66. 巻き戻り三回目 一日目 PM1:05~
午後一時五分。
富丘邸を出て、ぐるりと柵に沿って歩く。途中で白い壁に代わり、鶴の家の玄関が見えて来た。会話が聞こえて来る。
「今日はありがとうね、仁良ちゃん」
少ししわがれた鶴の声だ。どうやら仁良と三国巡査を見送っているようだ。
「いえいえ、何かあればすぐに連絡してください」
「自分がすぐに駆け付けますので!」
備吾は三人に自ら近づいていく。
「よお、依頼だったか」
「あれ? 備吾、こんな所で会うなんて奇遇だな」
時間を合わせたわけではないが、これで自然に鶴に会うことが出来る。
「ああ。実はこのすぐ裏に担当が同じ作家が越してきてな。それで、仁良たちは――」
何をしているんだと聞く前に、鶴があらあと可愛らしい声を上げた。鶴が備吾に小走りで近づいてきた。
「鶴さん?」
「ごめんなさいね。お顔をよく見せてくれる?」
「ああ。構わないよ」
備吾は前髪を少し避けて、屈んで見せた。すると、まあ!と鶴は再び声を上げる。
「やだわ! 亡くなった夫にそっくりだわ!」
「そうなのか。じゃあ、お鶴ちゃんって呼んでもいいかい?」
「嬉しいわ。夫もそう呼んでいたのよ。よく分かったわねぇ」
うっとりした顔をしている鶴。二人に事情を簡単に聞いて、備吾も何かあれば駆けつけることを約束する。
「またね、備吾ちゃん」
「ああ」
暑い中、鶴がいつまでも見ていそうなので、なるべく速足でその場を去った。
翌日の夜中。
居間でテレビを見ていた鶴はそろそろ戸締りをしようと立ち上がる。
しかし、数歩歩いたところで立ち止まった。
「あら? いつの間に戸を閉めたかしら。これがボケてきたということなのかしらね」
鶴は首を捻りながら、寝室へ布団を敷きに向かう。
その鶴の家の屋根では、備吾がしゃがみ込んで耳を澄ませていた。どうやら、鶴は何事もなく眠りにつきそうだ。
今夜は満月。富丘が荒れ狂う夜である。鶴に感づかれることなく、戸を閉め切ったのでよく眠れるだろう。
さて。向こうはどうだろうか。
富丘邸の方へと目を向ける。今回は備吾が家におもむいた。それで、何か富丘の心境に変化でもあっただろうか。
「ガアッ」
やはり唸り声と共にバリバリと紙を破る音が聞こえて来た。
「駄目か。……あいつ、苦手なんだよな」
夜は備吾の領分だというのに、跳ねのけられた苦い記憶がある。富丘邸の庭に降り立つが、すぐに影の中に潜った。こうすれば、いくら富丘が力強くとも手は出せない。
少し待つと庭に文庫本が飛んでくる。影から手を伸ばして手に入れた。
「これは」
近くで見ると、文庫本は見覚えがあるものだった。月をバックに男のシルエットが描かれている。富丘の映画化された本『月夜の待ち人』だ。
「こっちもか……」
もう一冊破られた本を手に取ってみると、それも同じ本だった。
つまり富丘は本を破っていると言っても、自分が書いた本を破いているのだ。そういえば、初めて会ったときに古本屋の場所を聞いてきた。もしかしたら、買い集めているのかもしれない。
どうやら、スランプの原因はこの作品にあるようだ。
しかし、映画化もされて内容も目の肥えた備吾が読んでも満足がいくものだった。それとも、もっと高みを目指せたとでも言いたいのだろうか。
完成しない作品は作品とは言えない。常々、完成するのかと疑問に思っていたガウディのサクラダファミリアでさえ、もうすぐ完成するらしい。
そんなことは、富丘も作家ならば重々承知のはずだ。
次の日から備吾は、富丘邸を毎日訪ねる。
表向きは、裏の家の老婦人が困っていることを口実とした。やはり脅迫文のことは言わずにおいた。犯人である可能性もまだある。
しかし、三日としない内に富丘が犯人である可能性を完全に排除した。備吾は本を破くことはあっても、その文章で脅迫文を作るとは思えなかったのだ。
「この本などオススメです。犯罪者の心理が分かりやすく書かれています」
「この本はご存じですか? デビュー作の方が有名ですが、こちらも造詣深いものになっていますよ」
まだ執筆歴の浅い備吾に様々な本を勧めてくれる。そのどれもが良い本だ。
そして、執念にも似た取り組みが書いた本にも表れていた。全く何が気に入らないか、さっぱり分からない。
しかし、一つだけ発見したことがある。富丘の作品が原作となった映画だ。
「あの。良ければあの映画をもう一度見ませんか?」
「……一度観たら十分だろ」
思わず反射的にそう答えた。富丘も二度は言わない。
もしかしたらと思った。
「もしかして、原作が食われたとでも思っているのか? 確かに出来はいい映画だったが、俺は小説よりも良いとは思わなかったな」
しかし、備吾の言葉に富丘は虚を突かれたような顔をしている。
「いえ、いえいえ。そんなことは思っていませんよ。もちろん、映画は映画、小説は小説でいいところがあります」
笑顔で答える富丘は本心で言っているようだ。
「ただ……」
「ただ?」
「いえ。何でもありません。大したことではないですから。そうそう。映画は一度観れば十分ですね。妙なことを言って申し訳ありません」
それきり、富丘は映画の話を持ち出すことはなかった。
けれど、映画を気にしていることは間違いない。備吾は家に帰ってから、配信サイトで映画をもう一度観たが富丘が何を気にしているかはサッパリ分からなかった。




