち、前を見据えた。髪に挿した十六本の簪の内の一つは、いつか政嘉から贈られた平打ちのそれだった。


 茶屋が視界の中に映る。店先の、その腰掛け。そこに煙管を燻らせる男の姿を見付けた。忘れるはずがない。見間違えるはずがない。その男は正しく、政嘉だった。


 彼はゆっくりと顔を上げると、ゆっくりとした瞬きを一つ。それから、目元を和らげ、薄く口角を上げた。



「花曄」



 煙管を煙草盆に置いた政嘉が花曄を呼ぶ。彼の目前で足を止めた花曄は彼の笑みにつられるようにして微笑した。彼のやわらかく低い声が、そっと花曄の耳を撫でる。



「久しいな」


「あい。もう少しで忘れるところでありんした」


「ごめんな」



 寂しかったかい、と続けられた遊廓での常套句は口説き文句だ。花曄はそれに拗ねたように外方を向く。その仕草も全て女郎の手練手管の一つだ。全ては遊廓の中で交わされる在り来たりなやり取りだというのに、政嘉の軽く笑う吐息が聞こえただけで花曄の身体はぽっと熱くなる。幾重にも着物を重ねている所為だろうか。そう思うことで、花曄は顔の火照りを冷ます。


 彼の手を取り、花曄は見世に戻る。からんころんと鳴る高下駄は少し歩きづらくて、だがそれよりも早まる鼓動の強さに戸惑いを覚えた。



(違う)



 否定する心の声に、何が、と問い返したのも自分だった。繋いだ彼の手。その指先が、蔓のように花曄の指の間に絡みつく。それだけで、身体の芯が燃えるようだった。


 政嘉は花曄の目を、綺麗、だと言ってくれた。疎まれ、厭まれ、気味が悪いと言われ続けたこの目を。好奇にするのでもなく、ただそう言って微笑んでくれた。その時の情景を思い出すたび、花曄は切なくなり、苦しくなり、同時に温かくなった。心の内に溜まっていた冷たい雫が、熱を持ち始める。それは心地良いはずなのに、なぜか胸が痛んだ。


 岩亀楼の二階にある部屋に入り、花曄は政嘉に酒を注ぐ。他の部屋から漏れてくる笑い声と比べて、二人のいる部屋は静かだった。その空気に浮かぶ、ぽつりとした彼の声。



「喜遊が、死んだんだってな」


「……あい」


「苦しかっただろう」


「……」



 花曄は答えず、彼の目をじっと見詰めた。黒曜石のような、彼の瞳。吸い込まれる感覚がする。それに耐えかねて視線を落とせば、頬に彼の手が触れた。



「……伊勢屋さま」



 頬に触れた彼の掌は、やはり温かくて。泣きたくなどなかったのに、花曄の目に浮かぶ涙があった。


 喜遊は、死んだ。彼女を殺したのは、何だったのか。きっと異人などではなかった。羅紗面とは違うと喜遊は矜持を持っていたが、きっとそれだけではない。彼女を殺したのは、恋だ。其一に胸を焼き、彼の面影に誘われるようにして彼女は自分の首を裂いた。



「どうして、来てくれなかったんでありんすか?」



 独白のような小さな声で問えば、政嘉の瞳が揺れた。目を伏せた彼の手が、花曄から離れる。その手にそっと花曄が手を重ねると、彼は重々しく口を開いた。



「……其一は、労咳で死んだ」


「あい」


「……労咳は、人に伝染る」



 瞼を上げた彼の目は花曄を映す。真っ直ぐに見詰めて、彼女を捉えた彼は言った。



「俺も罹っていたら、知らぬうちにお前に伝染すかもしれん。――そう思ったら、怖くて来られなかった」



 彼の手が微かに震えていることに気付く。それが何の感情なのか、花曄には判断できない。慰める言葉を選ぶことのできない代わりに、花曄は微笑んだ。



「でも、来てくれなんした」


「……――お前が、」



 彼が、花曄を見る。彼女と視線を絡めた彼の目が熱っぽく、切なげに細められる。



「他の男といると考えたら、たまらなくなった」



 彼の表情とその言葉に、胸が軋む。その痛みを払うように花曄はくすくすと笑い声を立てた。



「わっちは、女郎でありんすよ」


「知っている」



 それでも、と続けた彼の手は花曄の頬を包む。



「その目に映るのは、俺だけであれば良いと、思ってしまう」



 首の後ろに腕が回され抱き寄せられた花曄の頬は彼の胸板に押し付けられる。その耳に、熱い彼の息がかかった。



「……気が、狂いそうだ」



 囁きは、吐息。



「その瞳が、俺以外を映すと考えるだけで」



 紅涙の瞳が、揺れる。行燈の所為か、花曄の瞳は濡れたような光を放った。彼の背に腕を回し、その大きな身体を抱き締める。



「伊勢屋さま」


「……名で」



 甘い声は花曄の心へと直接作用する。吐息と重なった彼の声は、甘く低く掠れていた。



「名で、呼んでくれ」


「……――」



 胸が、軋む。痛む。苦しさで、呼吸さえ躊躇う。


 唇が戦慄き、声は消え入りそうなほど細くなった。



「政嘉、さま」


「……」


「…………――政嘉さま……」



 睦言は、得意のはずだ。それが仕事で、何度暗い夜の闇に浸りながら紡いできたことだろう。それなのに、相手がこの男だと言うだけで、花曄は何も甘い台詞を口にすることができなくなる。そうしようとするたびに、なぜか腹の底で黒くどろどろとした粘度を持ったものが蜷局を巻く。――一体いつから腹の中で蛇を飼っていたと言うのだろう。腹の中に巣食う蛇は、花曄に苦しみを伴う罪悪感を与える。その蛇を追い払いたいのに、熱っぽい政嘉の目に全ての意識を奪われた。悔しいわけではない。それなのに、花曄は唇を噛み締めた。



「花曄、」



 彼女を呼ぶ政嘉の声は、それまで彼女が聞いたことのないほど甘く、低く深い響きをする。それに遮られるようにして、花曄の吐息は詰まる。胸が切なく痛む。耳の奥深くで、自分の悲鳴を聞いた。だが、もう、本当は随分前に気付いていた。


 花を売り、夢を売り、女郎は生きる。睦言は偽り。恋の遊び。仮初の恋よりも幾千の嘘を重ねて生きる。それが、遊廓だ。だが、胸を締め付けているこの感情は、紛れもない、恋、だった。こんな絶望的な場所で、立場で、恋などしたくはなかった。それなのに。



「俺が、お前を身請けしてやるから」



 そんな言葉を信じるほど、花曄は初心ではない。それなのに、信じていたいと思っている。そんな自分が何よりも赦せなかった。恋した女郎の末路を、花曄は知っている。自分の命を捨てるほどの恋の結末を知っている、のに。



「それまで待っていろよ」


「……あい」



 今この時、花曄は政嘉の言葉を信じていたい、と思ってしまった。


 甘い、白檀の蠱惑的な香りが花曄の身体を包んでいる。その匂いに溺れ、感情に溺れ、生ぬるい液体の底で、花曄は声もなく涙を流す。


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