世界は無情
前略 取り急ぎ、用件のみを申し上げます。
あたし、才崎 京伽という人間は死に、どうやら異世界で同性の“僕”として転生を果たしたようです。
お父さん、お母さん、兄's、先に逝った娘をどうかお許し下さい。
……なんて、ちょっとした現実逃避をしても、目の前の光景は変わらない。夢でもなければ、幻でもない。
僕の目の前には今も内側から爆ぜた魔物の死骸があって、その返り血だとか内臓だとかを全身に浴び続けている。……うん、トラウマものだよね。
逃げようにも、ううん、動こうにも腰が抜けて動けない。指の1本だって動かせない。呼吸も思うように出来ない。
なら周りに助けを求めればいいんじゃない?と思うかもしれないけど、今の僕を助けてくれる人なんてこの世にどこにもいない。
まぁ、そんな大前提がなくたって周りの人は助けてくれないだろうね。
だって、それどころじゃないから。
「うわぁっ!こ、こないでくれぇ!!」
「嫌ぁぁぁ!誰か!誰か!!」
「助けてくれ!私だけでもどうか!どうか!!」
「くそっ!一体全体何なんだ!!」
観客席にいる人達はそんなことを叫びながら、黒い霧?靄?煙?みたいなものから逃げ惑っている。
どうやらあの黒いナニカに全身を呑まれると溶けて死ぬみたい。……ここは地獄かな?
聞こえてくる悲鳴や怒号。逃げ惑っているであろう人達の気配。見るも無残な死を遂げる人達。そんな人達を嘲笑うかのように舞い踊る黒いナニカ。全身にかかるさっきまで生きていた魔物の生温かい血肉。
その全てが、僕をショックで気絶させるには十分だった。
あぁ……何でこんなことに。
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前世のあたしもだけど、今生の“僕”もどこにでもいる普通の子供だ。
普通の恵まれていない子供。
貧民街で生まれた“僕”は母親の顔を知らない。父親を名乗る男曰く、僕を産んですぐに僕と父親を捨てて他の男のところに行ったらしい。
以来父親は酒とギャンブルに溺れ、そんな女が産み落とした僕を暴力で痛めつけた。所謂虐待のネグレクトってわけ。
不運の中の幸運だったのは物心がついた時に前世の記憶を思い出した、ってことかな。前世では26年も生きたんだ。死なないための最低限の知識があった。
暴力を振るわれる時、頭などの急所は必ず避けたり、守りましょうだとか、残飯や泥水を啜って飢えを凌いだり、ね。
頑張って耐え忍んで生きましたとも9歳まで。でも父親の酷さは留まるところを知らない。9歳の誕生日に借金のかたに売られましたとも奴隷商に。
不幸中の幸いはボロボロで汚かったから性奴隷にならなかったことかな。目を引くような髪色じゃなくて花紺青色の地味な髪色だったからっていうのも理由の1つかもしれない。
だけど変態に買われたのは同じ。子供同士が殺し合ったり、子供を魔物に食わせたりする見世物に出されたよ。
僕を買った変態が僕を含む5人の少年少女に言ったのはこの一言だけ。
「30分間逃げ切ったら助けてやろう」
コロシアムの闘技場を思わせる柵で囲まれたリングの上。
僕達の前に放たれたのは体長4~5mはあるであろう獣型の魔物。ゲームとかで出て来るウルフに近いかな。
もうその時点で分かるよね。あ、終わった、って。
湧き上がる仮面をつけた観客達。恐れ戦き、悲鳴を上げながら一目散にリングの端へ逃げる僕以外の子供達。
僕はというと今世を諦めて棒立ち。
食べられたらやっぱり痛いのかな。せめて嬲り殺されず即死がいいな、なんて考える始末。
魔物の低い唸り声。ボタボタとリングに垂れる魔物の涎。きっとこの魔物も僕を買った変態に捕まって、ずっと餌を与えられていなかったんだ。
……痛みを感じませんように。心の中で合掌。
来世に期待はしない。今世がこんなだから。もう転生したくない。ずっと、眠っていたい。
魔物がリングを蹴る。逃げない棒立ちの僕目掛けてやって来る。
僕は全身に力を入れた。目は瞑らない。目を瞑る方が怖い。
魔物が大きな口を開く。そこに見えた巨大で鋭利な牙に心臓が跳ねた。もう目と鼻の先の距離。
――もう食べられる!
瞬間、魔物がビタッ、と僕の前で止まった。
え、何で……?って困惑する僕の姿が魔物の大きな両眼に映る。歓声を上げていた観客達の間でもちょっとしたざわめきが起こる。
時間にして数秒。だけど生きた心地がしていない僕には長時間に思えた魔物との一対一の静寂。
それが破られる。
《……どウしてオ前は逃ゲなイ?》
「ぇ」
聞こえた……ううん、耳には届いてないから。響いた?かな。
頭に直接響いた声。それが目の前の魔物からの言葉だって気付くのに数秒かかった。
周りの人には聞こえてない?
っていうか魔物って人語を話すの?それとも魔物の言葉が分かる“僕”がおかしいの?って頭の中は色々な疑問と自分が置かれている状況でパニック状態。
いっこうに答えない僕に痺れを切らしたのか、魔物が言ってくる。
《ドうしテお前は逃げナいと聞イていル》
どうしても何もこの体長差だよ?逃げられるわけないじゃないか。
僕よりも小型で鈍足な魔物だったら希望が持てたかもしれないよ?でも、違うじゃん。って、心の中では滑らかに言葉が出て来るのに、口からは一切出ない。出せない。
呼吸が浅くなって、全身から嫌な汗が吹き出る。目も逸らせない。鼓動も早くて、今にも心臓が爆発して死んじゃいそう。
僕は、純粋な恐怖に支配されているんだ。
《話せナい……?言葉ヲ知らないノカ?》
何でこうもこの魔物は次から次に質問を投げかけてくるんだろう。食べるならさっさと食べちゃえばいいのに。
肉体的にじゃなくて精神的に嬲り殺されてる状態だよ、今の僕。早く楽にしてほしい。いや、だからって痛いのは本当に嫌だけどね。
額から頬を伝って流れ落ちてくる汗が不快でならない。永遠にも感じられる長くて短い時間。その状況から逃げ出したくて、僕は覚悟を決める。
「そ、即死させてから……食べて下さいっ」
踊り食いとか本当にヤダ!
意思の疎通が出来るのであれば!魔物にだって感情って呼べるものがあるのかもしれない。せめてもの慈悲を僕に下さい!
だけど、返ってきた言葉は僕が想像していなかった一言。
《……は?》
まるで「何言ってんだ、コイツ」とばかりの声?言葉?が頭に響く。
そっちが戸惑うなよ。僕のなけなしの覚悟と勇気とその他諸々の感情を返せ。得体の知れないモノを見るようなそんな視線を向けてくるな。
とかいう恨み辛みを心の中で呟いている時だった。
頭の中に、大きな笑い声が響いて来た。
その声とうるささに驚いた僕が目を見開いていると、もっと驚くことが目の前で起こった。
爆ぜた。
魔 物 が 体 内 か ら 爆 ぜ た。
そしてその体内から黒い霧?靄?煙?みたいなものが飛び出して、四方八方に散り散りになった。
あっという間の出来事にきっと、この場にいる誰もが状況を理解出来なかったんだろう。阿鼻叫喚の地獄が完成するまでそう時間はかからなかった。
意識を強制的にシャットダウンさせた僕には、その後ここにいる人達がどうなったかなんて分からないし、知らない。……知りたくもない。
そう考える僕は――愚かでしょうか?