65. 巻き戻り三回目
巻き戻り三回目。
朝、マットレスの上で寝返りを打つ。リビングに仁良がいる気配がした。しかし、しばらく腕を枕にして考えを巡らせる。
分かったことは、鶴が眠れなくなる騒音の原因は富丘が夜中に本を破って暴れている音だ。ただ、本を使った脅迫文を作った犯人は富丘だろうか。
あれほど興奮した状態で繊細な作業が出来るとは思えない。切り取られた文字はハサミで綺麗に切られていた。それとも、脅迫文を作る作業に興奮はしないのだろうか。
とにかく、富丘のことをもっと知る必要があるだろう。
起き上がってリビングに行くと、仁良が電話をしている。相手は鶴だ。
しかし、今度は首を突っ込まないことにする
スマホで富丘に家に行っていいかとメッセージを送る。あまり待たずに了承する言葉と、地図が送られてきた。十時に行くと送って、ベーグルサンドを口にする。
約束の十時を少し過ぎた頃に、地図も見ずに富丘邸へと向かう。チャイムを鳴らすと、いつもの着流し姿の富丘が出て来た。
「いらっしゃいませ。まさか、備吾さんが訪ねてくれるとは思いませんでしたよ」
「そうだろうな」
リビングに通される。やはり、塵一つなく大人っぽい雰囲気の部屋だ。本棚も前に訪れたときと同じような並びをしていた。
「アイスコーヒーで構いませんか?」
「ああ」
備吾はソファに座る。その間に隣のキッチンで富丘は冷蔵庫を開けてパックの中身をグラスに注いでいた。さすがに豆を挽いて淹れるなどと仁良がやりそうなことはしない。
「お待たせしました」
グラスを置いて、富丘は備吾の前に座った。備吾はグラスに手を付ける。シロップの入っていないアイスコーヒーは苦い。しかし、シロップがあるなら元々出しているだろう。
これ以上、手を付けないことにした。
「そうそう。昨日はありがとうございました」
「昨日? 何かあったか?」
「もう忘れたんですか? 本を読んだ感想を送ってくださったじゃないですか」
「……ああ」
ポケットからスマホを取り出して、メッセージを確認する。確かに今日のメッセージの前に本の感想が送られていた。
何日も巻き戻ったとはいえ、最近読んだ本だから内容は覚えている。
「確か帰らない恋人を待つ女性の死を巡るミステリーだったな。駅でのシーンが印象的だった」
富丘はテレビの下の台からケースを取り出す。
「備吾さんがよろしければ映画も見てみませんか」
普段ならば小説でストーリーを知っているからいいと言うだろう。そもそも映画自体はそれほど見ない。だが、今は巻き戻り中だ。時間は惜しいが、いくらでもある。
何より富丘が勧めているのだ。何かヒントがあるかもしれない。
「いいだろう。何か気になるシーンがあれば言えよ」
「それは私のセリフではないでしょうか。再生させますね」
ディスクを入れると、制作会社のロゴがいくつか出てきて本編が始まる。
やはり小説のストーリーをなぞるものだ。想像していたよりも美男美女で、展開が早い。かと思えば、感情を揺さぶるようなシーンには時間を割いていた。
二時間と少しの時間で、エンドロールが流れる。
「……どうでしたか、備吾さん」
「どうって。俺は小説読んでいるようなやつだから、原作の方がいいと思ったさ。だけど、この映画ヒットしたんだろう」
「ええ。おかげで原作も売れました。他には映画にだけ感じるようなものは?」
面倒だなと思いつつ、何かないかと考える。
「まあ、若者には好かれる内容なんじゃないか。最終的には勧善懲悪って感じで。今風で自信を持っていいんじゃないか」
昔も今も良くは知らないが、よく出来ている。スランプになるとは言っていたが、その理由が備吾にはよく分からなかった。
「そうですか。いえ、妙なことを聞いてしまい、申し訳ございません」
「謝るほどのことじゃないだろ」
「いえいえ。お礼にお昼をごちそうします。と、言ってもお手伝いさんが作ってくれたものですけれど」
富丘は冷蔵庫に入っているタッパー入りのおかずを温め始めた。どうやら、一人暮らしとはいえ、随分楽な生活をしているようだ。人のことは言えないが、そう思った。
食事を終えると、他の部屋を案内してもらう。
「こちらが書斎です」
書斎を見せてもらい、しげしげと眺める。他の小説家の書斎など見たことがない。本棚に囲まれて、大きな机が置かれていた。年季の入った本は机の近くに並べられている。
しかし、これらの本も破こうとは思わないだろう。
富丘は机の引き出しを開ける。
「こちらいただいた万年筆ですが、パソコンで仕事をしているので使う機会はありませんね」
「まあ、俺もそうだな」
めっきり筆をとる機会も減った。昔は羽ペンさえ使っていたというのに。
「こちらが寝室で、こちらがトレーニングルームです」
「トレーニングルーム?」
寝室はどうでもいいが、トレーニングルームという言葉に引っかかった。中に入ると、たくさんのトレーニングマシンが並んでいる。
ランニングマシンはもちろん、バーベルにダンベル、腕を鍛えるものまで。つまり、あの力強さはここで鍛えられたものだったのだ。
備吾は眉を片方上げて富丘を見る。
「こんなに必要か?」
健康維持のためだろうと、精々ランニングマシンで事足りるだろう。
「いえいえ。作家たるもの不健康では健全な文章は書けません。それどころか、鍛えれば鍛えるほど筆力も上がるというもの。備吾さんも若いからと油断してはなりません。どうですか、ここでひと汗流しませんか?」
「まさか」
さっさとトレーニングルームを出ていく。家の中も見たので、帰ることにする。
「じゃあな」
「ええ。今日は楽しい時間をありがとうございました」
富丘は丸眼鏡の奥の眼を細めて、柔和に笑っている。とても本を破って暴れている人物には見えない。
「なあ。何か悩みがあれば相談しろよ」
備吾が柄にもなくそう言うと、富丘はキョトンとした顔をする。
「もしかして、スランプのことを気にしてくれていますか。備吾さんが気にする必要はありませんし、作家なら誰しも起こることです」
「……そうか。ならいい」
納得はするが、富丘の笑顔は張り付いたようなものに見えたことは間違いないだろう。




