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花と骨  作者: 花森あさひ
2/7

(二)

 花曄が売られた岩亀楼(がんきろう)という女郎屋は港崎遊廓の中でも大見世と言われる高級な位にある。安政六年の横浜開港を機に異人の引きつけと町の繁栄を図った幕府の命により建設された港崎遊廓。その中でも一際立派であった岩亀楼は異人用の三階建てと日本人用の二階建ての二棟から成り立っていた。この中で日本人用の棟で客を取っている喜遊の許で、岩亀楼に来てから花曄は毎日のように芸事の稽古をつけられた。そしてふた月前に漸く花曄は新造出しを終えたのだった。


 花曄は布団の中で眠る姉女郎を眺めていた。既に時刻は朝四つ半を過ぎているが、喜遊は昼見世をしない為、今も布団の中ですやすやと寝息を立てている。


 今晩は伊勢屋の政嘉の座敷だ。派手に金が飛び交うことはないが、喜遊は他と比べて穏やかな彼の座敷を好んでいることを花曄は知っている。


 喜遊の傍で膝をついた花曄はぬか袋の入った桶を隣に置くと、未だ眠る姉女郎に声をかけた。



「姉さん、湯に行こう。もう四つ半だよ」


「……もうそんな時間?」



 花曄が揺すり起こせば、くぐもった声を発した喜遊はゆるりと身体を起こした。その彼女へ花曄は不服そうに告げる。



「……今日は伊勢屋さまのお座敷だって、親父さまが」


「そう」



 喜遊は欠伸を一つ零すと、やわらかく微笑む。



「それじゃあ、仕度しないとね」



 布団から出た喜遊は閉められていた障子を開け放つ。差し込む日差しは目を眩ませるほどだ。


 陽が部屋に入り込むと同時に、潮の匂いが部屋にほんのりと広がった。日差しが、暖かい。もう少しで、桜が咲くだろう。桜が咲けば手土産に持って来てくれる客もいるのだと、花曄は他の新造から聞いている。喜遊もそれが楽しみのようで客に、楽しみにしておりんす、と艶やかな甘えた声で強請っているのを花曄は何度も耳にしていた。


 喜遊は外を眺めながら、穏やかな声を花曄へ放つ。



「花曄は、伊勢屋様が苦手なの?」


「……どうして?」


「いつも、複雑な顔をしているから」



 振り返った喜遊は困ったように苦く笑っていた。花曄は罰の悪さから彼女から目を逸らしてしまう。だが黙っているわけにもいかず、呟く程度の声で零した。



「伊勢屋さまは、嫌」


「どうして?」


「……私の、目を、じっと、見るから」



 政嘉の座敷に喜遊が呼ばれる時、彼女の新造である花曄も同行しなくてはならない。新造になったばかりの花曄はまだ片手で数えられるほどしか政嘉の座敷には行ったことがなかった。それでも政嘉は初めて花曄と出会った時から、じっと彼女の赤い瞳を見詰めてくるのだ。その視線の意図も意味も分からず、ただ花曄は戸惑う。気色悪い、と。鬼の目だと思われているに違いない。そう思えば思うほど、冷たい恐怖が身体の中を這いずった。



「それで、どうして嫌になるの?」


「……」


「花曄、」



 喜遊が花曄の傍に膝をついた。途端に、喜遊が纏う梅のような甘酸っぱい匂いが濃くなる。喜遊は花曄の頬を両手で包み、彼女の目を見詰めて諭すように言った。



「貴女のその目は、ここでは武器になるのよ。もっと自信をお持ち」


「……はい」



 頷けば喜遊はやわらかく微笑み、髪を撫でてくれる。立ち上がる喜遊の姿を盗み見ながら花曄は思う。なぜ、この人はこんなに気高くいられるのだろう。


 こんな地獄のような場所で、こんな下僕のような仕事をしながら、どうして。






 その日、茶屋で行われた政嘉の座敷には彼の友人も同席していた。()(いち)と名乗ったその若い男は肌の色が白く、全体的に色素の薄い人物だった。精悍な政嘉と比べて儚さを漂わせるその青年は絵描きをしているのだと、政嘉の紹介で知った。



「花曄、おいで」



 政嘉の低い声が花曄を呼ぶ。たじろぐ花曄が喜遊を一瞥すれば、視線だけで促された。花曄は短い返答をして政嘉の傍に腰を下ろすと、彼の杯に酌をする。


 白檀の、柔らかな匂いがする。酔ってしまいそうな甘い匂いに目を細めると、杯を煽る政嘉の袖が揺れた。途端に一段と白檀の匂いが濃くなる。



(この人の、匂い)



 そう思いながら顔を上げると、怜悧な政嘉の双眸と目が合った。



「……漸く顔を上げたな」



 そう口にした政嘉は口元に薄い笑みを引く。反射的にすっと彼から視線を外すと、ふっと彼が笑う吐息が花曄のうなじのおくれ髪を揺らした。それに熱を帯びる身体を恨みがましく思いながら、花曄は喜遊へと視線を投げる。喜遊は笑みを浮かべて其一と喋っていた。穏やかな会話を彼と交わしながらくすくすと笑う喜遊の、その表情。それを見ながら花曄は新造出しの前に言われた、喜遊の声を思い出す。



 ――花曄、私達は夢を売っても心を売っては駄目よ。



 意味が分からず、花曄は首を傾げた。その彼女に厳しい目をしたまま、喜遊は言った。



 ――夢を見るのは男の役目。私達は、夢を見てはいけないの。


 ――どうして?


 ――私達は、花だから。


 ――花……。



 女郎は、花。夢を売るのが、仕事。夢を見てはいけない、と花曄に教えてくれたのは喜遊だった。だが。



(どうして)



 それなら、なぜ。喜遊は、あんなに幸せな顔をするのだろう。顔を綻ばせた彼女の頬は、白粉越しでも分かるほどに薄らと赤い。


 べんべん、と三味線の音が鳴っている。舞を舞う芸者もいると言うのに、花曄の頬には痛いほどの視線を感じる。そっと窺うように目を上げると政嘉と視線が合った。その彼の手が自らの袖に入れられ、それから何かを取り出した。銀色のそれを、彼は花曄へ差し出す。



「これをお前にと思って」


「伊勢屋さま……?」



 首を傾げるばかりの花曄の手に、政嘉はそれを置いた。銀色の、それは簪だった。なぜこれを渡すのか、分からずに花曄は彼の顔を見上げる。



「これは?」


「簪。俺が作ったんだ」



 平打ちの簪だった。丸い飾りの中には精妙な細工がなされている。仄暗い灯りの中、花曄はそれを目の間近に寄せて見た。



「お花?」


「椿だ」



 言われて、花曄は簪を見入るように眺める。すべすべとした手触りの、二本足の平打ち簪。灯りを反射して椿の模様が深く濃く見えた。繊細なその作りに、花曄はうっとりと吐息を零す。



「綺麗……」



 花曄は新造だ。これほど高価な簪は持っていない。客から何かを貰ったのも初めてだった。



「お前の目は、椿と同じ色をしているから」


「え」



 驚き顔を上げた花曄の手から簪を取り、政嘉は彼女の髪に簪を挿した。満足げに微笑む、その彼があまりにも美丈夫で、高鳴る胸を隠すように花曄は顔を伏せてしまう。



「花曄、顔を上げて」


「……伊勢屋さま、」



 彼は、花曄の目を椿と同じ色だと言った。彼以外の客にも、花曄は何度も目を珍しがられた。それが好奇な目であればあるほど、花曄は村で感じた恐怖よりも強い居心地の悪さを感じる。鬼の目だと言われた。気味が悪いと言われた。その声を思い出し、花曄は顔を歪めてしまう。


 思い切って顔を上げると政嘉と目が合う。その目を見詰めて、花曄は口を開いた。



「わっちの目は――」


「ああ」



 政嘉は目元を優しく和らげて、花曄の声に自らの声を被せた。その彼の、骨ばった手の甲が花曄の頬に添えられる。その高い熱に花曄は言い掛けた言葉を飲み込んだ。その彼女に微笑みかけ、政嘉は甘く囁く。



「綺麗だと、思った」


「え」


「初めて見た時から」



 その台詞に皮膚の下が、か細く震えた。感じたことのない感情が胸の底から湧き上がり、花曄はなぜか泣きたくなった。呼吸が浅くなる。鼓動が、忙しない。


 口付けもなければ、それ以上触れることもない。座敷遊びの一線を越えず、彼はそれでも彼女の頬に触れた手を離さなかった。



「また、ここに来る」



 その声の優しさと彼の手の温かさに、花曄は自然と笑顔を浮かべた。それからくすくすと彼をからかうように笑い、こてんと首を傾げる。



「ほんにかえ?」


「ああ」



 頷き、政嘉は花曄の耳に唇を寄せる。



「お前に、会いに」



 その囁きは、彼女の耳元で。深い吐息と相俟って、甘い響きを彼女の心へ与える。そのわざとらしい仕草に花曄がまた笑えば、彼も楽しそうにくつくつと喉で笑った。






 花曄が新造出しを終えてから一年半が過ぎ、その頃にはすっかり花曄目当てで喜遊の座敷に上がる客も増えていた。一年半後に控えた花曄の突出しも安心だと喜遊が口にし始めたその頃、それまで政嘉の座敷に共に遊びに来ていた其一の姿がぴたりと途絶えた。


 真夏の、蝉時雨が止まない夜のこと。三味線を弾く花曄の視線の先で政嘉に酌をしながら喜遊が他愛のないことのように彼に問うた。



「今日も其一様はご一緒ではありんせんの?」


「……ああ、其一か」



 その日の座敷。政嘉はどこか憔悴した様子だった。今日は大門が閉まる前に帰ると告げた彼は随分と口数が少なく、三味線を鳴らしながら花曄は心が粟立って仕方がなかった。



「その件で、今日は来た」



 政嘉は懐から取り出したのは、白い文。それを喜遊へ差し出した。



「これを、喜遊に」


「わっちに?」


「其一からの文だ」



 そう告げた彼は喜遊の掌にその文を置く。



「このあとにでも読んでくれ」


「あい。分かりんした」



 そう言って微笑む喜遊は痛々しいほどに幸せそうで。政嘉は困ったように笑っていた。


 酒宴は滞りなく終わり、大門が閉まる前に花曄は喜遊と共に政嘉を大門まで送った。また来ておくんなんし、と声をかける喜遊に政嘉は、必ず、と声を返して酒で覚束ない足取りでふらりふらりと遊廓を去って行った。


 その夜中だった。声が溢れる岩亀楼の二階の部屋で其一からの文を開いていた喜遊の背が震えた。花曄は頬張っていた政嘉からの土産の饅頭を飲み込み、姉女郎の背を見遣った。



「姉さん?」


「……――死んだ」


「……え?」



 喜遊の声は蚊の飛ぶ音よりも小さく、細く、花曄の耳には上手く聞こえなかった。花曄は立ち上がり、姉女郎の傍に寄る。そこで行燈に照らされた彼女の頬に伝わる光を見た。一粒だけ零れた涙が、喜遊の頬を滑り落ちていく。



「其一さまは、死んだ」



 労咳によって死んだのだと、喜遊は震えた声で言った。声を上げることなく、嗚咽を殺して身体を震わした喜遊はその胸に其一からの文を抱き締めていた。深く皺を刻む文の、その最後の文章に書かれた、恋、の字に花曄は気付く。痛みに耐えるように睫毛を震わせる花曄の耳に消えそうなほど小さな、私も、の声が聞こえた気がした。






 其一の死に畳み掛けるようにして、喜遊に会いたいと言い出す異人が現れた。それに喜遊は首を左右に振り続けていた。


 喜遊は、羅紗面ではない。異人の相手をする、品のない女郎とは違う。そう怒りに震える花曄に喜遊は気持ちを荒げることなく、穏やかに微笑んでいた。


 一方でその苦悩が重なったのか、喜遊は日に日に目に見えて痩せ細っていった。湯に入った時に花曄が見た彼女の身体は骨一本一本がはっきりと見えるほど肋骨が浮き上がり、豊かだった胸は萎んでいた。肩は細く、足の付け根の骨は恐ろしいほどに尖って見えた。何かに誘われるように食欲を失う姉女郎。花曄は彼女を見ながら、恐怖と焦燥ばかりを覚えた。



 ――――気高かった彼女を殺したのは、一体何だ。



 そして、十一月末。その時期にしては珍しくはらりはらりと粉雪が降ったその日、喜遊は冷たく変わり果てた状態で発見された。彼女の喉から流れ出した鮮血は寝具を赤く染め、青い畳も黒く染めあげて、いつも彼女が漂わせていた梅の香も攫ってしまった。姉女郎の遺体が棺に納める為に、持ち上げられるのを花曄は嗚咽を堪えて見ていた。その時。ひらり、と喜遊の胸元から何かが落ちた。赤く染まったその白い紙を拾い上げ、花曄は気付く。



(其一、さま……?)



 いつか送られた其一からの文。白かったはずの紙には、喜遊の血で赤い花が咲いていた。



「姉さん、」



 待って、と続けようとして花曄は息を飲んだ。漸く見た、姉女郎の顔。そこには大層満足げな笑みが浮かんでいた。花曄はそれ以上何も言えず、ただ手の中の文を握り締める。



(姉さん)



 棺に入れられ、遠ざかる喜遊の亡骸。すすり泣く女達の声を聞きながら、花曄は目を伏せる。その瞼の裏に蘇る、喜遊の死に顔。


 その顔に浮かんだ笑顔は、何を意味していたのだろう。






 姉女郎のいなくなった新造は、違う女郎の許につく。喜遊が自害した数日後、梅雨葵(つゆあおい)という女郎が新しく花曄の姉女郎になった。梅雨葵は花曄の異色の双眸を気味悪がった。それが当たり前の反応だと花曄は諦観した。喜遊が珍しかったのだ。その目は武器になるのだと口にした、諭すような彼女の声を思い出しては花曄は泣き出したい気持ちになり、唇を噛み締めた。それでも花曄を気に入って喜遊から梅雨葵の客へと移る者もいたこともあり、花曄は梅雨葵に邪険にされることはなかった。だが、その客の中に政嘉の姿はなかった。其一の文を届けた日以来、花曄は政嘉の姿を見ていない。もしかしたら喜遊が死んだのを機に、彼は見世替えしたのかもしれない、と花曄は思った。彼が現れない日が重なっていくほどに、花曄の胸の中に落ちていく雫がある。それは冷たく寂しい音を伴って、冷えた彼女の心の底へ溜まっていく。そんな日々が、随分と過ぎた頃。


 花曄の突出しの日が、発表された。


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