【前編】
「……う……ん……六時半か……」
寝ぼけ眼で時計を見た英明は、再び時計を見て飛び起きた。
「……って六時半っ!? 遅刻じゃねぇか!」
英明は今日の朝六時から健二と海釣りの約束をしていたことを思い出し、部屋の片隅に雑然と置いてあった竿とルアーが入ったバッグを引っ掴むと、大慌てで玄関へと駆け出した。
外へ出ると、英明の目を覚ますかのように冷ややかな潮の香りが鼻先をくすぐる。
英明は玄関先に停めてあった自転車に跨ると、勢いよくペダルを踏み込んだ。
二十分程自転車を走らせて、二人の待ち合わせ場所であった港へ着くと、健二は既に港の突端に腰掛け海へと釣り糸を垂らしていた。健二の横には釣った魚を入れておくためのクーラーボックスまで置いてある。
「悪い悪い、目覚まし時計セットすんの忘れてたわ」
適当な所に自転車を停めた英明は、荷物を抱えながら健二のもとへと小走りに近づく。
「どーせそんなこったろうと思ったよ。五十六分遅刻だな」
健二は別段怒る様子もなく、やれやれといった顔で腕時計に視線を落とした。
英明もいそいそと釣り竿に疑似餌を取り付けると、海へと投げ入れる。
「あれ? そういやあ今日、美由紀は?」
英明は健二の隣に腰を下ろしながら聞いた。
「今日は、野球部が甲子園の地区予選大会なんだとさ」
「かぁー。マネージャーも大変だねぇ」
英明はキリキリと小気味良くリールを巻きながら、しみじみと言った。
英明と健二と美由紀の三人は、それぞれの家が近所にあるということもあり、幼稚園から高校に至るまでいつも一緒に遊んできた、いわゆる幼馴染であった。
「なんか今年はピッチャーの角田って奴が凄いらしいから、予選勝ち上がれるかもってクラスの奴がはしゃいでたな」
健二は抑揚も無くそう言った。健二の野球への興味の無さが英明にもありありと伝わる。
「へぇー。じゃあ今日はクラスの奴も応援とか行くのかな?」
「さぁな。まぁ、あっちの応援は美由紀に任せとこうぜ。どうせ三人分くらいの声量で応援するんだろうし」
そう言って健二がくくっと笑った。
「だな。そりゃ言えてるわ」
英明もメガホンを口元に当てて、必死に応援する美由紀の姿を想像して思わず噴き出しそうになる。
その後も二人は、ゆらゆらと水面で揺蕩うウキを見つめながら他愛も無い話をだらだらと話し、魚が食らいつくのを待ち続けた。
そして気がつけば、時刻はとうに八時を回っていた。
「なんか今日は調子悪いなぁ」
なかなか釣れる気配が感じられず、英明はぽつりとこぼした。するとそれに応えるように健二も口を開いた。
「そういえばさ、一昨日の金曜日に物理の横ちゃんが言ってた話……覚えてる?」
横ちゃんとは物理の教科を担当している横井先生のことである。
「んっ? 横ちゃん?」
いきなりの質問に英明は健二の顔を見た。健二は黙ってウキを見つめたままである。
「う〜ん、前って何の授業だっけ? molを使った計算がどうこうって話だっけ?」
「いや、授業の話じゃなくてさ、話が脱線した時に言ってた《シュレディンガーの猫》の話」
健二の言葉に英明は大きく頷いた。
「あぁー。何か毒ガスが発生する装置と一緒に箱に入れた猫は、箱を開けるまでは生きてるか死んでるかはわかんない……ってやつだったよな?」
「そうそう。まぁ、正しくは箱を開けるまでは、その中には生きてる猫と死んでる猫が重なった状態で存在してるとかいう理屈のやつ」
英明の言葉に健二が付け加えて説明する。
「なんじゃそりゃって話だったよな、あれ」
英明が呆れたように鼻で笑った。
「でもさ、捉え方によっては面白い話だと思わなかったか?」
健二の意外な言葉に英明は目を丸くした。
「えっ、どこがだよ?」
「要するにさ、箱を開ける前までは猫が生きてる未来と死んでる未来のふた通りの未来があるってことだろ?」
「まぁ……そういうことだな」
英明はぽりぽりと頬を掻きながら小さく頷いた。
健二はそんな英明の様子を見て、にやりと笑うと、ある提案をした。
「……なぁ、英明。ひとつ賭けでもしてみないか?」
健二の唐突な発言に英明は眉をひそめた。
「はぁ? なんだよ、いきなり」
英明が訳がわからないといった表情を浮かべる。
「簡単な賭けだよ。俺は英明より一時間早くここで釣りを始めました。さて、それでは俺の隣に置いてあるこのクーラーボックスの中には、果たして魚が入っているのでしょうか?」
そう言って健二は、いたずらっぽく笑うとクーラーボックスの蓋をぽんぽんと叩いた。英明も健二の言葉の意味を理解し、にやりと歯を見せて笑う。
「なーるほど、賭けの内容はわかった。それで、何を賭けるんだよ?」
すると健二は英明の目を見ると、一呼吸置いて答えた。
「負けた方は美由紀を諦める。それでどうだ」
英明は目を剥いた。しかし真っ直ぐに英明を見つめる健二の目は、決して冗談を言っている目ではないことは明らかだった。
「な、何言ってんだよお前。美由紀を諦めるって……そもそも何とも思ってねーよ」
そう言葉を返す英明だったが、その顔には明らかに動揺の色が浮かんでいた。
「隠すなよ。何年一緒に居ると思ってんだ」
健二は再び竿に目を向けると、茶化すように言った。
「……お前こそ、それでいいのかよ?」
英明は俯き加減に呟いた。
「あぁ。お互い変に気を遣いあったりするより、こういう決め方のほうが俺ららしくて良いだろ」
「まぁ……言われてみりゃそうだな」
健二の言葉に英明は至極納得といった様子で顔を上げた。
「で、答えは決まったか?」
健二は竿を小刻みに動かしながら、ゆっくりとリールを巻いていく。
「……あぁ、決まった」
英明は大きく深呼吸すると、意を決したように口を開いた。
「そのクーラーボックスには魚が入ってる」
英明の言葉に健二はそうかと小さく呟いた。
二人の間に一瞬の静寂が訪れる。
寄せる波がテトラポッドに打ち消される音──
遠くで聞こえるウミネコの鳴き声──
そうした今まで気にも留めていなかったような色々な音が、英明にはやけに大きく聞こえた。
「それじゃあクーラーボックスに『魚が入っていればお前の勝ち』、『空っぽなら俺の勝ち』それでいいな?」
健二は咳払いをしてそう言葉をまとめると英明はこくりと頷いた。そして、それを見た健二はくくっと小さく笑った。
「なんだよ?! ハズレなのか?」
突然笑い出した健二に、英明はむっとした顔をする。
「いや、そうじゃなくてさ。さっき話しただろ? シュレディンガーの猫の話。今まさに同じ状況だなって思ってよ」
健二はリールを巻き終わると、竿を持って立ち上がった。
「……あぁ、確かにそうだな。つまりさっきの言葉を借りれば、このクーラーボックスの中には俺が美由紀を諦める未来と、健二が諦める未来とふたつの未来が詰まってるって訳か……だろ?」
英明の言葉に健二は無言で頷いた。
しかし、そう考えてみると英明は急に不思議な気持ちになった。確かに自分が諦める未来は見たくはない。だが、それが健二にとって明るい未来になるならそれも悪くないなと思ったのだ。
英明はもう一度、健二を見た。健二はどこか憂いのある笑みを浮かべている。既に答えを知っている健二は一体、今何を思っているのだろうか。英明には健二の表情からそれを計り知ることは出来なかった。
そして、英明はゴクリと生唾を飲み込むと、ゆっくりとクーラーボックスの蓋に手をかけた──