1. AM6:00~
五月二十日、晴れ。午前六時。
探偵、小椋仁良の朝は早い。
使い込まれているが清潔に保たれているキッチンの前に立ち、朝食の準備をしていた。シンクの中の洗い物を済ませ、腰に巻いている黒いエプロンで手を拭う。
「さて、出来具合はどうかな」
オーブンを開けると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。ミトンを付けて天板を引き出すと、こんがりと焼き色のついたクロワッサンがよく膨らんで並んでいる。
トングで籠に見栄え良く盛り付けた。
「うん。よく焼けた。あいつは起きているかな」
キッチンのすぐ横はソファやテレビが置かれているリビングだ。寝室に続くドアのひとつを開けた。中はカーテンからわずかに陽の光が入って来てはいるが薄暗い。
「備吾、起きているか?」
仁良は小さな声で声をかけた。相変わらず汚れてはいないが、雑然とした部屋だ。付箋がついた本が積み上がり、書類も散乱している。
本人の姿は見えない。床に直に置かれたマットレスの上には布団がこんもりと盛り上がっていた。微かに上下に揺れている。どうやら、まだ寝ているようだ。
「寝かせておくか」
エプロンを脱いで、ダイニングテーブルの椅子に座る。ティーポットから上品な陶磁器のカップに紅茶を注いだ。足を組んで新聞を広げる。
一面にざっと目を通し、二面を開くと、大きな見出しに目が行く。コンビニ強盗殺人未遂犯、未だ逃走中。前の日に起きた事件は隣町で起きていた。
遠く離れていない町ならば、この町に潜伏していてもおかしくはない。この町の人間だけでなく、近くに住む人々はどれほど心配しているだろうか。とはいえ、ずっと家に閉じこもっているわけにもいかない。
ページをめくり新聞に目を向けたまま、焼き立てのクロワッサンをかじった。
外側はサクサクしていて、中はしっとりとしている。満足の出来だ。パンは毎日焼いている。明日は何を焼こうかと考えることが毎朝の楽しみだ。
朝食を済ませて、部屋の掃除をしている内に時間は緩やかに過ぎていく。
午前七時十五分。
リビングの掛け時計を見上げて、仁良は出かける準備を始める。ソファの背もたれに置いていたズボンと同じ色の茶色いベストを手に取る。シャツの上に着て、ループタイを締めた。
姿見の前で、よく確認する。癖のある少し長めの髪は綺麗にセットしている。おかしなところはなさそうだ。
「よし」
小さく気合を入れて、小奇麗に磨いている革靴を履いて部屋を出た。
仁良が住んでいる場所は雑居ビルの三階だ。三階は全て居住スペースになっている。階段を降り、小椋探偵事務所と窓に黒文字で書かれているドアの前を通過する。
階段を一階まで降りると、そこはビル内ではなく屋外になる。朝のひんやりとした空気が肌をなでた。鼻で小さく新鮮な空気を吸った。もう一度、心の中でよしと気合を入れる。やや緊張気味に左を向いて足を進めた。三歩も歩くと、すぐに雑居ビル一階に入っている店につく。
緑色の庇には、『フラワーショップりん』と書かれている。
その名の通り、花屋ではあるが、今はまだシャッターが半分閉じていた。わずかに開いた空間から、女性が一人屈みながら出て来る。
「あ、お、おはようございます。鈴華さん」
声が上擦ってしまった。顔も口の端が若干ひきつっていることを仁良は自覚していた。
「あ! おはよう、仁良くん!」
ぎこちない仁良に対して、鈴華は晴れやかな笑顔を見せた。髪を一つにまとめているハツラツとした印象の女性だ。くりくりとした形の目が輝いている。
「そうだ。私、仁良くんに謝らないと」
「え。なんでしょう」
申し訳なさそうに眉を寄せて、鈴華はあごに手を当てた。
「実は昨日の夕方、残っていた赤いバラを全部買っていかれた方が居て……。入荷するのは明日になりそうなの。仁良くんには毎朝バラを買ってもらっているから、取り置きしておこうと思ったけれど。どうしても全て欲しいとおっしゃられて」
仁良は両手の平を身体の前に出して制止する。
「いえ、大丈夫です。まだ、前の日に買ったバラが事務所で咲いていますから。じゃあ、今日は――」
まだ店は開いていないというのに、あごに指を当てて他の花を思い浮かべる。その足元にころころと蜜柑がいくつも転がって来た。
「あ、待って」
よろけながらやってきたのは、腰の曲がった老婦人だ。杖もついている。仁良はしゃがみ込んで、蜜柑を拾っていった。
「自分が拾うんで、慌てなくて大丈夫ですよ」
安心したようにおばあさんは急ぎ足を緩め、息を整えた。
「ありがとうね。病気のお友達のお見舞いに持って行こうと思ったのだけど、欲張り過ぎたみたい」
おばあさんは、たくさん蜜柑が入った紙袋を提げている。見た目よりも重そうだ。仁良はその中に拾った蜜柑を素早く入れていった。
「良ければ自分が送りますよ。どちらまでですか?」
「あら、ご親切に。じゃあ、駅前のバス停にまでお願いできる? お友達の家は降りた場所のすぐ近くだから」
仁良は頷くと、蜜柑の入った紙袋を預かった。たくさん入っているのでずっしりと重たい。
「では行きましょうか。鈴華さん、また後で買いに来ます」
振り返って、鈴華に軽く手を上げる。鈴華も笑顔で手を上げた。
「はい。行ってらっしゃい」
仁良はおばあさんを気遣いながらゆっくり歩き出た。
午前七時三十八分。
おばあさんと仁良は、二人で駅前にやって来た。
駅前は車通りも多く、長い横断歩道は老人の足には堪える。仁良はおぶって渡った。
「ごめんなさいね。すっかりお世話になって」
おばあさんは来たバスに乗り込んでいく。仁良は窓際で手を振るおばあさんが見えなくなるまで見送った。
「さて、今日もお仕事といきますか」
顔を仰ぐと、薄い雲が朝の空にゆっくりとたなびいていた。探偵、小椋仁良の朝の仕事はいたって地味なものだった。駅前から歩いて十分。住宅街の小さな公園にやって来た。
軍手を右手にはめ、ごみ袋を左手に装備する。そのまま、公園内のごみを拾い始めた。お菓子の袋やペットボトル、ビニール袋。とりあえず、分別せずにごみ袋に入れていく。空き缶などは茂みの奥に隠されるように置かれているので、袖をまくって手を伸ばす。
依頼人がいるわけでもなく、仁良が自主的にしているほぼ毎日している習慣だ。
朝の通学時間だから、カラフルなランドセルを背負った小学生たちが登校していく。よく見る顔だからか、たまに挨拶される。仁良もにこやかに返した。
八時が過ぎる頃に、一度立ち上がって額を拭う。今日も街は平和だ。とはいえ、隣町で殺人が行われかけたのだ。小学生の登校の見守りも兼ねているのだから、あまり気を抜けない。
さらに公園の外周を回っていく。角を曲がったところで一人の人物とすれ違った。
マスクに濃いサングラス、帽子をかぶった人物だ。黒いキャップは目深にかぶり完全に顔を隠している。仁良は思わず振り返った。
「今の人……」
しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「花粉症の季節か。春は大変だなー」
探偵の直感はわたあめのようにふわふわだった。
午後十二時三十分。
雑居ビル三階の住居スペースに戻って来た。
仁良は昼食を用意する。ベーコンとレタスのシンプルな具のパスタを作ろう。そう思い具材を切っているときに、奥の部屋のドアが開いた。
「くぁー。……はよ」
寝巻姿の男だ。少し曲がった猫背で薄い腹をかきながら出てきた。
「備吾、もう完全に昼だぞ」
「いーんだよ。昨日、原稿にかかりきりだったんだからよ」
大きく足を開いて、椅子にドカッと座る。
「締め切りだったのか。じゃあ、しょうがないな」
マッシュルームカットの髪をボリボリと掻く。長い前髪のせいで左目が良く見えない。右目だけ出ているが、垂れた目の下には濃い隈がくっきりと刻まれている。
「今朝焼いたクロワッサンとパスタ、どっちにする?」
備吾はうつらうつらしながらも答えた。
「……パスタ」
「了解」
深めの皿に出来上がったパスタを盛る。向かい合わせに座って、二人で食事を取り始めた。備吾はまだうつらうつらと船を漕いでいる。
パスタをフォークで巻きながら、ぼそぼそと話し始めた。
「……昔、俺は全パスタを制覇した」
「ん?」
寝ぼけて変なことを言い出したものだと思いつつ、フォークを持つ手を止める仁良。
「制覇したと思ったんだ。だが、パスタの野郎勝手に増えていくんだ」
「増えていくというと、麺が……?」
思わず鍋の中で茹でているパスタの麺が、鍋をはみ出して増えていく様を想像した。仁良の言葉に備吾はちらりと視線を上げる。
「それじゃ、ただのふやけたパスタじゃねぇか。パスタってのは、あっちじゃ小麦粉を練ったもの全てを言う。長い奴だけじゃなくて、マカロニやペンネもそうだ。ずーっと、増えてきて、今じゃ五百種類以上あるらしいぜ?」
どうやら、備吾なりの雑学を披露してくれたようだ。
「へー……」
仁良の気のない返事を聞くと、備吾は再び食事を始めた。