3. PM2:35~
午後二時三十五分。
一通り話を聞き、仁良は手帳を閉じた。
「お話、ありがとうございました。では、これから一緒に」
蝶子をエスコートしようと立ち上がる。その横で備吾は座ったまま、あごに手を当ててブツブツと独りごとをつぶやく。
「一目惚れ、いや、その前に直接的な関りがあった方が自然だろ……」
少し俯いているその姿は、かなり怪しい。蝶子もいぶかしげに見ていると、備吾は勢いよく立ち上がった。
「そうか! その手があったか!」
「どうした。まさか、ストーカー犯が分かって……」
「アイディアが浮かんだんだよ! すぐに原稿するから邪魔するなよ!」
足取り軽く部屋を出ていく備吾。犯人に見当がついたのかと勘違いした仁良は、備吾が去ったドアを見つめて、ハハハと乾いた笑いを漏らす。
「邪魔をしたのは、お前だよ……」
一気にしおれた仁良を見て、蝶子も苦笑いをするしかない。仁良はそんな蝶子の様子を見て、気を取り直した。
「では、猪山さん、ご自宅まで案内してもらえますか」
残された二人でストーカー調査に向かう。
仁良と蝶子は並んで街を歩く。最寄りの駅に行き、蝶子がよく利用しているというスーパー、電車に乗って蝶子が勤める職場のビルの前。仁良は暗がりで人が潜んでいそうな場所を確認して、なるべく近づかないように忠告しておいた。
午後四時七分。
小椋探偵事務所のある雑居ビルの前に戻って来た。仁良と蝶子は、階段の前で向かい合う。
「お疲れさまでした。周りにも目を光らせていましたが、今日は特に怪しい人物はいないようでした」
「そんなことにも気を配っていて下さったのですね。すみません。私、お話することに夢中で」
慣れてきたのか、緊張が解けたのか、蝶子も口調にたどたどしさを感じなくなっていた。仁良もやるべきことをやったという充実感で少しだけ胸を張る。
「自分の仕事ですので。それでこれからはどうしましょうか。猪山さんが出勤されるときに、怪しい人物がいないか見張るのが一番よいかと思います。それでも不安でしたら、会社まで送迎しても……」
「一緒にッ! ……一緒に会社まで行ってもらえますか」
食い気味に大きな声を出した蝶子だったが、すぐに恥じ入ったように俯いて小声でこぼした。耳も赤くなっている。少し反応に困った仁良だったが、すぐに笑顔で頷いた。
「分かりました。その方が安心ですよね。では、明日の朝に……」
「こんにちは、仁良くん。あ、ごめんなさい。お仕事中?」
生花店の奥からバケツを持った鈴華が出て来た。彼女の顔を見ると、仁良の笑顔が余計にほころぶ。
「ええ。ですが、もう終わるところです」
蝶子は鈴華がいるせいか静かに仁良の背中に語り掛ける。
「そういえば、事務所にもバラが飾られていましたね。お花屋さんがご近所だと、やっぱり飾りたくなるものですか?」
「あ、気づきましたか。毎日バラを一本買うようにしているんです。でも、今日は品切れだったようで。代わりにこの花を買ったんですよ」
仁良は店頭の銀のブリキの筒を指さす。そこには、一本の茎に可憐な小ぶりな白い花が並ぶ鈴蘭が生けられていた。
「……綺麗ですね。気づかなかったです」
「良かったらプレゼントしますよ。鈴華さん、包んでもらえますか」
ストーカーに怯えている蝶子へのただの気遣いだった。仁良は筒の中からすずらんを数本取り出す。
「はい。ありがとうございます」
鈴華は受け取ると、奥へ包みに向かった。
「今日調べて知ったのですが、鈴蘭をもらった人には幸運が訪れるのだそうです。飾っていたら、きっといいことがありますよ!」
「いいこと、ですか……。そうだといいのですけど」
花をプレゼントされたというのに、蝶子の表情はかんばしくない。気丈にしていても、やはりストーカーのことが気がかりなのだろう。
「ああ、それとこれは鈴華さんから聞いた話ですが。鈴蘭には茎や葉に毒があるそうです」
「毒?」
「ええ。茎から出て、水に溶けだすそうです。だから、水を変えるときはよく注意してください。他の花とは混ぜない方がいいかもしれません」
バラとは合わないから最初から別の花瓶に生けていたが、それで正解だったようだ。
「ああ。大丈夫です。うちに花なんて飾っていませんから」
蝶子は鈴華から花束を受け取ると、まだ陽が出ている内に家に帰ると言って去っていった。
午後九時二十三分。
雑居ビルの二階。小椋探偵事務所の窓からは、まだ煌々とした灯りが漏れている。
「んー。何とか目途がついたな。たく、短い話っつっても楽じゃねえぜ。今度からは断るか」
伸びをしながらコキコキと身体を鳴らし、備吾が階段を降りて来る。昼間に騒いでいた原稿が終わったようで、疲れた顔をしているものの上機嫌だ。
「けど仁良の奴、こんな時間まで仕事してんのかよ。ストーカーのガードなんて、大した仕事じゃなかったじゃねーか。飯はどうすんだよ」
食事を用意するのは、仁良と決まっていた。それどころか、ほとんどの家事を仁良が担当している。
「仁良、飯はー?」
備吾は事務所のドアを開けようとする。しかし、ほんの少し開けたところで、ドアの隙間から何かの匂いが鼻をついた。
血だ。匂いの正体に気づくと、音がなるほど乱暴にドアを開く。すぐに仁良がうつ伏せに床に倒れているのが目に入った。その上、大きな血だまりが出来ている。近くには割れた花瓶。バラが散乱して血だまりに、赤い花びらがハラハラと落ちていた。
「そ、そんな……」
備吾は口を押えて、後ろに下がっていく。ドアから出て、壁に背中が当たるとそのままそこで座り込んだ。震える手でポケットからスマートフォンをズボンのポケットから取り出す。
すぐに電話を掛ける。
「もしもし、警察ですか。それが……」
数十分後には雑居ビルは、物々しいパトカーに囲まれた。辺りも騒然とする中、備吾は警察に説明する。そばでは鈴華が涙の伝う頬を押さえていた。
◇◇◇◇
……――。
物が乱雑に置かれている部屋に、朝の光が薄くカーテンの隙間から差し込んでいた。マットレスが床に直に置かれている。盛り上がっている布団がもぞもぞと動いた。
憂鬱な気分で目が覚めた。備吾は布団をかぶったまま、窓際に置かれているパソコンの前に移動する。
手だけを伸ばして、パソコンの起動ボタンを押そうとしたときだ。
「お。起きていたか、備吾。今日はクロワッサンだぞ」
ドアから顔を出した仁良。備吾は振り返り、恐ろしいものを見てしまったかのように眼を見張った。
「そ、そんな……」
つい数時間前、彼が血を流して倒れている現場を見たばかりだ。
「着替えてこいよー」
仁良がドアから顔を引っ込めると、バッとパソコンに向き直る。焦りで手が滑りながらも、起動ボダンを押し操作をし始めた。
「き、消えている。どこにも……、ない……ッ!」
パソコンのファイルには、締め切り直前のファイルが存在しない。
つまり、昨日終わらせたと思っていた原稿がごっそり無くなっている。備吾は勢いよく立ち上がって頭をかきむしった。
「ああああああああッ!」
「ど、どうした?」
突然の叫び声に慌てて仁良が戻ってくるが、彼にはどうすることも出来ない。それどころか、殺される未来が待っているのだ。
日常が非日常に移り変わった瞬間。悪い予感はしていた。巻き戻りはこれが初めてではないのだ。それでも外は晴れやかなよい天気で、スズメが鳴いている。