21. 生花店の一日
午前七時三十一分。
生花店の一日が早く始まることは想像に難くないだろう。ここ、フラワーショップりんも店主代理の梅原鈴華自ら、表の掃き掃除から始める。
しかし、この日はその前にやっておくべきことがあった。
「これで、よしっと」
大きな文字が書かれた張り紙だ。レンガのタイルの柱にテープで張り付けてある。そこへ雑居ビル二階の探偵事務所の主、小椋仁良が通りかかった。
「おはようございます、鈴華さん。アルバイトの募集ですか」
「おはよう、仁良くん。そうなの前の人が辞めてから結構経つでしょ。そろそろ、もう一人ぐらい手伝って欲しいかなって思って」
他にアルバイトは雇ってはいるが、短時間の店番ぐらいしか任せられなかった。長く働いてくれる人を探さなければならない。
「さっ! 今日もがんばろう」
町の清掃に行くと言う仁良に手を振り、鈴華は店を開ける準備を始めた。
午前十時。開店。
三分の一ほど開けていたシャッターを上へと押し上げる。緑色の庇のレバーをクルクルと回して広げ、ガラスの両扉を全開にした。入口が華やかになるように、花が入ったブリキのバケツを外に並べていく。
「あのー」
後ろから声を掛けられた。鈴華は笑顔で振り返る。
「はい。いらっしゃいませ」
振り返るとキャップを被った若い男性が立っていた。背は鈴華より少し高いくらいの身長で、大きな瞳はどこかまだ少年らしさを持っているように見える。
「あのアルバイト。まだ募集していますか」
青年が指さしたのは今朝張り出したばかりのアルバイト募集の張り紙だ。心得たとばかりに鈴華は頷く。
「はい。今朝募集を始めたばかりですから。あなたが一番乗りです」
「よかった。今朝、たまたまこの店の前を通りかかったんです。ちょうどバイトを探していて。店主の方ですか? 出来たら早めに面接をしていただきたいんですけど」
店主かと聞かれて、鈴華は表情を曇らせる。フラワーショップりんの本来の店主は、不在となってから随分と経つ。
「あのー」
「あ、いえ。もちろん私が面接します。奥へどうぞ」
気を取り直して、青年を生花店の奥へと案内した。店内はもちろん花や観葉植物であふれている。奥は小さなロッカーがあるだけで、控室もない。フラワーアレンジメントを作る作業台の前にイスを並べて向き合うしかなかった。
青年はキャップを取り、ハツラツと笑って話し始める。
「実は前のバイト先の居酒屋、いきなり潰れてしまったんです。それで、いつも履歴書を持ち歩いていて、ラッキーでした」
差し出されたのは四つ折りにされた紙だ。受け取った鈴華は、声に出して名前を呼ぶ。
「室谷光さん、二十四歳。フリーターさんですね。アメリカの大学を出ているんですか」
鈴華は履歴書を指さしながら確認し、聞きなれない大学がカタカナで書かれていることに気づいた。
「そうですね。大変でしたよ! 向こうは物価高くて。小さな大学だから知らないでしょうけれど、一応州立の大学です。また、留学っていうか世界中を旅したくて、バイトして金貯めているとこです」
「そうなんですか。素敵なことです」
鈴華は素直に感心した。
自分は高校も大学も地元で、地元の生花店を経営する人と結婚した。過去に未練はないけれど、どんどん外へ出ていこうとする人間はまぶしく見える。
「あ。でも、花とか全然分かんなくて。それでも、勉強しますから! ほら、花とか詳しいと海外でもモテそうじゃないですか」
室谷は茶化して言うが、誠実に勉強するかどうかは実際に働いてみないと分からないだろう。書類上で判断しても無駄だということは、何年も生花店で働いている鈴華にはもう十分に分かっていた。
「そうですね。まずは長く働くつもりはありますか。あまりに短期的にしか働けなければ他の方を探さなければなりません」
少なくとも数年は働いてほしい。また海外に行くなら、数か月先には居なくなる可能性もある。口約束でも相手の口から確認する必要があった。
すると、室谷は八重歯を見せて笑う。
「もちろんですよ! 留学どころか、バイト先潰れて、生活費もままならないんですよ! 今日から雇ってもらいたいくらいです!」
明るく良く笑う青年だ。よく来る女性客たちにも印象がいいだろう。鈴華は履歴書を作業台に置いてにこやかに笑う。
「それでは、よろしくお願いします。準備もありますから、明日からで」
「はい!」
こうして、室谷はフラワーショップりんの従業員となった。
◇◇◇◇
二週間後。この日はアスファルトにまだら模様を描くほどの、ぽつぽつとした雨が降っていた。備吾は自室で目覚めると、嫌な気分でリビングへと向かう。
リビングダイニングで、仁良はすでに朝食を口にしていた。サラダと野菜ジュースと食パンという、いたって平凡な朝食だ。だが、これはこの家の異常事態であった。
「はあ」
重いため息をつきながら、食パンをかじっている。以前は仁良の趣味を兼ねた焼き立てのパンだったのに、この二日ほどは市販の食パンだ。
「辛気臭せぇな。別にパン焼けとは言わねぇけど、せめて普通に食えよ」
「ああ。備吾、おはよう」
憎まれ口も左から右に耳から抜けていくようだ。いつも着けているループタイも心なしか歪んでいる。
「ため息ついたところで、あの室谷ってやつは出ていかないだろ」
「いや、俺は別に室谷くんに出て行って欲しいなんて言っていないよ」
「顔に書いてある」
雑居ビル一階に店舗を構えているフラワーショップりんに新しい従業員が入ったのは、いまから二週間ほど前だ。
おそらく仁良は新しい従業員が入るとしても女性が入ると思っていたのだろう。それが室谷という男性で、若くて快活な人柄だった。
最初は仁良も気兼ねなく、話しかけていた。ところが、時間が経つにつれて鈴華との仲の良さを気にするようになっていく。本人たちの前では平然としているが、こうして家へ戻ってくると目に見えて落ち込むようになった。
「鈴華が誰にでも愛想がいいなんて、今に始まったことじゃないだろう」
「そうだよ、鈴華さんは誰にでも良くしてくれる。素敵な人なんだ」
食パンを皿に置いて、ブツブツとつぶやきはじめた。さらに陰気になってしまった。
「大体、旦那がいるだろ。旦那が帰って来るまで、あいつは誰にもなびかねぇ。高校の教師や高級レストランのシェフがどれだけくどいてもダメだっただろうが。IT会社の社長だって、せっせと花を買って好感度上げちゃいるが、落ちることはないだろ」
「そ、そんなにいたんだ……」
どうやら知らなかったようだ。
備吾は噂好きのアルバイトに聞かされていたが、確かに鈴華を好いている仁良に教えることはないだろう。
「でも、室谷くんはそんな人とは違って、一日中一緒にいるんだよな。羨ましい」
「なら、お前がバイトに入ればよかっただろ」
「……叔父さんから預かっている探偵事務所を放置するわけにはいかないよ」
何だかんだ言っているが、ただの嫉妬に違いない。備吾はさっさと朝食を平らげ、自室へと戻っていった。




