百十八、井草保
鷹丸は十番隊の井草保が一人でいるのを見つけて近づいた。この人物は死という現象であり、姿はない。十番隊の隊士たちや鷹丸のように、死に関する異相体を宿していなければ認識することはできない。それ以外の者は、突然死した亡骸を見て、間接的に察するしかない。
通常、死というのは大量の血痕や亡骸、葬式会場や訃報を見て、間接的に察するしかない、と井草が言った――声を出して会話したのではなかった。言葉の通り、死というのは間接的なものだ。例えば眼前に、切創を受けた真新しい死体が倒れていれば襲撃者を警戒するし、傷一つない亡骸なら毒物や呪詛、病死を疑う。恐ろしい怪物や災害を目の当たりにすれば、自らの死を予感する。その、何かから間接的に感じるような死に関連するイメージを何十倍にも強くしたような、もっと複雑で具体的な形で鷹丸の脳裏に浮かぶ。そうした陰鬱な情報の伝播が、井草との会話であった。
多くの人々は死が恐ろしいだろうが、自分が死そのものっていうのもかなり座りが悪くて落ち着かない。呼ばれていないパーティにいるような、休み時間に仲良くないクラスメイトが自分の席に座っているような、寄る辺の無さを感じる。八海は死にそうな病人に「魂の安楽を与える」とか言って執拗に勧誘するけど、死そのものに対しても手を差し伸べるべきだ。そのような発言が伝わって来た。本気で苦しんでいるのではなく、悪い冗談のようなニュアンスだが、実感が籠っていないというわけではなかった。
井草はある時点で体が「死」と化したのか、それとも生まれつきなのか、鷹丸は尋ねた。
なかなか立ち入った質問だが、答えよう。自分は十二歳までは死じゃなかったけど、ある時いきなりそうなった。最初に死なせたのは妹で、目の前でぶっ倒れたからどうしたのかと驚いたが、自分が人間ではなく死だってことに気づいてもっと驚いた。今は慣れたからあまり大きい生き物は死なせることがないように抑えている。
一方で生まれつき「死」だっていう人も大昔からたまにいて、例えば出産の際にそうなって母親と周囲の産婆とか医者とかが全員死んで赤子が行方不明、っていう事件が発生してる。あるいは生まれる前に胎児が「死」になって母親が突然死したり、場合によっては一家全員とか近所の人まで大量死することもある。
自分は十二歳までの経験があるから、ある程度人間としての感覚は身に付けているけど、生まれつき「死」だっていう人は割とそれがなくて、破壊されることが結構ある。そうならなかったのは幸福なことだ。
そういった話をして、井草とは別れた。小さな羽虫の死骸が、足跡のように去った方角を示している。




