聖女「女神様からスキルを与えられたわ!」メイド「それで、そのスキルの『使い道』は?」
礼拝堂での祈りを終えた瞬間、女神様の声が頭の中に降ってきた。
週に一度だけ授けてくださる、私だけの特別な贈り物だ。
私は聖衣の裾をつまんだまま渡り廊下を駆け抜け、教会の隣にある館の居間へ、扉を肩で押し開けて飛び込んだ。
胸が弾んで、息よりも先に言葉があふれてきそうになる。
この館で暮らしているのは、聖女である私ことフィオナと、身の回りの世話を一手に引き受けてくれるメイドのロッテの二人だけだ。
明るくて手際がよくて、ほんの少し口の悪い、頼りになる同居人である。
そのロッテは朝食の皿を並べる手を止めないまま、にっこりとこちらへ笑いかけた。
私の席の前には、湯気の立つお茶がもう注がれている。
渡り廊下を駆ける足音を聞きつけて、先に用意してくれたらしい。
「おはようございます、聖女様。扉の蝶番に恨みでもおありなんですかぁ?あんまり叩きつけると、そのうち外れて飛んでいきますよ」
「ロッテ、聞いて!女神様からスキルを与えられたわ!」
「それはそれは、おめでとうございます。それで、そのスキルの『使い道』は?お茶が冷めてしまいますから、座ってお聞かせくださいね」
私は椅子に腰を下ろし、カップを両手で包んで、とっておきの話を切り出す時の顔を作った。
ロッテはいつも笑顔のまま耳を私に預けてくれるから、話し甲斐があるのだ。
「相手の直前の三秒間の記憶を忘れさせる力よ。つまり、あなたが毎朝私に浴びせる毒をなかったことにできるの」
「三秒ですかぁ。ずいぶん控えめなお力ですねぇ。それと毒舌だなんて人聞きの悪い。あたしはただ、聖女様のためを思って、本当のことを少し元気に申し上げているだけですよ?」
「それが痛すぎるのよ!毎朝毎朝、寝ぼけた頭に言葉の針が刺さって、一気に目が覚めるんだから」
「あらあら、目覚ましの効能つきとは、お得な朝のご挨拶でしたねぇ。では、そのスキルのお力をさっそく拝見しましょうか」
ロッテは口元に手を添えて笑ってから、私の頭のてっぺんをまっすぐに見つめた。
その視線が、ほんのわずかに上へ滑った。
「ところで聖女様、今朝の寝ぐせは、寝ぐせというより小鳥の巣ですねぇ。卵が埋まっていそうでお世話のしがいがありますよ」
「なっ……発動!いまのを忘れなさい!」
私は叫びながら、ロッテへ向けて両手を突き出した。
指先がじんと熱くなり、見えない何かが空気を渡っていく感触が走る。
次の瞬間、ロッテの目がぱちりと瞬き、口元の笑みが途中で止まった。
首がかくんと傾いて、眉の端がぴくりと動く。
「……あら?あたし、いま何か言いましたっけ?聖女様が急に、朝食へ向かって叫ばれたようにしか見えませんでしたけど」
「効いたのね!効いたんでしょう!」
胸の奥から勝利の熱がせり上がり、私は拳を握って小さく跳ねた。
ロッテはあの憎らしい一言を本当に忘れてしまったのだと思うと、笑いが止まらなくなる。
ところがロッテは、そこで口角をにんまりと持ち上げた。
「なんてね。ふふん、ぜんぶ覚えていますよ。聖女様が叫ばれたのは、あたしが言い終えてから四秒後でしたから、お声がけが遅くてスキルが届かなかったんじゃありませんか?」
「そんなはずないわ。確かにすぐ叫んだもの。それにさっきは、きょとんとしていたじゃない!」
「ちょっとお芝居をしてみました。それとも本当に忘れていたと思いました?どちらでしょうねぇ」
私は口を開けたまま固まってしまった。
本当に忘れていたのか、忘れたふりなのか、ロッテの笑顔からは何ひとつ読み取れない。
直前の三秒を消す力は、消えたかどうかを他人が確かめる手段を残してくれないのだ。
女神様はどうしてこんなに検証しづらい力をお選びになったのだろう。
それでも、女神様が意味のないものをお授けになるはずがない。
私は両手で頬をぱちんと叩いて、まだ見つかっていない使い道を探してみることにした。
「もう一度やらせて。今度はもっと早く叫ぶから、ロッテはちゃんと時間を計ってちょうだい」
「かしこまりました。じゃーん、こちらをご覧ください」
ロッテがエプロンのポケットから、銀色の懐中時計をするりと取り出した。
手のひらに乗った小さな時計の針が、かちかちと軽い音を立てて進んでいる。
「聖女様がそう仰ると思って特別サービスで用意しておきました。あたしが何か言い終えたら、すぐにスキルをお使いくださいね。秒数は、あたしが数えますので」
「準備がよすぎるわ。まあいいから、始めてちょうだい」
「では参ります。聖女様、そのお茶、少しこぼれていますよ」
私は慌ててカップを見下ろし、受け皿にたまった茶色い水たまりを確かめてから、はっとして顔を上げた。
急いで息を吸い込み、両手を前へ突き出す。
「発動!いまのを忘れなさい!」
「はい、そこまで。言い終えてから六秒です。茶碗を見下ろすのに三秒、息を吸うのに二秒、叫び始めるのに一秒ですねぇ」
「そんなにかかってないわよ!せいぜい、さっきと同じ四秒くらいでしょう?」
「かかっていますよ?では次です。聖女様、お口の端にパンくずがついていますよ」
今度は視線をそらさず、ロッテの顔を見つめたまま口を開いた。
口元を拭う余裕なんて、最初から残しておくつもりはない。
「発動!いまのを忘れなさい!」
「五秒でした。惜しいですねぇ。『発動!』のあとに『いまのを忘れなさい!』と続ける時間がもったいないんですよ。そこは『忘れて!』だけで十分じゃありませんか?」
「だめよ。祈りの言葉は、省かずに唱えるのが聖女の作法なの」
「その作法を守っている間に、あたしの記憶のほうが先に三秒を通り過ぎちゃいますよ。あたしと競争なさるなら、もう少し身軽におなりくださーい」
悔しいけれど、言い返す言葉が見つからなかった。
ロッテの指摘はいつも的確で意地悪な顔をしている時ほど、あとから助けになるのが腹立たしくて少しだけありがたい。
「それはそうと、聖女様。目の下にうっすら影がありますよ。昨夜も遅くまで、祈りの文句を唱えていらしたでしょう?」
「どうして知っているの?部屋の扉は、ちゃんと閉めていたのに」
「廊下の床板が、ときどき鳴りますからねぇ。お茶を飲んで一息ついてからスキルの続きをなさってください。あたしは逃げませんよ」
「いいわ。それなら自分にかけて確かめる。忘れた感覚があれば、効き目の証明になるもの」
「承知しました。あたしはここで見守っていますから、どうぞご存分に。時計はお預かりしますねぇ」
自分の記憶が消えると思うと、指先がほんの少し冷たくなる。
それでも女神様を信じて授かった力なのだから、ここで逃げるわけにはいかない。
私は居間の真ん中に立って背筋を伸ばし、静かに目を閉じた。
そこまでは、はっきり覚えている。
気がつくと、私は同じ場所に立っていた。
額に指を当てたまま、どうしてこんな格好をしているのか見当もつかない。
「あれ?私、何をしていたのかしら」
「お疲れさまでした、聖女様。ご自分にスキルをお使いになって直前の記憶が飛んでしまったご様子ですよ。ちなみに……」
ロッテが胸の前でぽんと手を合わせた。
声がやけに弾んでいて、目の端が弓なりに細くなっている。
「その三秒の間に、聖女様はあたしのお給金を倍にしてくださると仰いました。ありがとうございます。たいへんな太っ腹で感激しましたよ」
「私が?そんなこと言うはずが……」
言い返しかけて、口が止まった。
ロッテの働きが過分なほど素晴らしいのは事実だし、感謝を伝えたくなる日は確かにある。
感情が高ぶった勢いで、そんな約束を口にしてしまった可能性は否定できない。
目を閉じていた間の私は、本当は何を考えていたのだろう。
胸の奥を探っても、消えた三秒は穴のように静まり返っていて、何ひとつ返してくれない。
その空白の中で、ロッテにありがとうと言っている自分を想像すると、頬がじわりと熱くなった。
「では、こちらにご署名をお願いしますねぇ」
ロッテがエプロンの別のポケットから、紙とペンを取り出した。
紙の一番上には、すでに「給与倍額のお約束」と丁寧な字で書かれている。
私はそれをじっくり眺めてから、ゆっくり顔を上げた。
「ロッテ。どうして最初から、この紙を持っているの」
「メイドは先回りが基本ですからねぇ。聖女様がお約束なさる日をあたしはいつでもお待ちしていますよ」
「私が約束するずっと前から用意していたでしょう!」
「おや、お気づきになりました?さすがは聖女様、洞察のお力までお授かりのようですねぇ」
褒められているはずなのに、ちっともうれしくない。
私は紙を丸めてロッテの胸に押し返し、頬をふくらませた。
「あなたの毒舌、さっきより増えてない?」
「毒舌じゃありませんよ。耳の痛いことを言ったあとは、甘いものがおいしくなるでしょう?お口直しの準備みたいなものです」
唇を尖らせて黙り込んでいると、ロッテは何も言わずに、私の皿へ焼きたてのパンを一切れ乗せてくれた。
昨夜遅くまで祈っていた私が、朝からほとんど何も口にしていないことまで、この人はお見通しなのだ。
「それでは、スキル評価を発表します。心の準備はよろしいですか?」
ロッテが取り出した細長い札には、横一列に十個の星が並んでいた。
いつの間にこんな物を用意したのだろうか。
いちばん端の星だけが、半分ほど黒く塗られている。
「十段階評価で、星0.5です。星が1の最低採点ですから、それを下回る特例ですねぇ。ちなみに星10は、世界が一夜で救われるほどのご利益に限らせていただいております」
「半分もあるの?……待って、最低の星1にも届いていないってことじゃない!それなのに半分なんて言われても、うれしいような悲しいような気分だわ」
「ですから特例なんですよ。それでも半分あります。内訳は、スキルの実用性がゼロ、聖女様が四秒後にお声がけくださった遅れの愛らしさが0.3、あたしの懐中時計に出番をくださった点が0.2です」
「じゃあ、ほめられたと思っておくわ。次はもっと早く叫んで、星をひとつ増やしてみせるんだから」
「前向きでいらっしゃいますねぇ。そこは満点ですよ」
褒め言葉に棘が残っているのは気になったけれど、ロッテの笑顔がほんの少しだけ柔らかく見えて、私は上機嫌になった。
星0.5という評価も、受け取り方ひとつで満点への最初の一歩に思えてくる。
私は居間の隅にある姿見の前に立った。
映っているのは、聖衣の襟を乱した聖女と、頭のてっぺんでぴょこんと跳ねる一房の髪だった。
小鳥の巣というほどではないにしても、ささやかな巣の土台くらいには見える。
指先でそっと押さえてみたけれど、一房は手のひらの下から、元気よく起き上がってきた。
頭の上の小さな巣は、どうやら私の信仰よりもずっと粘り強いらしい。
「……ロッテ。この寝ぐせ、いつから?」
「さあ、あたしは何も覚えていませんけど?」
背後で、ロッテが朝食の皿をまたひとつ丁寧に並べ直した。
「ただ、そのあたりに小鳥が住みつくのは、時間の問題じゃありませんか?卵を温める支度は、あたしがしておきますから安心して孵してくださいね」
「覚えてるじゃない!」
聖女さまとメイドが好き。




