4. 巻き戻り一回目~
巻き戻り一回目。午前六時。
備吾はほぼ真っ白なパソコンの前で茫然自失に座り込んでいた。
「あ、ああ。まだだ。……まだ。まだ、内容は覚えている……」
ポチポチと小刻みに震える指で入力を始める備吾。
午後二時。パソコンに向かう備吾。文字は増えてはいるものの、内容は正確には覚えていない。眉間にしわが寄る。
午後四時。パソコンに向かう備吾。どう考えても内容が違う。指が止まることが多くなる。瞳の動きが怪しくなっていた。
午後九時。パソコンに向かう備吾。もう入力している手は完全に止まっていた。
それでも、なんとかキーボードに手は置くが、指は動こうとはしない。思考は止まっている。
「……腹減った。もう、こんな時間か」
くらくらする頭を押さえ、マットレスの横に転がっている時計を見た。何とか全く同じものとはいかないものの、原稿を完成させた。
備吾は立ち上がると、住居スペースから出て階段を下りていく。事務所のドアを開けると、床に血を流して倒れている仁良を見下ろした。
状況は、一日戻した時間に見た状況と全く同じだ。
その光景を髪の間から出ている右目だけで見下ろす備吾。何も言わずにドアを閉め、素早く部屋に戻り布団にくるまった。
再び朝が来る。依然として備吾は布団の中だ。
「お、起きているか。今日はクロワッサンだぞ」
巻き戻り二回目。
病んだ顔で備吾はパソコンで作業をする。しかし、記憶があいまいになって来た。
巻き戻り三回目。
倒れている仁良を見下ろす備吾。もう警察さえ呼ばない。
巻き戻り四回目。
パソコンで作業するが、その目はうつろだ。漏らす声も言葉にならないうめき声に。
巻き戻り八回目。
パソコンの前で突っ伏している。もう電源のボタンさえ押さない。巻き戻りと同じように、肌つやの良い仁良の顔がドアからのぞいた。
「お、起きているか」
「クロワッサンだろ」
机に伏したままの備吾が視線だけを向けた。
「よく分かったな。いい匂いがするからかな」
パンの種類を当てたところで、何が変わるわけでもない。ゆっくりと顔を上げる。
「うう。最低限のメモを残して……」
呻きながら、ポチポチと出来る限り思い出せることを羅列していく。
「分かったよ。仁良を助ければいいんだろ」
神のご所望は、仁良救出。それしかないだろう。
ドアが開くと、ダイニングで新聞を読んでいた仁良が振り向く。
「お! 珍しいな。着替えて出て来るなんて」
デニムにロングTシャツといつもの備吾のスタイルだ。
仁良の前の椅子に座った。目の前に籠に盛っているクロワッサンを端からかじる。眼球だけを上げて、新聞を読む仁良を見つめた。
「なんか変わったこと書いてあるか?」
「んー。そうだな。ああ、逃亡した強盗殺人未遂犯、まだ捕まっていないみたいだぞ」
「強盗殺人? 逃亡した?」
仁良は新聞から顔を上げる。
「なんだ、知らないのか。コンビニ強盗が店員を刺して逃げたって。昨日のニュースはそれで持ちきりだったぞ。まあ、隣の県だからこの辺りは大丈夫だとは思うけどな」
巻き戻る前の日は、先の締め切りの原稿に掛かり切りでニュースは全くチェックしていなかった。もちろん、殺人未遂があったことなど知らない。
もしかしたら、そのコンビニ強盗が逃げ込んだ先が、小椋探偵事務所なのかもしれないと備吾は考える。
犯人と鉢合わせしたところで花瓶を武器に殴られた。全くの的外れの推理とはいえないだろう。仁良が殺される前に、警察がさっさと犯人を捕まえてくれたら楽なのに。
そう思いつつ、新聞を畳む仁良に話しかける。
「俺は今日一日、つかず離れずの位置で仁良を見張ることにする」
これには面食らったようで、目を丸くする仁良。
「……いいけど、それは小説の取材か何かか?」
「そんなところだ」
備吾は眼の前にあるティーポットを掴んで、作法も何もなくカップに紅茶を注ぐ。そのまま、ぐいとひと口で飲み干した。
備吾と仁良は、雑居ビルの階段を降りてくる。
「お、おはようございます。鈴華さん!」
例のごとく、緊張した仁良がうわずった声であいさつした。
「おはよう! あら? 今日は珍しく二人一緒なのね!」
鈴華も備吾がいること以外は、大して気にした様子もなく、仁良と会話を始める。その様子を備吾は背後でうかがっていた。そういえば、凶器は花瓶だった。生花店の店主である鈴華。何か因縁めいたものがあってもおかしくはない。
ただ、鈴華は仁良といつもと変わらない様子で会話している。視線には親しみが込められており、とても数時間後に殺害するとは思えない。知る限りの過去ではあるが、特別な動機も思い当たらなかった。
「おい、そろそ……ろッ⁉」
仁良に声を掛けようと近づいたときだ。足元に蜜柑が転がって来た。踏みつけて、備吾は豪快に足を滑らせる。
「ああっ、ごめんなさい!」
杖をついたおばあさんが、申し訳なさそうにやって来た。
「大丈夫ですか、備吾さん」
尻もちをついた備吾を気遣う鈴華。怪我はないが、蜜柑をいくつか潰し、デニムが汚れてしまった。
「いててて。くそ……、だから朝は嫌なんだよ」
悪態をつく備吾の横で仁良が残りの潰れていない蜜柑を拾っていく。にこやかな笑顔でおばあさんに渡していた。
「おい。そろそろ行くぞ」
備吾はこの日の行動を知るべく、仁良を促す。しかし、仁良はあっけらかんとした様子で想定外のことを口にした。
「あ。このおばあさんをバス停にまで送ってくるから」
「は?」
いつの間に話がついたのか、仁良は紙袋を持ち、おばあさんとゆっくり歩き出す。その後ろ姿を見つめ、備吾は丸い背中をさらに丸めた。善良そうな老婦人が犯人だとは思えない。ただ本来の仁良の日常を追わなければ、助けることも叶わないだろう。
気乗りしないが、二人の後に続いた。
バスに乗り込むおばあさんを見送る仁良。周りを警戒しながら、備吾は物影からその様子を見つめていた。駅前のバス停は通行人が多いものの、怪しい人物は見当たらない。みな、仁良と関りがあるはずもなく、無言で駅に吸い込まれていく。
特別会話をすることなく、備吾はおばあさんを送った仁良の後に続いた。しかし、仁良は駅から雑居ビルへと向かう角を曲がらない。
「事務所に戻らないのか」
「ああ。やることがあるから」
「やること?」
公園にたどり着くと、仁良は清掃を始めた。それを見ると、備吾は頭を抱える。仁良が清掃を習慣にしている事実を知らなかった。頼まれてもいないのに、仁良は自主的に清掃を買って出ていたのだ。これから殺されるというのに、お人よしにもほどがある。
いっそのこと恨みを買うようなことをしていたら分かりやすいのだが。
「やっぱ、ストーカー関連、ん?」
備吾はひとりの人影に気づいた。サングラスにマスク、帽子をかぶった人物が、塀の影から仁良をうかがっている。全身黒づくめで顔を隠して、明らかに怪しい。その人物は、しばらくしてから何食わぬ顔で仁良とすれ違う。
備吾は通行人のふりをして後を追った。まだ仁良が見える位置で相手が振り返る。備吾と目が合った。脱兎のごとく駆け出す不審人物。
「あ! おいッ!」
備吾は全速力で追いかける。距離を詰めるが、すぐに肩で息をするようになってしまった。当然、走るスピードも遅くなり、最後は膝を手について止まってしまう。明らかな運動不足だ。
「くっそ! 逃げられたッ!」
不審人物の後姿すら見えない。備吾は険しい顔で公園に戻って来た。ゴミを拾っている仁良の背中に叫び散らす。
「おいッ! さっきの奴、知り合いか⁉」
「さっきの奴?」
「マスクとサングラスをしていた奴だよッ!」
「ああ。花粉症、大変そうだよな」
とぼけた返答だが、本当に信じていそうだ。普通はただマスクをしている通行人を不審人物だとは思わない。だが、向こうは完全に仁良を知っている様子だった。