3.First☆Impression
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俺は大津垣・龍之辰。言わずと知れたシャイボーイだ。
今日も俺は社交界に君臨する紳士たるべく大人の階段を三段トバシで駆け上る。
先にも述べたが、俺と彼女、久住・仄美嬢との社会的身分は生来かなり近い位置にあり続けていた。
生まれた病院すら同じなのである。
しかしながら不肖この大津垣・龍之辰、彼女の恋したのはつい先日であった。
人生において何度目かも知れず、特に視力にも不自由しておらず人間関係にも不都合はない(というかそもそも人間関係がない)ためにとりたてて関心もなく流されるままにくじを引きはめ込まれた席替え後の初めの授業、その席において俺は不覚にも消しゴムをオッコトシテしまったのだった。
勿論平時の俺ならば落下した消しゴムが床を鳴らすよりも素早く反応し陸に揚げられた鰯の如くびちびちと床を跳ね回ってオッコチやがったニックキ消しゴムを回収するところだったのだが、あろうことかそのときの俺は消しゴムが落下したことに気付かなかった。
全くもって一生の不覚であった。
しかし今度ばかりは天恵と言ってもよかったのかも知れない。
持ち主によく似て卑小にマルマッチイ消しゴムはころころといずことも知れず転がっていった。
その、持ち主によく似て暗がりを好むシャイな消しゴムを、通路を一つ挟んだ隣の席の彼女が、さらに通路の反対側までわざわざ席を離れて取りに行ってくれたのだった。
不意に彼女が隣で席を外し、向こう側へ低姿勢で行ったのは視界の隅に確認していたものの、すかぽんたんな俺は取り立てて何らかの感想もなく景色の一つとして処理していた。
ところが、だ。
席に戻ってきた彼女がそのまま、ばっちい字でばっちく埋め尽くされた己がばっちいノートを見下ろしていたばっちい俺のばっちい肩を軽く控えめに叩いたのだ。
根っからシャイボーイな俺は不意の出来事であったことと相手が異性だったことで内臓の全てを口から吐き散らかさんばかりに驚きおののきおっかなびっくり彼女の方を向くと、彼女は淡い微笑みを浮かべながらその新雪の如く白き柔らかな掌に俺の情けない消しゴムを載せ差し出しながら、こう言ってくれたのだ。「大津垣君、消しゴム落としたよ」、と。
「消しゴム落としたよ」!!
クラスメートが俺の名前を覚えていたという驚愕の真実、それも異性が俺の名前を知っていたという仰天の事実に、俺は頭髪が一斉にストライキを起こさんばかりのおののきを覚えながら、必死でトチ狂ったかのように頭を下げまくった。
消しゴムを落とすたびに俺がまるでこの世の終わりのように大慌てで拾いにいくのは、俺があまりにシャイであるために拾ってもらった際にお礼を言うこともできないためである。だが今回ばかりは死んでも言わねばならないと思った。ところがいつもの如く礼などそう簡単に口から迸るものでなく、かといって礼を言わねばならんという俺のアルミ缶よりも固い決意によって現れたトランス状態と見紛うばかりの頭下げにも彼女は全く気を悪くした風もなく、大慌てで恐る恐る受け取った俺に対しもう一度にこっと微笑むと自身の席に戻った。
時間にしてみれば、ほんの一瞬のことであっただろう。
だが今までの人生の中で最も長い時間だった。
その後の授業およそ三十二分間は全く頭に入らなかった。
全く奇跡体験である。
もう死んでもいいとすら思った。
経過した年月だけを見れば長い接点にはなるけれども、実は実際に意志疎通を交わしたのはこれが初めてであった。
勿論俺は彼女の顔も名前も知っていた。遠くから、綺麗な人だなあ程度の思いで眺めてはいた。
だがまさか彼女が俺の名前を、教室の隅に吹き溜まる埃よりも存在感の薄い俺の名前を知っていたとは全く思っていなかった。
偶々金を下ろしに訪れた銀行で銀行強盗に襲撃されるなどとは思わない程度に思っていなかった。
しかしその一瞬で、俺の世界は急変する。
彼女のためなら死ねる。
世界と彼女なら彼女を救う。世界などいらん。
世界全人類『平凡』代表にして対抗馬なしの不戦勝王者の俺が。
高嶺の花、
聖画の中の天使、
美の女神に、
その細く美しい指先に、
その淡く麗しい微笑みに、
心を、いや、
魂を奪われた。
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