ママのミートソース
あたたかな水蒸気に乗って、トマトの香りが漂ってくる。コンソメやガーリックがかすかに混じった、まだまだ「未熟な」トマトソースの匂い。空いた胃袋とエンジニアの脳みそ、両方の期待をかき立ててくれる。
(いつもの実里のミートソース。これは確実においしいやつ)
胃袋が手ぐすねを引く。
(いつもの実里のミートソース。ようやく、ようやくここまで来た)
脳みそが期待に高鳴る。
と、思考を断ち切るように、食卓の向かいから声が飛んできた。
「綾子、貧乏揺すりすごいよ。テーブルまで震えてる」
「え? あ……ごめん、実里」
あわてて意識し、身体の動きを止める。何かが待ちきれないとき、気がついたらこうなっちゃう。
大きく息を吐き、私は声の方を見た。
ゆるいウェーブの茶髪を揺らし、実里が溜息をついている。彼女と女同士の同棲を始めてもう三年、料理上手な彼女はずっと私の舌と胃袋を幸せにしてくれてきた。バイセクシャルの彼女は男性にもモテるはずなのに、女の私とずっと一緒にいて、日々のご飯を作ってくれる。感謝してもしきれない。
でも今日は、料理をするのは彼女じゃない。私でもない。人間様は座って待っているだけだ。
「この二ヶ月、ほんっと楽しそうだね、綾子」
実里の声に呆れの色を感じるのは、気のせいじゃないだろう。
「そうだね、あいつは――SPICAは、私の子供みたいなものだし。子供が育つのは、親としてやっぱ嬉しいよ」
私はちらりとキッチンを見た。
コンロの前で、銀色の円筒に細い金属製アームを何本も生やした機械が、せわしなく銀色の腕を動かしている。イソギンチャクのような形のこの物体は、名をSPICAという。……いや、正確にはこの「モノ」だけではなく、統御する人工知能システムの全体も含めたものが「Self-studying Practically Integrated Cooking Agent」こと略称SPICAなのだけれど、説明が面倒だから、実里も含めた大抵の人間には機械の名前ということにしてある。
基本から応用まで、各種の調理工程を一台でこなせる調理ロボットは、数年前に実用化済だ。SPICAはそこに人工知能を搭載し、食味調整までの自動化を目指している。レシピデータをもとに調理を行い、食べた人間の脳波を測定して「甘い」「辛い」「ちょうどよい」等のデータを収集し、レシピに反映させ、改良したレシピの反応をさらに測定し……そうして個人単位で「究極の美味しい料理」を作り上げることを目的としている。
現在私たちSPICA開発メンバーは、初期データとして、各個人の家庭で料理と脳波の対応データを収集している。必要な初期学習さえひととおり終わっていれば、人工知能はどんどん追加学習で搭載レシピを更新していける。けれど、最初のデータがなければまず動かすことができない。それを集めるのが今の私たちの仕事だ。
と、不意にキッチンから声がした。
「調理完了いたしました。ただいまより配膳します」
人間離れした外見とは不似合いの、異様になめらかな女声の合成音を流しながら、SPICAは私と実里が座る食卓へ寄ってきた。二本のアームが白い皿を置き、一本のアームがスパゲティを盛り付け、もう一本がミートソースをかけ、残るアームがフォークやスプーンを脇に並べる。銀色の金属が剥き出しの武骨な見た目からは、想像しづらい滑らかな動きだ。
とはいえ、動きはとうの昔に完成済。問題は料理の食味だ。
「いただきます」
静かに手を合わせた後、私はスパゲティをフォークに一巻きし、口へ運んだ。
ああ、やっぱり、思った通り!
濃厚な挽肉の旨味と、トマトの酸味のバランスが絶妙だ。実里が作ってくれる、いちばんおいしいミートソースだ。こないだまでのSPICAは、ケチャップやソースをやや強くしすぎるきらいがあって、何度も再学習を試行していたのだけど……今回はちゃんと「実里の味」だ。
思わずヘッドバンドに手が伸びる。SPICA、ちゃんと学習するんだぞ。これが実里の「ちょうどいい味」!
二口、三口。フレッシュなトマトの酸味が、肉やケチャップの旨味をいい感じに引き立てていて、隠し味のガーリックや塩胡椒もちょうどよく効いていて、スパゲティもギリギリで「芯」にならないアルデンテ……口の中に満ちる味は、実里特製ミートソーススパゲティと寸分の違いもない、少なくとも私の舌では。
実のところ「これ」がアルデンテだと教えてくれたのも実里だ。「髪の毛ほど芯が残った状態」と聞いてたから、以前はもっと固いものだと思っていたけど、実際は余熱も通るからこのくらいになるそうだ。同棲を始めたばかりの頃、実里が呆れ混じりに教えてくれた。
ああ、間違いなく実里は私たちの先生だ。アルデンテを私は実里から学習し、SPICAは私から学習する。完璧なフロー!
心躍らせながら私は、前に座る実里を見た。
うつむいた実里の手は、緩やかにしか動いていなかった。スパゲティをフォークに絡めるのも、口に運ぶのも緩慢で、嫌々食べているようにも見える。たまらず私は声をかけた。
「実里、おいしくないの? 私はこれ、完璧な実里のミートソースだと思ったんだけど」
「確かにね。ほんとびっくりするくらい、私の……私がママに教わったミートソースだよ。そっくりすぎて、ほんと気持ち悪い」
実里が顔を上げた。鼻筋の通った綺麗な顔が、眉根を寄せてSPICAをにらんで……次に、私をにらみつけた。眉間の皺が深く寄った、美人が台無しの顔だった。
「綾子のお仕事のためだって、ずっと我慢してきたけど……もう嫌よ。こんな機械にママの味を盗まれるの」
「実里……えっと、あの」
何か言おうとした。でも言葉が出てこない。その間にも、実里はさらに続けた。
「わかってるわよ、綾子がこれを自分の子だと思ってるのは。でも私の子供じゃない。こんな気持ち悪い子供、私いらない」
実里が机を叩いた。フォークとスプーンが跳ねて、がちゃりと鳴る。
耳障りな音が静まると、食卓は重苦しい沈黙に包まれた。私も実里もSPICAも動かない。ただミートソースだけが、静かに白い湯気をあげていた。
スパゲティが伸びてしまう心配が、ふと頭をよぎり始めた頃、実里が口を開いた。
「綾子。……別れよう」
スパゲティが頭から吹き飛んだ。
私とSPICAを交互ににらみつけ、実里は棘まみれの言葉を絞り出す。
「私、子供が欲しい。こんな気持ち悪い機械じゃない、本物の人間の子供が欲しい」
冷ややかにSPICAを見ながら、実里は大きく息を吐いた。声が、急に滑らかになる。
「綾子はこの子を、大事に育ててあげて。末永くお幸せにね」
ここまで皮肉に満ちた、心のない「お幸せに」を、私はいままで聞いたことがなかった。
翌日、私は心の整理がつかないまま、朝食抜きで職場へ向かった。
職場は東京の湾岸エリアだ。高層ビルの八階から十五階を借りていて、そこで主にAI関連機器の開発業務を行っている……とはいえ機械自体は提携先の大手家電メーカーが製造していて、私たちの担当は主に制御システムの設計と、人工知能モデルの構築・学習部分だ。
「織部 綾子」の顔認証と指紋認証をパスしてビルへ入り、十階のSPICAテストルームへ向かうと、メンバーは既に全員が集まっていた。皆、今日の検証が大事なものだと分かっている。SPICAモデルの初期学習結果を確認し、製品版リリース準備の開始可否を判断する――ここでNGが出れば、開発工程はさらに一週間遅れる。SPICAの初期学習フェーズは既に二回延びていて、これ以上遅れると社内の予算取りにも悪影響が出そうだ。
今日が正念場……そう、頭では分かっているのだけど。
今の私は、仕事など半分どうでもよくなっていた。実里の皮肉な声音が、ずっと突き刺さっていた。
(綾子はこの子を、大事に育ててあげて。末永くお幸せにね)
帰る頃、もう実里はいないだろう。新しい、「子供を作れる」パートナーを探すために。
私との日々は、それほどに無意味だったんだろうか。
私の「子供」は、ただの不気味な機械人形でしかないのだろうか。
ぼんやり考えつつ、テストルームのSPICA四台に今週分の学習データを読み込ませていく。ここはもともと飲食店だったフロアを買い上げて改装したもので、広く機能的なキッチンと、バリエーション豊富な食材セットを確保できる大型冷蔵庫が備え付けられている。複数台のSPICAも十分に動き回れる実験場だ。
ここで行う検証では、指定された料理をすべて「人間が食用可能な品質で」作成できるかを確認する。前回は、肉じゃがの煮崩れとプレーンオムレツの加熱状態でNGが出た。
SPICAのデータ読み込みが終わったのを見届け、全員がテーブルに着席する。あとは出てくる結果を待つだけだ。
今回こそはうまくやる――肉じゃが学習担当だった後輩が、そう言いたげに口を引き結んでいる。
調理が始まった。キッチンに並んだ四台のSPICAは、イソギンチャクが蠢くように金属アームを滑らかに操っていく。冷蔵庫から次々と食材を取り出し、下処理を施し、コンロやオーブンに投入する。肉や卵の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。その中に確かに、昨日と同じトマトの香りが……ある。
朝食抜きの胃袋が鳴る音が、あちこちから聞こえる。私のお腹も鳴っている。焼魚や煮物の匂いに食欲がそそられる……けれどミートソースの香りを感じると、心のどこかが冷えていく。
やがて、とりどりの料理が運ばれてきた。見た目は完璧なプレーンオムレツ、今回は崩れていない肉じゃが、焼目が綺麗な鮭のムニエル、そして……赤褐色に輝くミートソースを乗せたスパゲティ。
食味テストはメンバー全員による検証だ。小皿に分けられた十種類の料理が、目の前に並んだ。いただきますと手を合わせ、口をつける。
ステーキ。焼き具合も赤ワインソースの風味も完璧だ。
シーザーサラダ。確認項目はほぼドレッシングのみ、余裕でクリア。
肉じゃが。崩れるか崩れないかの絶妙なラインで、醤油の豊かな甘辛さをたっぷり含んでいる。文句なし。
すべての品が、人間の作る水準を軽々と満たし……最後に、ミートソーススパゲティが目の前に残った。
「ミートソース、よくなってるじゃないか!」
後輩が叫ぶ。
「確かに。前回も合格ラインではあったけど、風味のバランスが大幅に改善しているわね……織部さんお疲れさま」
技術リーダーから急に呼ばれて、返事に困る。
「あ、すみません。……ありがとうございます」
「気のない返事ねえ。織部さんも自分の成果、確かめてみなさいよ」
促されると、手を付けないわけにはいかない。小皿に乗ったわずかなスパゲティを、フォークに巻いて口に運ぶ。
フレッシュなトマトの酸味が、肉やケチャップの旨味を引き立てている。
隠し味のガーリックや塩胡椒も効果的だ。
スパゲティも歯ごたえあるアルデンテだ。
なにもかも、昨日食べた通り……実里のスパゲティそのものだった。
「反応が悪いな織部くん。何か問題があったか?」
課長の声に曇りが混じる。あわてて、私は明るい声を取り繕った。
「ああ、いえ、問題ないです。OKです」
「そうか」
課長は、手元のノートパソコンになにごとかを打ち込んだ。
「では食味テストは全件OKだな。……皆おめでとう。SPICAプロジェクトは、これより最終フェーズに移行する。製品化に向けたプロトタイプの作成、実際の飲食店での受入テストおよび特化学習を経て、私たちの成果物は市場にリリースされる。お疲れさま」
誰からともなく拍手があがる。安堵の息と共に、ぱちぱちという音はまたたく間に全員に広がった。私も調子を合わせながら、課長へ向けて声をあげた。
「すみません、ひとつ質問いいでしょうか」
「なんだね、織部くん」
「特化学習を行うと……今の学習データはどの程度残るでしょうか」
特化学習と呼んでいるのは、SPICAの導入先に合わせた追加の学習のことだ。予定先の飲食チェーンはそれぞれ食味に個性があるから、SPICAの「味覚」をそれに近づけるよう学習させなければならない。導入先の味付けを「教師」として、それを正解とするように人工知能を導いてやるのだ。個別の利用客に合わせて学習していくのは、その先の話。
SPICAが個々の顧客のものになったとき、今の学習データは……実里の味は、どれだけ残る可能性があるだろうか。
「残念だが、今の個性がわかる形では残らないだろうな。導入先が提供するメニューに関しては、特化学習のデータが入っていく……基本的な調理工程の知識以外は、上書きされて消えていくはずだ」
少し気が楽になった。今ある実里の味は、消えるのだ。
全員が皿の残りを食べ終えたことを見届け、課長が、続いて残りの皆が席を立った。すぐさまSPICAたちが食器を回収し、シンクへと持っていく。相変わらずイソギンチャクのように蠢くアームを眺めながら、私は得体の知れない脱力感に襲われていた。
SPICAの最初のリリースから、十年が経った。
人間に匹敵する、いや、品質の安定性を考えれば人間以上の料理を作れる人工知能システムは、当初の予想を超えて広く売れた。現在では、複数都市に展開する規模のチェーン店なら大半がSPICAを導入している。個人経営の飲食店ではまだ人間の料理人が健在だけれど、それはコスト面でSPICAを導入できないか、人工知能にデータのない独創的なメニューで勝負しようとしているかのいずれかだ。とはいえ近年のSPICAは、食味データをかけ合わせて未知のメニューを開発することも始めている。独創性でSPICAが人間を上回るのは時間の問題だろう、と考える人は私も含めて多い。
そして、SPICAシステムは飲食店以外にも広がりを見せている。最もめざましい効果がみられたのは、老人介護施設での導入事例だ。入所者個別の嗜好に合わせた料理を提供するにあたって、SPICAの学習機能が非常にうまく機能した。毎食の脳波反応をひとりひとり測定し、個別の調理内容を対象者の「おいしい」理想に近づけていった結果、食事に対する入所者の満足度は飛躍的に向上したという。
その頃から、開発元である我が社には、不思議な感謝の声が多数寄せられるようになった。
「お母さんが作ってくれたご飯の味がする」
「亡くなった嫁の飯と同じ味だ」
世の中にいくら美味があふれていようと、理想はやはり大切な人の味なのかもしれない、と、私たちSPICA開発チームはそれらの声を貴重なデータとして受け取った。
三十年が経った。
定年退職後、既に九年が過ぎていた。結婚することもなく、両親もとうに亡く、兄弟は元々おらず、独りで過ごしてきた私の人生は、他人が思うほどには孤独ではなかった。仕事をしていた頃は社内外の勉強会等で横のつながりがあったし、退職してからもオンラインの各種ネットワークを駆使すれば、友人付き合いが尽きることはなかった。数十年前のSNS黎明期でさえ、ネット上のつながりは人の孤独を大いに癒してきたのだ。はるか令和の昔ではあるまいし、いまどき、独身すなわち孤独という等式はまったく当てはまらない。
とはいえ生計を共にする人間がいないと、身体の衰えに伴う生活の不便はどうにもならない。急病や怪我の不安もある。私は七十歳を前にして、老人介護施設に入所することを決めた。
介護施設にはおなじみのSPICAがいた。イソギンチャクのようなアームを自由自在にくねらせて、入所者の食事をかいがいしく作っていた。SPICAの機体は長い年月の間に何度もバージョンアップされているけれど、この基本的なフォルムだけはそのまま維持された。世間に一度浸透した姿形を大きく変えるのはよろしくない、という思惑らしい。
私は脳波測定バンドを頭に巻いて、施設での最初の昼食に向かった。出てきたのは生クリームを基調にしたスイーツパスタとグリーンサラダ、そして果物の盛り合わせだった。スイーツパスタは名前の通りの甘いパスタだ。SPICA登場以前には、少なくとも広く知られた料理ではなかったけれど、人工知能が様々な食味を掛け合わせるうちにレシピが「発見」され、今では人気ジャンルのひとつだ。……考えてみれば、SPICA以前にもカルボナーラなど生クリームを使ったパスタは存在したわけで、試す人間がいなかったのが不思議なくらいだ。
蜂蜜入り生クリームの濃厚な甘味を、固めのパスタに絡めていただいていると、ふと物足りなさを感じた。
この麺には、もっと違うものを絡めたい。たとえばフレッシュなトマトの酸味とか、濃厚な挽肉とトマトケチャップの風味とか。
小さく溜息をつきつつ食べ終わると、すぐさまSPICAのアームが食器を持ち去っていった。
その日、夕食に出されたのはミートソーススパゲティだった。まるで私の心を読んだかのようだ、が、SPICAの機能を考えれば不思議ではない。脳波測定バンドを通して得られた反応から、求めていた食味を正確に割り出したのだろう。
だが一口食べて、私の心臓は大きく跳ねた。
あまりにも懐かしい、ミートソースの味だった。
フレッシュなトマトの酸味が、肉やケチャップの旨味をいい感じに引き立てていて、隠し味のガーリックや塩胡椒もちょうどよく効いていて、スパゲティもギリギリで「芯」にならないアルデンテ……間違いなく私が、四十年くらい前の一時期に好きだった味だ。
「なんで、この味……」
フォークを手に呆然としていると、二十代後半くらいに見えるヘルパーさんが、目を細めて笑いかけてくれた。
「驚かれました? SPICAは、昔好きだった味をそのまま再現してくれることがあるんですよ。普通五、六回くらいはかかるんですけど、織部さんはとっても早かったですね。相性が良かったんでしょうか」
もちろん知っている。私はSPICAのおおもとの開発者なのだから。
この味がすぐに出てきた理由も想像はつく。学習が進んだ後も、SPICAは初期データとしてこの味を奥底に隠し持っていたのだろう。
二口、三口。スパゲティをフォークに巻いて、口に運ぶ。
華が咲くように、懐かしい味が広がる。同時に目の前で、ゆるいウェーブの茶髪を揺らしながら、幻の実里が冷たく嗤った。
(綾子はこの子を、大事に育ててあげて。末永くお幸せにね)
ふらりと上体が傾ぎ、右手からフォークがこぼれた。床で鋭く鳴ったフォークを、すかさずヘルパーさんが拾ってくれる。
「どうされました。ご気分、悪いですか?」
「……ええ、ちょっと……ね」
あれからずっと独り身だったことを、悔いてはいない。
けれどそれを、想像の中とはいえ彼女に嘲笑われると……少し、こたえる。
彼女がどこでどうしているかは知らない。結局子供は持てたのか、それもわからない。ただ一つ確かなのは、私のDNAを受け継ぐ存在はこの世にいない、ということだけ。
「お食事、作り直しましょうか?」
ヘルパーさんが訊いてくる。
「……可能なら、お願いしたいわ」
「ご希望はあります?」
少し考えて、ふと、私の脳裏に一つの案が浮かんだ。
「ねえ、この近くに、人間が料理してくれるレストランはある?」
「はい、何軒かは……どうされました?」
私は、食べかけの皿にちらりと目を遣った。少しだけ崩れた、艶やかなミートソースとスパゲティの小山に申し訳なさを覚えつつも、私は言った。
「できればそこで、ミートソーススパゲティを……人間が作った、SPICA製じゃないのが食べたい」
そうするよりほかに、追いかけてくる影を振り払うことはできないように、私は感じていた。
幸いにも、施設から徒歩五分ほどのところに個人経営の洋食屋があった。夜八時過ぎ、「人間手作りの懐かしい味」と木の看板がかかった小さな店には、私とヘルパーさん以外に五人ほど客がいた。空いた席に座り、「ミートソーススパゲティ」を頼むと、早速店長が奥のキッチンで麺を茹で始めた。
けれど調理が進むうち、私は不安を感じ始めた。あたたかな水蒸気に乗って漂ってくるトマトの香り。コンソメやガーリックがかすかに混じった、まだまだ「未熟な」トマトソースの匂い。とても覚えがありすぎる。
やがてトマトの瑞々しい香りは、記憶と同じように、濃厚なケチャップや挽肉の匂いに塗り潰されて……やがて、一皿のミートソースとなって目の前に現れた。
恐る恐る、口へ運ぶ。
思った通りだ。
肉やケチャップの旨味、それを引き立てるトマトの酸味、隠し味のガーリックや塩胡椒の効き具合、芯にならないギリギリの「アルデンテ」の固さ。なにもかもがSPICAの――実里の味と同じだった。
頭が重い。振り払うように首を振ると、店長が不機嫌そうににらんできた。だが文句を言いたいのは私の方だ。
「これ、SPICAの味ですね。看板に偽りありですよ。『人間手作りの懐かしい味』じゃ、全然ない」
にらみ返しながら言えば、店長はふんと鼻を鳴らした。
「失礼ですが、御歳は」
「……六十九です」
「じゃあ世代的にわからないかもしれませんねえ。うちで出してるのは、二十年くらい前の学校給食の味ですよ。いまの三十代から四十代くらいで、このスパゲティを知らない人間はいません」
驚いて、私は店長をまじまじと見た。三十歳前半くらいに見える白衣の大男は、他の客たちを見回しながら堂々とした声音で続けた。
「すいません、皆さん」
「なんだい、店長」
「うちのスパゲティ、『懐かしい味』であってますかね?」
客たちが一斉に頷いた。
「間違いないよ」
「店長くらいあの味を再現できるシェフ、他にいねえだろ」
ああ、皆、騙されている。
二十年前なら、学校給食センターにもSPICAは普及していたはず。間違いなく、彼らが食べたのはSPICAの味だ。給食用なら特化学習もされていないだろうから、実里の味がそのまま出てきたのだろう。全国的に……いや、もしかすると、SPICAが輸出された他の国でも。
「どうされました、織部さん?」
ふらつく上体を、ヘルパーさんが支えてくれる。……彼女はどうなのだろう。二十代後半なら、店長や客の世代よりは少し若いけれど。
「ねえ。これ、ちょっと味見してみてくれる?」
促すとヘルパーさんは、首を傾げながらも一口分を口へ運んだ。
「うーん、小学生ぐらいの頃に食べた覚えがあるような……懐かしい味って言われたら、そうかもしれません」
彼女までもか!
若い人たちはもう皆、人間とSPICAの区別もつかなくなっているのか――そこまで考えたところで、私の脳裏を一つの可能性が過ぎった。
この店主は、SPICAに味を教わった。
この店に来る客たちも、傍のヘルパーさんまでも、SPICAの味に馴らされている。
雛鳥がはじめて見たものを親と思うように、人もまた、はじめて触れた味を慕い続けるのだとしたら。
(この世代の誰もにとって……実里の味は「懐かしい味」なんだ)
不意に笑いが込み上げてくる。
このミートソースは、実里の「ママの味」だった。「ママの味」を盗まれたと怒り、実里は去った。
その味が私の手で、数えきれない人たちの――ある世代の何百万人の「懐かしい味」になった。
で、あるならば。
(私は確かに……この世に子供を残している)
SPICAが育てた何百万の子供たち。それは私の孫でもある。だって、SPICAは私の子供だから。子供の子供は、孫。
(ふふ。……実里)
どこにいるのかもわからない彼女に向けて、語りかける。
(私、幸せだよ。……沢山の孫に囲まれて)
日本国中に、ひょっとしたら海の向こうにも、私の孫はいる。私が教えた味で育った、かわいいかわいい孫たちが。
なあんだ、私はちゃんと残してるんじゃないか。次の世代に引き継ぐものを。
SPICAは既に、ヒトにとって不可欠な存在になった。そしてSPICAが使われ続ける限り、この味は滅びない。全ての基盤になった初期データとして、学習モデルの奥底に残り続ける。
いつしかそれは懐古の対象になった。もしかすると伝統にさえなるのかもしれない。
そう。私が生んだものは、全人類の「ママの味」なのだ。
(楽しいなあ。百年後の誰かが、誰のレシピかも知らずに、このミートソースの味を懐かしむとしたら)
私の「子孫」たちが、実里のミートソースを伝えていくとすれば……彼女はどんな顔をするだろう。
ああ、どうして気が付かなかったんだろう! こんな楽しい事実に!
私は大きく頷き、手元のフォークにスパゲティをゆっくりと、たっぷりと、巻きつけた。
〈了〉