45. 巻き戻り一回目
揺れる車内の中、バスジャック犯は銃を構えてナイフを片手に歩いて来る。向かったのは後ろのドアの近くに座っている女性の元だ。
乗客は仁良と備吾の他にあと二人、ふっくらした男性が備吾たちからドアを挟んで一人席の場所に、細身の女性が備吾たちの斜め前に座っていた。
「お前」
銃を腰に差した。近くの棒に掴まり、ナイフを女性に突き付ける。
三十代後半に見える女性はヒッと悲鳴を上げ、顔をひきつらせた。長く茶色い髪を巻き、黄色いワンピースを着ている。彼女の頬に刃を当てる。のけぞるように彼女はナイフを見つめ、恐れた視線を確認したようにバスジャック犯は少し離す。
「名前を名乗れ」
「わ、私?」
「お前以外にいない」
女性はしばらく震えて黙っていたが、やがて口を開く。
「……私の名前は、熊坂実花」
「続けろ」
「し、仕事はアパレル販売で、服を売っています。今日、は、人も少ないだろうから、もう帰っていいと言われて、い、家、実家に帰るところ、です」
「その実家には何をしに」
「しょ、食事を届けに。この雨で出られないから買って来てと言われて、そのまま泊る予定です」
熊坂実花はブランド物のバッグとビニール袋が入っている。おそらく、ビニール袋の中に駅ビルで買った総菜でも入っているのだろう。
「親はどういう仕事をしている」
「し、仕事? えっと……」
どうやら、備吾に電話がかかって来て仁良は早めに解放されたようだ。バスジャック犯は熊坂実花にしつこく両親のことや交友関係などしつこく問いただしていた。
熊坂実花もナイフがあるので無下にも出来ず、大人しく答えている。
「……もういい。じゃあ、次は」
後ろの女性にナイフを突きつけようとしたときだ。
「行くぞッ!」
バスを運転しているバスジャック犯が突然声を上げた。すぐに銃を持っている方が駆けて近づく。安全運転していたバスがいきなり蛇行を始める。
「きゃああ!」
悲鳴が上がる。皆、しがみつけるところにしがみついた。
「くッ」
備吾は何をしているか、少しでも情報を得るために窓に張り付く。相変わらず大粒の雨が窓を叩き、景色がにじんでよく見えない。だが、確かな異変を感じた。振り回されているので、景色も揺れているのだが、どうやら街中ではない。
「ここは……」
茶色い川が一瞬見えた。増水し、濁流が流れている。
「まさか!」
立ち上がったが、遅かった。もうバスは目的地――増水した川の橋にたどり着いたのだ。
バスは大きくハンドルを右に切る。右の車線を突っ切って、柵へ思い切りぶつかった。バスは上下逆さまにひっくり返る。そのまま、落下していく。
「仕方ねぇ!」
備吾は影の中に全身入り、バスの乗客と元々の運転手を影の中に引き込む。そのまま、バスの後部ドアから出ていく。バスジャック犯たちの目的は間違いなく、無関係な客たちを巻き込んだ無理心中だった。
影の中だが、外に出た。にもかかわらず、備吾は再びバスに足を踏み入れている。バスの車内を見渡すと、影に引き連れて入った三人が席に座っていた。
巻き戻ったのだ。傘の持ち手を持ったまま、その場にしゃがみ込む。
「はあー…………」
長いため息が出て来た。バスを出ると巻き戻るようだ。安堵したと同時に、無理難題に頭を抱えた。おそらくいくら乗客を助けたとしても、バスジャック犯が死のうとするのを止めないと巻き戻りは終わらない。
人の心を変えることは難しい。それも短時間となると尚更だ。出発してから川にバスごと飛び込むまで三十分ほどだろう。バスジャックしてまで死のうとしている強い意思を持っている人間をどうやって心変わりさせようというのだろうか。
「まあ、それはそうと……」
「おわっ! 備吾!? なんでここに? いや、それよりどうして座り込んでいるんだ。腹でも痛いのか?」
「いや、大したことないから先行ってくれ」
後から乗って来た仁良に通路を譲る。仁良は後部座席に座ったが、備吾はあえて運転席のすぐ後ろ、一番前の席に座った。
バスに揺られること四つ目のバス停だ。バスジャック犯は相変わらず黒いレインコートを着て入って来た。
「全員、動くな」
バスジャック犯が銃を突き付けて言う。おそらく、見えなくともバスの運転手はナイフで脅されているだろう。ただ、そんなことはどうでもよかった。
「ん……?」
銃を持っている方が顔を上げる。チカチカとバスの灯りが点滅していた。外は曇天で日中と言っても、辺りは暗い。
「何をしているの?」
「いや、私は何も……」
銃を持っている方が尋ねるがまだバスの運転手が運転席にいる。ナイフを持った方が一歩バスの通路に踏み出したと同時だった。バスの明かりが全て消え去る。
「きゃああ!」
バスの車内は、目の前が全く見えなくないまでも、ほぼ闇に落ちてしまった。バスも横に揺れる。バスは急ブレーキを踏んだ。乗客全員が必死にどこかに掴まる。バスが完全に止まると明かりも点く。バスの車内が明るくなると、乗客たちはざわめく。
「あ、あれ? あの二人は……?」
目の前にいたはずの二人のバスジャック犯が忽然と消えていた。
「備吾?」
バスジャック犯だけでなく、一番前の席にいた備吾も一緒にいなくなっていたことを仁良だけが気づいていた。
◇◇◇◇
気づけば、闇の中にいた。
何も見えず、何も匂いもせず、感じられることは一切ない。身動きも指の先一つ動かせなかった。バスの中にいたはずだが、自分一人なのだろうか。
「安心しろ。お前一人ではない」
耳元で声が響く。這いよってくる声に全身の毛が総毛だった。感覚がなかったはずなのに、全身が重く縛られ張り付けにされたようだ。
声は耳元で苛立ったように続けられる。
「よくも巻き込んでくれたな。お前らのせいで、また俺は時の檻の中だ」
何のことを言っているか分からない。まだ、バスジャックも始めたばかりだ。何も始まっていない。首筋にひやりと冷たく尖ったものが当たった気がした。
「地獄に行ってからも何度も後悔しろ」
つぷりと皮膚を破られた感触がする。同時に、激痛が走った。全ての生気と言っていいだろうか、血液全てが吸い取られていく。
――だが、いくら地獄の使者が自分を痛みつけようとも、後悔などしたりしない。
二人で相当の覚悟をした。
何を犠牲にしても、誰を巻き込んでも、目的を達成すると。




