17. 巻き戻り三回目
巻き戻り三回目。
店内に入ると一目散にボックス席に座る。目の前の根津は面食らっている様子だ。
「お、お疲れ様です。そんなに急がなくても大丈夫ですけれど」
「ああ」
備吾は顔を押さえて長い息を吐く。まさか、自分に毒が盛られるとは思わなかった。
しかし、惜しいことをしたと思う。
毒を飲んだときにマスターと沖田の様子を見られなかった。意図的に自分を狙ったのか、どうしてターゲットが変わったのか。なんらかの反応があったはずだ。
ただ、間違いなく毒を盛っている人物は二人のうちのどちらかだ。二人以外に毒が盛られた備吾のコーヒーに触れていない。それだけは間違いなく見張っていたのだ。
「それで、ヒューの話だったか」
「……どなたです? ああ、もしかして次の作品の主人公のことですか」
「そう。ヒューにはモリーという女の幼なじみがいた」
ヒューにそんな女友達はいなかった。モリーというのは、ヒューとは何の関りもない時代の女で、備吾とも五年ほどしか付き合いはない。
ただ、強烈な印象の女だったことは覚えている。
「モリーと出会ったのは十代後半のことだ。モリーはよく言っていた。お前が思っている以上に物事の奥は深い」
「ほお」
根津がメモ帳にペンを走らせる。
「モリーはパン屋の娘だった。おっかない女だが、ヒューはパン屋の美味いパンを目当てに通うしかない」
この場合のヒューは備吾のことだ。実際、モリーのパン屋は町で一番美味いパンを売っていた。
「それで幼なじみのヒューとモリーは恋仲になるというわけですね」
「あ、いや」
モリーは備吾と出会ったときには旦那がいたし、あまりにも気の強い女は備吾の好みではない。頑固なヒューとしても、あのモリーの強引さには振り回されてしまうことだろう。
「そういえば備吾さんは恋愛小説を書いていませんね。あまり得意ではないですか」
「そういうわけでは」
「失礼いたします」
恋愛遍歴など話すつもりなどないが、沖田がコップに注がれた水を運んできて息をついた。前は水を貰う前に注文していたことを思い出す。
「ブレンドを」
「私も同じもので」
あまりにモリーのことに熱中するのは良くない。犯人を見つけない限り毒殺は続き、備吾も時間の牢獄から出られはしないだろう。
「とにかく、モリーだ。モリーのことを話そう。彼女と出会ったのは芸術の町フィレンツェだ。芸術には疎いが本物を見抜く目が彼女にはあった」
出会ったのは別の町だが、ちょっとした賭けをしたことを覚えている。
二枚の絵を見比べて、どちらが高く売れるか賭けたのだ。勝者はモリー。おかげで一か月、毎日モリーの店のパンしか食べられない生活が続いた。
モリーのことを話しながら、店内にも気を配る。
文庫本を読んでいる仁良の元にコーヒーが運ばれた。備吾が毒を飲んだときのものとはカップが違う。中年夫婦は隣のボックス席で談笑している。マスターはコーヒーをカップに注ぎ、沖田は銀のトレイを布巾で拭いていた。
そのとき、ガシャンと食器が倒れる音がする。備吾は来たかと思った。
だが、次に聞いた言葉は予想外なものだった。
「あ、あなた!」
思わず振り返ったのは仁良のほうだ。
仁良はピンピンとしていた。毒で倒れるどころか立ち上がって、後ろのボックス席に近づいていく。備吾も立ち上がった。根津越しに見えたのは、倒れ込んでいる中年男性とそれを揺り動かしている中年女性だったからだ。
「今度はあっちか」
なぜかまたターゲットが変わった。




