夫婦の間
俺たち夫婦は、犬のことしか話さなかった。
正確には、犬に向かって話すことで、互いに用件を伝えていた。
「水、あまり飲んでないんじゃない?」
妻が犬の背中にそう言えば、俺が水の器を替えた。
「薬、あと二日分だぞ」
俺が犬の耳元に言えば、翌日には妻が病院へ電話していた。
直接話すこともあった。
「薬、飲ませた?」
「まだ」
「じゃあ、夕飯に混ぜて」
それで会話は終わった。
餌がなくなりそうだとか、便が出ていないとか、来週は病院だとか。犬についてなら、何かしら伝えることがあった。犬以外については、特に伝えることがなかった。
以前は、散歩のたびにもう少し会話があった。朝は俺が連れていき、夜は妻が行った。今日はよく歩いたとか、途中で誰に会ったとか、雨が降りそうだから早めに行った方がいいとか、そんな報告をすることがあった。
犬が散歩に出なくなってから、それもなくなった。
子供はいない。二人で出かけることも、同じ番組を見ることも、もうほとんどなかった。食事はそれぞれ勝手な時間に済ませた。寝室も数年前に分けた。同じ家で暮らしていても、一日のうちに相手の顔をまともに見ることはなかった。
それでも、犬の世話には二人分の手が必要だった。
犬は十五歳だった。若いころは廊下を何度も往復し、ソファから飛び降りては妻に叱られていた。今では立ち上がるまでにも時間がかかった。
散歩へ連れ出しても、玄関を出たところで動かなくなった。しばらくは抱いて外へ連れ出していたが、それも、そのうちやめた。
病院へ連れていくのは妻で、錠剤を細かく割って餌に混ぜるのは俺だった。水を替えるのは気づいた方がやり、夜中に犬が起きれば、どちらかが様子を見に行った。
どちらかが決めたわけではない。長く暮らすうちに、いつの間にかそうなっていた。
その日も、犬はリビングの敷物の上で眠っていた。
妻はソファの端に座り、俺は少し離れた椅子にいた。
昼過ぎ、テレビが突然、いつもの番組を中断した。妻がリモコンでチャンネルを変えたが、どの局にも同じ映像が流れていた。
画面には、胸に名札をつけた宇宙人が映っていた。
宇宙人は、地球上の全員に、病気も老いも死もない場所へ通じる扉を一枚ずつ用意すると告げた。そこでは誰もが幸福に暮らせるらしい。
宇宙人の説明が終わる前に、リビングに二枚の扉が現れた。一枚は妻のすぐそばに、もう一枚は俺の椅子の後ろにあった。
どちらが自分のものなのかは、見ただけで分かった。
妻が先に口を開いた。
「犬は、どうする?」
「連れて行くに決まってる」
「どっちが?」
俺は妻を見た。
妻は自分の扉を見ていた。
楽園で暮らす妻の隣に、俺はいないのだと思った。
考えてみれば、当然だった。何の不自由もない場所で、嫌いな相手と夫婦を続ける理由はない。離婚届も、家の名義も、世間体も関係なくなる。扉を一枚くぐるだけで、俺たちは別々になれる。
俺も妻を嫌っていた。
声を聞くだけで腹が立つ日もあった。物の置き方や、戸棚の閉め方や、わざと聞こえるようにつくため息まで気に障った。妻の方も同じだったと思う。
それなのに、胸の奥が少し冷えた。
俺はなぜか、楽園へ行っても三人でいるものだと思っていたらしい。
寝室は別でも、食事の時間が違っても、俺たちは同じ家に帰ってきた。犬の体調が悪ければ、どちらからともなくリビングへ集まった。夜中に犬が吐けば、妻が体を支え、俺が床を拭いた。翌朝には、また口を利かなくなったが、その晩だけは同じ犬を挟んで起きていた。
夫婦をつないでいたものは、もう犬しかなかった。
「餌、やった?」
「水、替えたか」
「薬、半分に割って」
「今日はまだ便が出てない」
俺たちは何年も、犬を間に置いて話してきた。犬の世話を分けることで、一緒に暮らす理由まで分け合っていた。
その犬を、どちらか一方が連れていけば、残るものは何もない。
楽園は目の前にあった。
最後の最後に、犬の取り合いで喧嘩をするのも馬鹿らしかった。
「犬に選ばせよう」
自分でも驚くほど、さっぱりした声が出た。
俺は椅子から立ち、妻とは反対側の端に腰を下ろした。妻はしばらく俺を見たあと、敷物へ目を向けた。俺もそちらを見た。
名前は呼ばなかった。呼べば、呼び方の強さや順番で揉めそうな気がした。
犬は眠ったままだった。
しばらくして顔を上げ、俺たちを交互に見た。二人から注目されるのが嬉しいのか、尻尾で敷物を一度だけ叩いた。
前脚を伸ばし、時間をかけて立ち上がった。爪が床に当たる音をさせながら、こちらへ歩いてきた。
俺たちの前で止まり、ソファを見上げた。
自分では、もう上がれない。
俺はいつものように腹の下に手を入れ、尻を支えて持ち上げてやった。
犬はソファに上がると、俺と妻の間に座った。
どちらにも寄らず、しばらく正面を向いていた。
やがて体の向きを変え、妻の膝へ前脚をかけた。妻が少し足を開くと、犬はそこへ体を預けた。
妻は犬の背中を撫でた。
これで終わりだと思った。
悲しくはあったが、仕方がない。犬が選んだのなら、俺が文句を言うことではなかった。
妻は犬の耳の後ろへ指を移して言った。
「私はこの子を抱いていくから、餌とお薬は、あなたが持ってきて」
俺は妻の顔を、久しぶりにまじまじと見た。
楽園の扉が開いた世界を、もっとヘンテコな角度から
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