忘れゆく
三題噺もどき―にひゃくにじゅうはち。
穏やかな日々が続く。
暖かな日差しが、人々を照らし、春の訪れをささやく。
未だ風は冷たく、冬が居座っているが。
それでも確かに、季節は巡っているのだと告げるように。
「……」
明けない夜はないという。
日が沈み、夜が訪れ、その暗闇が永遠に思えても。
次の日になれば日は昇り、新しい朝を告げる。
「……」
止まない雨はないという。
いくら酷い雨であろうと、雲が流れ、空が開く。
美しい青空が町を包み、時には七色の橋を架ける。
「……」
1人が居なくなろうと。
1人悲しみに暮れようと。
世界のひとかけらが、無くなってしまおうとも。
「……」
季節は巡り。朝はやってきて。時は確かに過ぎゆく。
「……」
あぁ、本当に、残酷な世の中だ、と。
私は1人沈みゆく。
―誰もかれも、忘れていった。あの人。
「……」
季節が巡り、朝を迎え、時が経ち。
あの人が亡くなったあの日の事を、少しずつ置き去りにしていく。
1人、ひとりと、忘れていく。
「……」
私だけは忘れられずに。
1人ここに沈んでいる。
「……」
このブーツお気に入りなんだと、はにかんでいたあの人。
どこかアンバランスな感じがあって、正直似合ってはいなかったけれど。それでも、あの人は大切に大切にしていた。
大き目のデザインで、黒くてかっこいい感じだ、印象的な。あの人のお気に入りのブーツ。
いっしょに送ってあげたから、きっと今でも履いているだろう。
「……」
私より年上で、大人らしい大人だったあの人。
けれど、コーヒーが苦手で、少し恥ずかしそうにしていた。ココアとか、カルピスとか、そいうのが好きなのだと。
私はコーヒー派だったから、朝に飲んだりしていたのだけれど。
一度だけ、少し頂戴と言われて。案の定苦虫を食い潰したような顔になっていたけれど。
その後、甘いココアを作ってあげた。そうしたら、やっぱりこれがいいやと、とても可愛らしい顔で笑っていた。
「……」
いっしょに暮らすようになって。
2人の決まり事として、食卓はいっしょに囲もうと決めていた。
仕事の関係上、遅くなることはあっても。食卓だけは2人で囲んだ。
お互いの食事を作ったりして。
頂きますと、ご馳走様をして。
「……」
小さなベランダにでて。2人で月を眺めたりもした。
お互いお酒も好きだったから、飲みながらだった。
のんびりとした会話をして、笑いあったりして。
「……」
いつだったか、月がきれいですねなんて言っていたから。
思わず顔が真っ赤になるようなことがあった。返事は、何と答えただろう。
―忘れてしまった。
「……」
忘れて、しまった。
「……」
忘れないように。1人沈んでいるけれど。
記憶に、思い出に、浸っているけれど。
どうして、無くなっていくのだろう。
「……」
少しずつ、私の中から消えていく。
「……」
もう、声が朧げになってきた。
「……」
きっと、顔も朧になっていくのだろう。
「……」
いやだ。
失くしたくない。
忘れたくない。
覚えて居たい。
思っていたい。
想っていたい。
「……」
それなのに。
それなのに。
「……」
あぁ、どうして。
失ってしまうのだろう。
お題:ブーツ・コーヒー・月