2. PM2:00
午後二時。
雑居ビルの二階は小椋探偵事務所だ。二階の半分は事務所奥にある倉庫となっていた。広々とした事務所の壁際には書棚が並んでいる。仁良は書棚からファイルを取り出して、壁掛け時計をちらりと見上げた。
「そろそろ時間だな」
確認したと、ほぼ同時のタイミングだ。遠慮がちな音で一回、チャイムが鳴らされる。仁良はファイルを棚に戻して、すぐに向かう。
「お待ちしておりました。昨日、お電話いただいた猪山蝶子さんですね」
ドアを開けると、身体をこわばらせている若い女性が立っていた。少しこわばった顔で仁良のことを上目遣いで見ている。
「はい。昨日は突然、お電話してすみません。どうしても、今日のうちに相談したかったんです」
「全く構いませんよ。どうせ、他の相談の予定は入っていませんでしたし。どうぞ、中へ。座って詳しいお話を聞かせてもらいます」
仁良は丁寧にエスコートして、中央に並ぶ応接セットのソファに蝶子を座らせた。
「少々お待ちください」
断ってから給湯室の方へと向かう。青い花が散りばめられた上品なティーカップに紅茶を注いだ。お盆に並べて、事務所の方に戻る。
「アールグレイです。苦手でなかったら、召し上がってください」
蝶子の前に置くと、遠慮しがちにカップを手にする蝶子。ひと口飲むと、肩の力を抜きほっと息をついた。
「美味しい……」
その様子を見て、仁良も微笑んだ。
「良かった。では、ゆっくりで構いませんので、依頼の内容を――」
詳しい話を聞こうと、蝶子の向かい側に座る。そのときだ。
「ダメだ、ダメだ、ダメだッ!」
突然ドアが開いて、頭を抱えた備吾が入って来た。
「び、備吾!?」
慌てて立ち上がる仁良だったが、止めることも叶わず、備吾はソファに背もたれからドサッと倒れ込んだ。
いつもの彼の癖ではあった。ただ、いまは客がいる。頭を下に斜め四十五度、ソファに突き刺さった備吾と同じくソファに座っているすぐ横の蝶子の眼が合う。
「ア˝ァ? 客?」
むくりと起き上がる備吾に、ビクッと蝶子が震えたのは当然かもしれない。
「何やっているんだ! 早く出ていけ!」
「ちょうどよかった」
しかし、意に介さずに立ち上がった備吾は身体をコキコキと鳴らしながら移動する。仁良の横にソファにドカッと座った。
「依頼人とは珍しいな。いつもは街の雑用ばっかしている探偵事務所なのに」
口の端を上げて、憎まれ口を言う備吾。この調子で居座られたらたまらないと、仁良はグイグイと押して追い出そうとする。
「備吾! なんで座るんだよ。あ、こいつは自分の同居人なんですけど……」
「なんだよ。いいだろ、少しぐらい」
「よくないだろ。ほら、猪山さんが困っているじゃないか」
確かに蝶子は何も言えずに固まっている。
「困っている?」
仁良の言葉に備吾は細い眉をピクリと上げた。仁良に顔を近づけ、凄みを利かせる。
「困っているのは、こっちなんだ。昨日原稿が終わったと思ったのに、間違えて締め切りが来月の方を書いていたんだ! 今週末までに終わらせないといけないのに、頭沸いてなんも出て来ねーんだッ!」
頭を滅茶苦茶にかきむしり、半泣きで駄々をこねる備吾。
「自業自得じゃないか」
話を聞けば同情の余地は存在しないことはないが、ここで騒がれても困る。備吾のへの字に曲げた口から、唸るような声がはみ出て来る。
「……分かってんだよ」
「だったら、家に戻ってリラックスするとか、散歩するとか」
「もうやった。でも、何も思い浮かばない。だから、ここに来たんだ。人の話を聞いていたら、何か出て来るかもしれないから」
備吾はそう言うと、蝶子に視線を送る。見つめられた蝶子は、目を丸くした。
「えっと……」
「すみません。こいつ、小説書いていて。たまに依頼を手伝ってもらっているんですけど、困りますよね。すぐに追い出します」
身体を押し備吾をさらに追い立てる仁良。けれど、蝶子が手を上げて止める。
「だ、大丈夫です。この方がいても!」
今度は仁良が目を丸くする番だ。蝶子も目を泳がせてこぼす。
「その、誰か一緒の方がお話するのに緊張しないと思いますので」
こちらを見てはいないが、本心で言っているようだ。仁良と備吾は眼を合わせる。示し合わせたように、同時に座りなおした。それでも、仁良は睨みを利かせて念を押す。
「備吾、猪山さんのご厚意で同席させてもらうんだ。大人しくしていろよ。では、お話を聞かせてもらえますか」
蝶子は小さく頷く。
「はい……。実は最近、仕事の行き帰りで、誰かにつけられている気がするんです。それだけではなくて、郵便物を勝手に漁られている気もして……」
仁良は革の手帳にメモを取りながら頷く。
「なるほど。ストーカーですね。誰か心当たりはありますか?」
「いえ、全く。そもそも今年の春に田舎から上京してきたばかりで……。まだ、職場くらいにしか知り合いはいないんです。SNSもしていませんし」
「そうなると職場か通勤途中に目をつけられたか」
備吾は蝶子を頭のてっぺんから、足の先にまで眺めまわす。白いリボンタイのブラウス、黄色いフレアスカートに、薄茶色のスプリングコートを羽織っていた。
少し癖のある髪を蝶の髪留めでまとめている。アーモンドのような形の瞳は、くっきりとした二重でまつげが陰影をつけていた。あごもシャープで、余計な贅肉も見当たらない。
「まぁ、なくは無いか」
蝶子は十人いたら九人は美人だと断言するだろう容姿だ。
「おい。ジロジロみたら失礼だぞ」
さすがに仁良がたしなめた。
「では、もっと詳しく聞かせて下さい」
「はい……」
蝶子はゆっくりと口を開く。