配下1号
灰色の雲が空を覆った肌寒い日のことだった。
沈みかけていた太陽も薄灰色の雲で覆われた黄昏時のことだった。
鬱蒼と生い茂る森の中を1人の人間が歩いていた。
どれぐらいの時間、どれぐらいの距離を歩いてきたのだろう。
疲労によって虚ろな目、頬に流れ落ちた汗が、その者の顔についた砂埃を落としていく。
その者は、肩で息をしながら重い足を前へ、前へと進めていく。確かな、目標に向かって――
灰色の分厚い雲からぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。
それすら意に介さず、その者は歩き続ける。
何がその者をそうさせるのだろう。
その理由を知るものは、それを知る者はまだこの世界にはいない。
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――――――
――――――――
“僕”落胆。
屋敷の廊下の窓から外を眺めていた僕は今日何度目かのため息を吐く、と同時にお腹が鳴った。
僕はまた、恨めし気に窓の外を――3日前から降り続いている雨を見る。
「魔王様~、天気を良くする魔法とかないのー?」
《雨は降らせられても、空を晴らす魔法はないな》
「……使えね」
《おい、ボソッと言っても聞こえてるからな》
魔王様はあくまで魔王であって、神ではないから天候1つも変えられないんだね。理解理解。
でも……
「このままじゃ僕、栄養失調で死んじゃうよ」
この屋敷に来て早1週間。その間の僕の食事は1日1食。主食は釣りで釣った小魚と、森の中に生えていた少ない山菜だけ。
魚も何匹か蓄えてはいたけど、3日前からの雨でついに昨日底をついた。だから今、この屋敷にある食糧は塩、砂糖、蜂蜜だけになっている。
蜂蜜と砂糖で飴を作って腹の足しにしたりもしたけど、空腹感はすぐにやってくる。
《今日はもう1日寝て、明日に懸けるか》
「明日も雨だったら?」
返事は返ってこない。
別に雨の中でも山菜取りや釣りは出来る。あくまで僕の体力、体型が平均的な9歳児ならね。
免疫力も低い今の僕じゃ、風邪をこじらせただけで死ぬかもしれない。魔王様もそれを危惧しているから食糧を取りに外へ行け、なんて言わないし言えない。
「紙とか革とか食べようか?」
《腹を壊して終わりだろ》
「じゃあ魔王様がいい案出してよ」
《お前にもっと体力があればな……。街に行って食糧も買えたんだが》
「僕悪くないもん」
プイッ、と僕は顔をそらす。
そんな体力のない死にかけの子供を使って、人類を滅亡させようとしているのはどこのバカな魔王だ、って話じゃない?
「魔王のくせに配下が1人もいないぼっちの自称魔王様が悪いんだ。衣食住を提供するっていう約束も守れてないじゃないか」
《ぅぐっ……》
ハァ、とまた深いため息を吐いて、僕は窓から離れる。
仕方ない、また蜂蜜の飴でも作ろう。
廊下を進んで、階段を下りて厨房のある1階へ。そこで違和感。
「ん?」
目についたのは玄関ホール。その床に水滴が落ちて濡れた跡が残ってた。それだけじゃない。僕よりも遥かに大きい人間の足跡まで乾かずに残っているんだ。
僕は今日、1度だって外に出ていない。だから雨の水滴で床が濡れるわけがない。
魔王様は今、肉体を持っていない。持っていたら僕の体に入り込んでいるわけがないから。だからこの足跡が魔王様のものであるはずがない。
なら、考えられることは1つだけ。でも、この前魔王様から聞いた話がそれを否定する。
「魔王様、これは何の足跡かな?」
《…………》
返事は、ない。
あり得ない。あり得ちゃいけないことに、魔王様も熟考中みたい。
だってそうだろう。
あれだけ誇らしげに魔物除けをしてるだとか、魔王が住む屋敷だから人除けもしてる、って言ってたんだ。
「魔法が解けちゃったとか?」
《解けたら分かる》
「じゃあ、この足跡の主は……人間でも魔物でもない?」
って僕が言ったら、急に体の支配権を奪われた。
驚く間もなく、僕の体は魔王様によって動かされて、さっき下りてきた階段を静かに駆け上がっていく。
得体の知れないナニカがこの屋敷にいる。
まだあの足跡や水滴の落ちた跡が乾ききっていないっていうことは、そのナニカは本当についさっきこの屋敷の中に入ってきたことになる。
魔王様でも、その存在に気付けなかった。……僕と話していたのが原因かもしれないけど。
《喋るなよ》
得体の知れないものに居場所を勘付かせるな、ってことなんだろう。
頭に響いてきた魔王様の声に、僕は心の中で頷いおく。
(どこに行くんだろう?)
2階に上がった魔王様はそのまま迷わず寝室へ向かって、部屋の中に入る。
クローゼットから黒い外套を取り出して、その外套で僕の体をすっぽり包む。このままじゃ裾が長過ぎるから、お腹のところで折ってベルトで固定してくる。
それでそのままフードを被って、足を窓のバルコニーの方へ向けた。
(えーっと……これはもしかして、)
僕の体を使う魔王様は静かに窓を開け閉めしてバルコニーに出た。
湿気を含む雨の匂い。体を覆う外套が雨を弾いて、ポツポツと音を鳴らす。
(やっぱり外に出た。ここから飛び降りるとかじゃないよね?)
そんなことしたら絶対、確実に骨は折れるだろうし、最悪死ぬかもしれない。
これは体の支配権を奪い返した方がいいな。
飛び降りなんて絶対嫌だ!とか僕が考えていたら、魔王様は部屋の中から見えない位置に移動して、屋敷の壁に背中を張り付けて屈み込んだ。
《ここでこのままやり過ごすぞ》
両膝を折り曲げて、魔王様はそのまま僕の体で体育座りをする。体温を逃がさない、下げないためなんだろうけどお尻がちょっと冷たいや。
ここまで音を極力立てずに走ってきたからだ。体力のない貧弱な僕は肩で息をしてるけど、その息遣いは雨音が隠してくれる。
《俺はちょっと見てくる》
奪われていた体の支配権が戻る。魔王様が僕の中から出て行ってふっ、と体が軽くなる。
尚も魔王様の声が頭の中に響く。
《お前はここを動くな。絶対に意識を手放すなよ》
また無茶なことを。
屋敷の中に隠れるのよりは見付かる可能性が低いし、見付かった時は飛び降りて逃げるっていう逃走経路まで考えているのはいいと思うけどさ……。
侵入者が出て行くまでこのままでいさせるつもりなら甘いとしか言えないよね。だって、侵入者が出て行かずに居座っちゃうかもしれないし。
あ、でも食糧がないところに居座っても生きれないか。あくまで侵入してきたのが人間だったら、の話だけど。
それとも「見てくる」っていうのは、退治しに行ってくるっていう意味だったのかな?
(よく分かんないや)
降り続ける雨を見ながら、僕は思考を続ける。
(それにしても、侵入者の目的は何なんだろう)
たまたま森に迷い込んで、雨が凌げる場所を探して屋敷に入った?
それなら「誰かいますかー?」って一声ぐらいかけそうだよね。ただ金目の物とか、食糧を奪いに来た盗賊、とかなら声なんてかけないだろうけど。
どっちだろう、どんな相手だろう、って考えを巡らせていたらまたお腹が鳴る。そういえば結局、蜂蜜飴作れなかったんだった。
ぐーぐーと鳴るお腹を押さえ込むように、僕は自分の両膝に顔を埋めた。
何分、何十分そうしていただろう。
時折屋敷の中から誰かが暴れるような音とか、人の叫び声とも獣のうめき声ともとれる声が聞こえてきたけど、きっと魔王様が侵入者と何かやっているんだろうって考えないようにした。
雨は止むこともなく降り続けて、外套越しに僕の体を叩き続けてくるからさすがに寒い。
暖炉で暖まりたい。お風呂に入りたい。何でもいいからお腹に入れたい。なんてことを僕は頭の中でループさせ続ける始末。
だからと言ってここから動くなんていう愚行は犯さない。なんせ精神年齢26歳だからね。自分からトラブルに巻き込まれに行ったりしない。魔王様が戻ってくるまで僕はここで待ち続けるよ。
(……本当に戻ってくるよね?)
僕のことを忘れてたりだとか、侵入者の体の方が魔王様への適合率が高かったりしないよね?
ちょっと不安になってきたな。覗くだけ覗いてみようかな。
(いや、ダメダメ!)
そうやって好奇心に身を任せたらろくなことにならないんだ!
別に忘れられていたっていいし、僕以外の体が見付かったならいいじゃないか。人類を滅亡させようと目論んでいる自称魔王様との関係が切れるなら良いことだ。
まぁ、そうなったらそうなったで衣食住が提供されなくなって生きていけないんだけど……しょうがないよね。このまま眠るように逝こう。
重くなってきた瞼を下ろして、この世界に、今世にさようなら。
《意識を手放すな、って言っただろ》
さようならをしようとしたら頭に響いてきた声に僕は肩を跳ね上げる。
きゅ、急に話しかけてこないでよ。それにまだ手放す1歩前だったよ、っていうことを言いたかったけど、声を出していい状況か分からないからとりあえず黙っておく。
僕が返事を返さなかったからだろう。魔王様は思い出したように「あぁ」って言った。
《もう喋っていいぞ。全部終わった》
「とりあえずお風呂入りたい!」
《開口一番がそれかよ……》
落胆したような魔王様の声が頭に響く。
それ以外に何があると?寒いんだからその言葉であってるでしょ。
《もっと色々あるだろ?どんな奴が入ってきてたんだ、とか。終わったってどういうことだ、とか》
「あ、僕そういう面倒事は関わりたくないからいいです」
立ち上がって外套についた雨粒を払って、僕はバルコニーから部屋の中に入る。
そのまま暖炉で火をおこして、浴室に行ってバスタブにお湯を張った。
外套を脱いで、暖炉の傍に干して僕はやっと一息つく。そしたらまたお腹が鳴った。
「うぅ~……」
せめて蜂蜜をひとなめしてからお風呂に入ろう。
寝室から出て、僕は1階の厨房に向けて歩き出す。――と、そこで異様なものを目にして足を止めた。
「何あれ」
廊下の奥。そこに血溜まりをつくって倒れ伏している人の形をしたもの。
もしかして……
「あれが侵入者?」
《そうだ》
死んでるの?そう魔王様に尋ねようとした時、倒れていた侵入者の体がピクッ、と動いた気がした。……まだ、生きてる?
あり得ない。致死量っていうのがどれぐらいなのかは分からないけど、あの出血の量だったら絶対死んでるはずだ。これもあくまで人間だったら、の話だけど。
僕は1歩後退る。それとほぼ同じタイミングで、侵入者の体がおもむろに動き出した。
《起きたみたいだな》
僕はまた1歩後退る。
侵入者が肩で息をしながら、咳と一緒に血を吐き出しながら身を起こす。
またまた1歩後退る。
視界の端で動いた僕を捉えたんだろう。侵入者がこちらを向いた。その血に濡れた鋭い黄色い瞳と目が合った。瞬間、
(あ、裏切る人だ)
何故か唐突にそう思った。よく分からない既視感に僕は眉を顰める。
侵入者は顔の血を拭って何かを呟いていた。
「子供……?そうか、お前が……」
侵入者が立ち上がる。
ミッドナイトブルーの短髪に引き締まった体。背負われた大剣に、どこかの騎士を思わせる服装。
知ってる。僕は、この人をどこかで見たことがある。どこだったっけ?
記憶を辿り始めた僕の頭の中にまた魔王様の声が響く。
《こいつが今日から俺の配下になった“ヴィヴィアン”だ!》
「!」
“ヴィヴィアン”
その名前を聞いた時、頭の中でカチッとパズルのピースが嵌ったような気がした。
あぁ、そうだ。
――思い出した。
どうして、この侵入者を知ってると思ったのか。
どうして、自分の顔に既視感を感じたのか。
そうだった。この侵入者はヴィヴィアン、そして僕は……
――メロルゥ。
あの“乙女ゲーム”に出てくる、準ボスじゃないか。