10. 羽化せし乙女
延々と田畑の広がる田舎に住んでいた猪原蝶子は、黒髪のぽっちゃり体形の女の子だった。セーラー服のスカートは嫌い。他の女の子たちは軽くひらめいているのに、自分のものは重たく張り付いているように感じる。
子供の頃から可愛いなんて言われたことはなかったし、重たい一重まぶたは本当に見えているのかと散々からかわれた。田舎は狭くて息苦しい。どこに行っても、ジジババが何かと口悪く忠告してくる。悪いことなど何一つしていないのに。
それでも、ポケットのスマートフォンの中だけは別世界だった。歌って、踊って、みんなキラキラ輝いている。田舎で可愛いと言われている子も、所詮は井の中の蛙だと思った。
みんなが蛙なら私は芋虫だ。のろのろと同じ葉っぱの上ばかりをうごめいている。
でも、ちゃんと羽化する方法を知っていた。みんな知っているかもしれないけれど、そんな勇気なんてないだろう。どこかで羽化するなら、都会の蝶になりたかった。
この日も、電柱の影から公園の中を覗き見る。腰を下ろし、手を伸ばし、茂みの奥の空き缶を拾っていた。見ているだけで分かる。広くて包容力のある背中だ。この人なら、きっと私を受け入れてくれる。
しかし、見惚れすぎていたかもしれない。油断していた。
「おい、猪山蝶子」
背後から本名を呼ばれる。予想にもしていなかった事態に、手に汗がにじんだ。そろりと振り向くと、知っている顔がある。
いつ見ても顔色の悪い男性。小椋仁良の同居人だ。
確か下の名前は備吾。苗字はいくら調べても分からなかった。誰かと同居していると知ったときには、誰が彼と暮らしているのかと必死になって調べた。特別な関係ではない男性だと知ったときには心底ホッとしたものだ。
彼が指の先をこちらに向けて言う。
「お前、こんなことを繰り返して楽しいか?」
首をかしげ、出ている片目だけでこちらを見つめている。立って話してはいるが、ほとんど生気が感じられない。ハッキリ言って不気味だ。さらに不気味なことを言い始める。
「何度もお前の後をつけたり調べたりしたが、オレは何も楽しくない」
「し、調べて……」
いつの間にそんなことをされたのだろう。彼に夢中で気づかなかったとは思いにくい。
「意味がない、進まないからだ。進まないから全く満たされない」
「何を言って」
「実際、お前のことを調べている俺が満たされていると思うか?」
髪に隠れているはずの左目と目が合った気がした。
穴が開いたような赤い瞳に見えた。全身の肌が泡立つ。
「……ッ!」
耐え切れずに蝶子は背を向けて走り出す。とにかく恐怖に耐えられなかった。すべてを見破られたからではない。その場に一瞬でもとどまっていたら、得体の知れないものに飲み込まれるかと思ったからだ。
数時間後。蝶子は小椋探偵事務所のドアの前に立っていた。
性懲りもなく来たのは、備吾と出会ったことが、あまりに現実味がなかったからかもしれない。少し震える手でノックをした。内側から開き、仁良が笑って出迎える。
「お待ちしていました。昨日、お電話いただいた猪山蝶子さんですね」
ほっと息をついた。普通の客への対応だ。
促されて、事務所の中に入る。しかし、蝶子は再び顔を青くして足を止めた。ソファには備吾が足を組んで座り、こちらをジッと見据えている。
「どうかしましたか」
「い、いえ」
どうしてここにいるのだろう。まさか、自分を見張りに来たのだろうか。
ギクシャクとする身体を何とか動かし、蝶子は備吾の向かい側のソファに座る。目の前のテーブルに紅茶が置かれると仁良に顔を覗きこまれた。
「紅茶を用意しましたが、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけれど……」
仁良の優しさに、こんな状況でもときめいてしまう。
「大丈夫です。あ、ありがとうございます。いただぎます」
紅茶に口をつけながら、チラリと備吾をのぞきみる。無表情でこちらを見ていた。目の下の隈が酷く濃い。よどんだ瞳なのに、奥にある感情がにじみ出している。
自然と指が震えだした。持っていたカップが手から滑ってしまう。
「あっ……」
カップは床に落ちて、繊細さを証明するかのように簡単に割れてしまう。
「ごめんなさい!」
蝶子はしゃがみ込んで、破片を拾う。慌てていたせいか、指先を切ってしまった。深く切ったせいか、血がしたたり落ちる。
「すぐに救急箱を持ってきます! どこにあったかな……」
バタバタと足音を立てて、仁良は事務所を出ていった。蝶子と備吾、部屋に二人だけになる。いつの間にか、備吾が側に立っていた。
「おい」
声を掛けられた途端、肩を震わせる。備吾は蝶子のすぐ側にしゃがみ込んだ。
「血が出ているぞ」
身体も口も、動かない。蝶子が固まっている内に備吾が血を指ですくう。それを口に含んだ。蝶子は凝視したまま、口を動かす。
「何を……」
自分でした行動であるのに、まるで口に合わないとばかりに備吾は眉間にしわを寄せられた。
「お待たせしました。手当しますので、傷を見せてもらえますか」
仁良が救急箱を持って戻って来た。何事もなかったかのように、備吾はカップの破片を拾い出す。
「……カップを割って申し訳ありませんでした」
蝶子は指に絆創膏を巻かれて、ソファに座りなおす。
「気にしなくて大丈夫ですよ。では、お話を」
蝶子はボソボソと話し出した。もちろん、全てこの日のために用意していた嘘だ。
しかし、ずっと睨んでくる備吾が気になってしょうがない。半分しか正確に話すことが出来なかった。仁良は手帳を閉じ、指を膝の上で組んだ。
「深刻ですね。猪山さんの様子でそう感じました」
怖がっているのは、目の前の人物だという言葉を飲み込む。チラリと伺うと、意外にも備吾はこちらを見ていなかった。その代わり、ゆっくりと口を開く。
「ストーカーってさ。どうして一人の人間に執着すると思う?」
意味に気づくと、もう何も言うことは出来なくなった。蝶子に対する尋問に違いない。だが、仁良は蝶子についている架空のストーカーの話だと思ったようだ。
「そうだな。やっぱりその人がよっぽど好きだからじゃないか?」
「それも一つの答えだな。だが、その好きと言う感情。それがただの強い思い込みだとしたら?」
備吾は思わせぶりに目線だけを上げ、蝶子の顔を見る。蝶子は挑発的な言動に思わず表情を険しくした。この胸の中で暴れる激しい思いが思い込みのはずがない。




