70. 巻き戻り二回目
巻き戻り二回目。午前七時二十二分。
予想通り、マットレスに横たわっている。備吾は眼をゆっくりと開けて、そのまま思考を巡らせた。
巻き戻る前と同じ時間に並んでも、おそらく意味がないだろう。特に内容のある会話するでもなく、立って時間がただ過ぎ去っていくだけだった。
もしかしたら、並んではいけないのかもしれない。ラーメン屋に行かずにこのところ不調だという店長に会ってみるべきだ。そうなると開店前はいつになるか分からない。昼の客が居なくなった頃なら、店長も一度くらい外に出て来るだろう。
そうなると、怜雄と一緒には行けない。ラーメン屋に来ておいて、ラーメンを食べようとしないなんて説明が面倒だからだ。
申し訳ないが、断るの一択だ。また後日、食事には行くことにしよう。
約二時間後、怜雄がやって来た。仁良が入って来たところで、備吾も部屋から出て来る。ただし、まだ寝巻姿だ。
「ああ、怜雄。来てもらったところすまないが、今日は予定が急に入った。昼飯はまた今度でもいいか?」
「そうなんですか? 僕は構いませんけれど」
軽く断り、軽く了承された。そう思ったが、怜雄の顔を見ると、いつにもなく目尻も下がって落ち込んでいる。そんなに昼食を楽しみにしていたとは知らなかった。よく考えたら、昼食を食べる約束をしたなら十二時の少し前に来そうなものだ。楽しみで早く来すぎたのだろう。
「仁良。駅前のラーメン屋、そこ美味いから怜雄と一緒に行ってくれないか。金なら出すし」
「いいけど。備吾が一緒に行こうとしていたんじゃないのか?」
「いや。また別の店に連れて行くから。ちょっと金を取って来る」
備吾は部屋に戻って財布から千円札を二枚取り出した。リビングに戻って、仁良に渡そうとする。その前に、ふと考えが浮かんだ。
「ちょうどいい。二人、ラーメン屋に行くならそこの店で変わったことがないか見てきてくれないか」
「変わったこと?」
「ラーメンのお店で変わったことなんてあるんですか?」
仁良と怜雄は揃って、備吾の意図が分からないと言った様子だ。
当然だ。これまでラーメンが好きだとか、こだわりがあるだなんて言ったこともない。特別好きでもないし、こだわりはニンニクが入っていないことぐらいだ。
「なんでも最近、我竜堂の店主が不調らしい」
備吾は話しながら、仁良に金を渡す。
「店内の様子もだが、店主を注意深く見て来てくれないか」
仁良は金を受け取ってズボンのポケットに入れる。
「そうか。よほど店主さんが心配なんだな。よく話すのか?」
「いや。店主は寡黙だし調理場から出ないから、ひと言も話したことがない。ただ、あのラーメン屋は俺が食えないものが入っていないんだ」
「備吾さんが食べられないもの? ラーメン屋で……小麦粉アレルギーではないですよね。何だろう」
怜雄が真剣に考えている。備吾は嘆息した。
「大したもんじゃねえ。いいから、頼むな」
そのまま、返事も聞かずに部屋に戻っていく。昼の混雑する時間が終わるまで、もうひと寝入りすることにした。
三時間後。午後一時二十七分。
雑居ビルの住居スペースに二人が戻ってきた。リビングで読書をしていた備吾。仁良と怜雄は、冷蔵庫から麦茶を取り出し、ダイニングのテーブルにつきくつろぎ始める。
「俺も久しぶりに食べたけれど、美味しかったな。怜雄くん」
「はい。ごちそうさまでした、備吾さん」
「そうかよ。それで、食った分の働きはしてくれるだろうな」
備吾は自分の前にも置かれた麦茶を手にする。仁良と怜雄は互いに顔を合わせた。
「ラーメン屋で変わったことなんてあったか? 怜雄くん」
「いえ、普通に注文したラーメンを出されて、食事して……。たぶん店を出るまで二十分ぐらいでした。列には結構並びましたけれど」
「確か、三十分ぐらい待ったかな。でも、待った甲斐がある美味しさだったよな」
「はい。あ……でも」
怜雄が何かを思い出したように、つぶやく。
「なんだ。何でもいいから話してくれ」
「たぶん厨房でラーメンを作っていた人が店主の人だと思うんですけど。手の甲に大きな絆創膏をしているのが見えたんです。怪我をしたのかなって。普段からかもしれないですけど、厳しい顔をしていたので、もしかしたら最近怪我をしたのかもしれません」
「そうか……! いい情報が聞けた。ラーメンを奢った甲斐があった」
「はあ……。それならいいですけれど」
備吾は時計を見て、そろそろかと席を立つ。
「出かけるのか?」
「ああ。今度こそ、ラーメンを食べに行ってくる」
備吾の言葉に何を言っているんだと、仁良は首をかしげる。しかし、怜雄はポツリとこぼした。
「なんだか、時間が巻き戻っているような言い方だな……」
怜雄の勘が働いていることも知らず、備吾はラーメン屋の前にまでやって来た。
時刻は一時より十分ほど前だ。裏口に回ると、換気扇からラーメン屋特有の鼻をつく匂いがする。
ここに居ては、今夜は一晩中鼻の奥が匂ってしょうがないだろう。通りの奥の方へと向かう。風上なのでいくらかましであるし、昼間でも闇が濃く落ち着く場所だ。背を壁にもたれかかる。野良猫が来たが、備吾の目を見た途端怯えて引き返していった。
二時を少し回った頃。裏口のドアが開く。頭に赤いタオルを巻いている黒いTシャツの初老の男だ。怜雄の言う通り、手の甲に大きな絆創膏を付けていた。前に来たときも見た気がする。俯いているようだが、何事かあったか間違いないだろう。
「なあ、あんた」
初老の男が振り返る。
「我竜堂の店主だろ。その怪我何があったんだ」
男は黙ったまま、備吾の顔をジッと見つめてきた。しばらく黙っていたと思っていたら、低い声で薄く開けた口から声が漏れ出て来る。
「あんたに、……関係あるのかい?」
関係はない。だが、おそらくその怪我の原因となる出来事を止めなければ巻き戻りは終わらないだろう。
「ある。俺はここのラーメンが気に入っている。ここが無くなったら困るんだ。何か問題が起きているようなことを聞くようになったから探っている」
「……そうかい。だが、大したことはないさ」
「怪我をしているのにか?」
備吾は腕を掴む。
「あ、あんたみたいな迷惑な客が来るだけだ。もう、いいだろ……」
腕を振り払って、店主はのしのしと歩いていく。
寡黙なだけにほとんど情報を引き出せなかった。だが、あの口ぶりだと手の甲の傷は、客につけられたものかもしれない。
「……腹減ったな」
思えば昼飯を食べていなかった。時刻は午後二時過ぎ。ちょうど、十数メートル先にはラーメン屋がある。行列は無くなっていた。
「そろそろ食わせてくれよ」
店内に一歩足を踏み入れる。やはり世界は反転した。




