歩く
「歯医者さんの看板、やっぱり見えないね」
うん、と、有希子は頷く。
有希子の数歩先を歩いていた姪の舞香が、怪訝そうな顔で振り向いた。彼女は今しがた通りすぎた辺りを示した。街路樹が道の左右にあって、上部で枝や葉が重なっており、トンネルのようになっているところだ。
「ちょっと、枝を切ればいいのに」
「あの看板をつくった頃には、木はなかったんだろうね」
有希子もその辺りを見てそう云う。街路樹の間には細いポールがあり、それには小さな、端の錆びた看板がついているのだ。有希子が小さい頃通っていた歯科のものである。
舞香は散歩でここを通る度、あの看板の話をする。彼女はあの看板を気にいっているようで、しきりと、枝を切ったら車からでもちゃんと見えるのに、とか、ほんのちょっと場所を動かせばいいのに、とか、そういうことを云う。あの看板は車でこの辺りを通っても見えず、街路樹の枝を潜るようにして歩くと見える。
「まーちゃん、ファンブル行こっか?」
「うん!」
舞香は嬉しそうに、くるくるとまわる。有希子はそれを見ていると、自然と笑顔になった。
有希子は三十八歳で、独身、ひとり暮らしだった。
小学校の教員免許を持っており、二年ほど市内の小学校に勤めていた。その後、自己都合で退職し、それからはおもにひとりでできる、時間の融通がきく仕事をやっている。
今の収入源は、ホームページ制作と代行業だ。ホームページ制作は読んで字のごとく、代行業は、墓参りから旅行の代行までやっている。
ひとり暮らしだった、と過去形なのは、今は姪の舞香が一緒に暮らしているからだ。
半年前、弟の奥さんから、舞香が学校へ行かなくなったと相談された。
お義姉さんは先生やってたから、なにかわからないかしら、と頭を下げられ、有希子は舞香に会った。
といっても、弟夫婦は市内にある実家で暮らしているし、弟の実家だからそこは有希子の実家でもある。数週間に一回、弟の奥さんのおいしい手料理をご馳走になりに行くこともあった。だからその時も、食事会、という名目で実家へ戻っただけだ。
舞香は数週間の間に、かなりふとったようだった。ほんの少し会わないだけだったのに、かなりの変化を見せた姪に、有希子が驚いていると、弟の奥さんが耳打ちしてきた。――最近、やけに沢山食べるの。
舞香はもともと、口が重たい子だ。内弁慶、ということでもなく、家でもほとんど喋らない。有希子も、舞香が必要以上のことを喋る場面には、それまで遭遇したことはなかった。
その日も舞香は黙りこくってご飯を食べ、母親においしい? と訊かれて頷くだけだった。ただ、何度か自分で炊飯器まで、おかわりをよそいに移動していた。小食な子だったので、どうも無理して食べているらしく有希子には見えた。
食後、舞香と話そうとしたのだが、彼女は有希子の言葉に頷くか頭を振るかで、会話らしい会話はなかった。
ただ有希子が、まーちゃん最近学校へ行ってないんだってね、と訊くと、舞香は有希子を睨むようにした。それから、行きたくないだけ、と投げつけるように云って、部屋へこもってしまった。
舞香が部屋から出てこなくなったので、有希子は憔悴した様子の弟の奥さんと、しばらく話した。彼女は自分の子育てが間違っていたのではないかとか、甘やかしてしまったのではないかとか、そんなようなことをぼそぼそと喋り、有希子は慰めに徹した。
いじめがあるのではないか、と有希子がおそるおそる口にしたところ、弟の奥さんは泣きながら頭を振った。
舞香が登校をいやがり、部屋に立てこもって登校を拒否しはじめたので、そのことはまっさきに舞香に訊いたそうだ。しかし、舞香はとにかく行きたくないの一点張りで、いじめについては否定しているという。
担任にも訊いたが、そういうことは起こっていない、と云われたそうだ。舞香のことでアンケートまでやってくれて……と弟の奥さんは声を詰まらせた。有希子は、小柄で華奢な彼女のせなかを撫でていた。
しばらくすると弟が帰ってきて、三人での話し合いになった。弟も、舞香のことには手を焼いているらしい。可愛いひとり娘が、いきなり学校へ行かなくなったのだ。心配になるのは当然だろう。
弟は、舞香への対応を誤ったと思っているらしかった。彼は舞香が登校を拒否するようになった頃、かなり高圧的に登校を命じた。無理矢理車へおしこんで、学校の前でおろすようなこともしたらしい。
けれど舞香は決して校門をこえず、車から放り出されるやどこかへ走って行ってしまった。
そういえば二週間前に、舞香が行ってない? と弟から電話があったな、と有希子は思い出していた。
舞香は二時間ほど、行方不明だったらしい。結局、弟は警察へ通報し、舞香は学校から何キロメートルもある公園で見付かった。
そのことがあって、弟は舞香に対して強硬手段に出るのをためらっているし、舞香が自分と目も合わせてくれなくなったと傷付いていた。
翌日、有希子は弟夫婦に頼み込まれ、舞香をつれて家へ帰った。有希子が教員免許を持っていること、中学生の頃ふたつきほど不登校だったことを理由に、舞香の気持ちがわかるだろうから、舞香の勉強をみてほしいから、お金なら出すから、と押し切られたのだ。
最初からふたりがそういうつもりで自分を呼んだのだろうと、有希子はその段で気付いた。
はじめ、舞香は警戒していたし、有希子は舞香をもてあましていた。
舞香はほうっておいても教科書を読んだり、問題集をやったりして、有希子が勉強しろと口うるさく云う必要もない。ただ、食事は好き嫌いが激しく、有希子がよく食べているインスタント食品やレトルト食品などは、出しても残した。有希子はだから最近、そういったものには頼れなくなっている。
一からつくっても舞香が食べないものは、幾つかあった。舞香はさつま芋や里芋が嫌いだ。大豆もかぼちゃも食べない。有希子が困っていると、隠れるみたいにして冷蔵庫へ向かい、牛乳やヨーグルトを食べている。牛乳でおなかを壊すこともあるのに、舞香は毎日牛乳を飲みたがった。
二週間ほどして、舞香が不健康にふとっているとかねて考えていた有希子は、散歩へ行こうと提案した。
舞香は顔をしかめ、いやがっているみたいだった。有希子が理由を訊いても、舞香は口を噤んでいた。
二・三日、有希子がことあるごとに散歩を提案すると、舞香は有希子への警戒がだいぶうすれたみたいで、学校の方向へ行かないならいい、と云った。どうやら、散歩という口実で学校へ行かせようとしていると思われたらしい。有希子は苦笑いで、舞香の条件をのんだ。
舞香はもともと、運動が好きみたいで、歩きはじめると二時間でも三時間でも歩いている。運動不足を感じていた有希子は、足の裏にまめをこしらえながら姪に付き合い、体重を減らした。舞香も段々と、ほっそりしていった。
舞香は夜、歩きたがったが、まだ十歳だし、なにかあったら対応できない。有希子はお昼に歩こうと提案した。でも、舞香はそれはいやだと云う。結局、朝はやくに歩くことになった。
舞香がぴょんと跳びはねた。先週末、家に帰った時に買ってもらったというあたらしいスニーカーが、きらっと光る。反射材がついているのだ。
「ユキちゃん、なに食べる?」
「モーニングセットにしようかな」
「舞香はオムライスがいいな」
ふたりは散歩コースにある喫茶店「ファンブル」へ向かっている。どうしてそんな名前なのかは知らないが、朝四時半から散歩をし、六時頃に通りかかる場所でもう営業を始めているのがファンブルなのだ。
はじめてそこを通った時、舞香が食品サンプルをじっと見ていたので、這入ることを提案した。それからはたまにファンブルで朝食をとるのが、ふたりの習慣になっている。
――あ、またあのひとだ。
有希子は顔をしかめた。
ファンブルは商店街の途中にあるのだが、その隣が大きな駐車場になっている。といっても、その駐車場が併設されていたスーパーが去年潰れてしまい、駐車場は立ち入り禁止になっている。
だが、ファンブルの塀に寄りかかるようにして、その駐車場に座りこんでいる男性が、二ヶ月前からあらわれるようになった。いつも同じ服を着ていて、大きなバックパックをふたつ抱えている。
所謂ホームレスというやつだ。舞香はホームレスがどういうものかわかっておらず、そのひとに会釈したり、か細い声で挨拶したりしていた。有希子はそれがいやなのだが、舞香に「挨拶くらいしよう」と提案したことがある手前、むやみに咎めることもできない。
さいわい、というか、有希子がイメージしていたほど、ホームレスというのはこわいものではなかった。その男性は舞香に会釈を返し、またじっとしている。昼間、舞香に留守番を頼んで買い出しにでかけると、その男性は居なくなっているから、おそらく日雇いの仕事でもしているのか、炊き出しにでも行っているのだろうと有希子は思っている。
今朝も舞香は、その男性に小さく会釈して、頑張っておはようございますと云っている。有希子も続いた。男性はふたりに軽く頭を下げ、膝の上のふたつのバックパックを大事そうに抱える。
ファンブルはれんが造りに見える、しゃれた建物だ。ドアを開けるととりつけられたカウベルが鳴る。
「おはよう、まーちゃん」
「おはようございます」
舞香は会釈するだけなので、かわりに有希子が応じる。ファンブルのマスターはにっこりした。
ふたりはいつもの席へ座った。マスターがやってきて、有希子はモーニングセットを注文し、舞香はメニュー表のオムライスとホットミルクを指さす。舞香が親と有希子以外で声を出して挨拶するのは、あのホームレスの男性だけだ。ファンブルへ通うようになってそれなりの期間が経つのだが、ここのマスターにはまだ心を開いていない。
分厚いトーストとベーコンエッグ、コーヒー、ふわっと空気を含んだバター、きゅうりとレタスとトマトのサラダ、というモーニングセットは、すぐに運ばれてきた。壮年のウエイトレスが、舞香に微笑みかける。
「まーちゃんのオムライスは、もうちょっと待ってね」
舞香はこっくり頷いて、すぐにそのひとから目を逸らした。
舞香はオムライスをかきこむみたいに食べ、ホットミルクを飲み干した。おまけ、と出された煮豆もすぐに食べてしまう。市販の煮豆や有希子がつくったものは手をつけないのに、ここの煮豆だけは食べるのだ。驚くくらいにおいしいので、有希子も腹がたたない。
ちまちまとトーストをかじっている有希子は、首をすくめる。
「ごめんね、まーちゃん。もうちょっとかかりそう」
舞香は頷く。有希子がゆっくりと食事をすることに、舞香は怒っているふうではない。ただ手持ち無沙汰らしいので、有希子はケータイを舞香へ渡した。舞香用に、漢字クイズのアプリをいれてある。
舞香は漢字クイズをはじめ、有希子はカウンタを見た。マスターとウエイトレスが楽しそうに話している。訊いたことはないが、会話から、ウエイトレスはマスターの息子の奥さんらしいと有希子は思っていた。
カウンタ席にはせなかをまるめ、ギターケースを隣に置いた男性が居る。「マスター、モーニング」「俺も」常連さん達がなだれこんできて、男性がギターケースを膝に抱えた。ファンブルはモーニングセットがお手頃なので、近所のひと達がよく来ているのだ。
有希子はトーストの残りにバターをつけて口へ詰め込み、ケータイを握りしめて顔をしかめている舞香をつれてレジの前まで移動した。現金で支払いをする。ここは現金支払いしかできない。
舞香はひとが多いと機嫌が悪くなる。有希子は舞香のその様子を見ていたくなかった。
ふたりは手をつないで外へ出る。
舞香は勉強が嫌いではない。同年代のほかの子より優秀だという訳ではないが、意欲はあるし、教わったことは咀嚼しようとする。
いじめに関しても、弟夫婦がまた学校へ訊いたが、そういう事実はないと返ってきたそうだ。舞香自身も否定している。
どうして学校へ行きたくないの、と、有希子は訊いたことがある。舞香は突っぱねるみたいに、行きたくないから、と答えた。
有希子はそれ以上、舞香にくわしい話をさせる気にならなかった。彼女自身、教諭を辞めたことを「なんとなく」だと周囲に話している。なにか話したくないことがあったのだろうと思った。
「あれ、まいやんじゃん」
舞香の手に力がこもった。
有希子が声のほうを見ると、小学生くらいの女の子が居た。面差しが似た男性と手をつないでいて、舞香を見てにやにやしている。
舞香が有希子の手をひっぱる。女の子がくすくす笑った。
「まいやんもここでご飯食べてるの? じゃああたしも明日から毎日来ようかな」
ユキちゃん、と、舞香が小さな声で云った。帰ろう、と。
有希子はそちらへ頷いて、女の子とその父親らしいふたりを見た。にっこり笑う。
「舞香のお友達?」
「え? あー、はい。おばさんは?」
「舞香のお父さんのお姉さん」
「ふーん」
女の子は舞香を見て口を開いたが、ふふっと笑ってなにも云わなかった。有希子は舞香の手をひいて、ファンブルからはなれた。
商店街を出ると、舞香は顔をまっかにして云った。「もうファンブル行かない」
いじめがあるかどうかはともかく、あの女の子と舞香の間にはなにかあるらしい。
有希子はそう思ったが、言葉に出すことはなかった。話しにくいこともあるだろうし、舞香自身が触れてほしくないようだったからだ。
あの日は、もう行かない、と云った舞香だったが、数日するとファンブルのオムライスを食べたいと云いだした。有希子はあの女の子のことは口にしなかった。
「もっとはやくに出発しようか」
「え?」
「まーちゃん、早起きが得意でしょ。ユキちゃんもそうだから、もっとはやくに寝て、もっとはやくに起きようよ」
そうしたら、あの女の子と会う可能性は低い、と、言外に匂わせたつもりだった。舞香はしばらく考えて、うん、と頷いた。
舞香と有希子は八時に寝て、三時に起きた。まだくらい町を歩く。歯科の看板は、日の出前だと尚更見えない。
舞香は楽しそうだった。彼女は、ひと付き合いが苦手なのかもしれない。ひと付き合いと云うよりも、人間が苦手なのだろうか。
犬の散歩をしている赤の他人ですら、視野にはいると舞香は緊張する。他人、というのが、きらい、もしくはこわいらしい。
それをどうやったら治せるのか、そもそも治す必要があるのか、有希子にはわからない。
ファンブルが見えてくると、舞香はあっと小さく声を出した。有希子は小首を傾げる。
マスターが、ホームレスの男性と話していた。マスターはとても楽しそうだが、男性は困ったような顔で頷くか、頭を振るかだ。
「おう、まーちゃんおはよう」
マスターが舞香に気付いて、左手を振りあげた。舞香は体をこわばらせ、ぎこちなく会釈する。有希子はマスターに微笑んだ。
「おはようございます」
「今日もオムライスかな? まーちゃん」
舞香が頷いた。マスターは満足そうにして、ホームレスの男性を振り返る。「じゃあな、よっちゃん。飯くいたかったらおごってやるから、いつでも来いよ」
よっちゃん、と呼ばれた男性は、ふるふると頭を振った。
ファンブルはもう営業を始めていた。
カウベルの音がやまないうちに、舞香がカウンタ席へよじ登る。「まーちゃん?」
舞香はそこに座りたいようだ。いつも居る、ギターの男性が居ないからかもしれない。
有希子は舞香の隣に座る。
「ここに座りたかったの?」
舞香は小さく頷く。有希子は罪悪感のような、羞恥のようなものを覚えた。舞香の要望に応えてきたつもりだが、彼女はまだ我慢している。口に出してくれればいいのに、と思ったが、舞香は喋るのが苦手なのだ。
舞香はカウンタの上に置いてある人形を手にとった。ピエロの人形だ。それを触ってみたかったみたいで、興味津々な顔で腕を動かしたり、脚を動かしたりしている。
「それ、うちの旦那さんがつくったんだよ」
ウエイトレスが、モーニングセットとオムライス、ホットミルクをカウンタへ置いた。舞香はぱっと、人形から手をはなし、膝の上でぎゅっと拳をつくる。
ウエイトレスはちょっと哀しそうにした。
マスターがサンドウィッチを持って、外へ出て行く。すぐに戻ってきた。「みーちゃん、よっちゃんがあとでお皿返しに来ると思うから、僕が居なかったらうけとっといて」
「はい」
マスターはにこっとして、コーヒー豆を挽き始める。
有希子はウエイトレスに、小さな声で訊いた。「あの、よっちゃんって?」
「外のひと」
ウエイトレスはついっと、隣の駐車場を示す。「マスターの幼馴染みなんだって。いいひとなの。たまに、花壇の草むしりとか、ごみ出しとかしてくれて」
幼馴染み、という言葉で、あの男性にも子ども時代があったのだ、と有希子は気付いた。そんな簡単なことをまったく考えてこなかった自分をはじた。
舞香は本や美術品が好きだ。図書館や美術館、本屋へ行きたがる。自転車で十分ほどの場所にある美術館は、小学生までなら入館無料なので、舞香はよくそこへ行っていた。きちんと行き先を告げ、五時までに戻るなら、好きな場所へ行っていいことにしている。
舞香が美術館や図書館に居る間、有希子は家で、もしくは外で仕事をした。編みもの好きの個人がホームページをつくりたいと依頼してきて、もこもこした編みぐるみ達の写真をどうレイアウトするかなやんだり、子どもの読書感想文の代行をしたり、仕事はそれなりにある。贅沢はしないし、化粧品や装飾品に興味を持てずにお金をかけないから、有希子の暮らしはそれくらいで充分成り立つのだった。
舞香に関しては、弟夫婦から月に数万円もらっている。こんなには要らないと何度も云ったのだが、弟の奥さんが納得しなかった。彼女は有希子に、母親としての仕事を完全に渡したくないのだ。あくまでお金を払って舞香をみてもらっているだけ、と思いたいのだ。
それは有希子も理解したから、それからは素直にお金をもらうことにした。だが、あまった分は貯金している。これは弟達に返すのではなく、いずれ大人になった舞香へ渡そうと考えていた。
墓参りの代行を依頼され、有希子は町外れの霊園へ来ていた。草むしりや墓石磨きを終え、写真を撮って依頼人にメッセージを送る。
ふと、かつての恋人のことを思い出した。ここに墓があるはずだ。
有希子は五歳下の恋人が居た。有希子が教師を辞める時、彼はその選択を責めなかった。家族は、折角の安定した職なのに、と云ったけれど、彼だけは有希子の決断を否定しなかった。
結婚も、有希子は考えていたし、彼もそうだったらしい。婚約指輪をつくっている工房のホームページがブックマークされていた。
彼は友人達とスキー旅行へ行って、帰らぬひととなった。
彼のお墓は草が生え、墓石も汚れていた。有希子は草むしりをし、墓石を磨いた。彼だけは、有希子がどうして教師を辞めたのか、理解してくれていた。有希子自身もうまく言語化できない、もやもやした気持ちを、わかってくれた。
舞香に対して自分がそんな存在になれたら、と、有希子は思う。
舞香が不釣り合いに、高価そうで華奢な腕時計をつけているのを有希子が見たのは、お風呂の時間の前だった。
「まーちゃん、これどうしたの?」
「もらったの」
舞香はこともなげに云い、腕時計を外して居間のテーブルへ置いた。有希子は舞香のブラシを持ったまま、かたまっている。
腕時計が舞香の腕から外れると、見覚えのあるものだと気付いた。それはよっちゃんと呼ばれたホームレスの男性が身につけていたものだ。
「まーちゃん」
「うん」
「これ、あの男のひとからもらったの? いつもファンブルの隣に居るひと」
「うん。よっちゃんだよ」
舞香は居間の隅にある、自分用の三段ボックスから、下着や寝間着をとりだした。「今日、図書館の帰りに会ったの。よっちゃんきれいな腕時計だねって云ったら、くれたんだよ」
「返しましょう」
有希子がそういうと、舞香はむっとした顔で有希子を見る。
「どうして?」
「知らないひとからこういうものをもらうのはだめだから」
「知らないひとじゃないよ。よっちゃんだもん。ファンブルのおじさんの知り合いだし、舞香だっていつも挨拶して」
「そういうのは知り合いって云わないの」
「でも」
「それに、この腕時計、凄く高価なものだと思う。安易にもらっちゃだめ」
舞香は口を尖らせ、ふんと鼻を鳴らして浴室へと走っていった。
有希子は気持ちの悪さを感じながら腕時計を掴み、家を出た。幾らマスターの知り合いだからって、得体が知れない人物であることにかわりはない。舞香のような女の子にただでこんな高価なものを渡すなんて、なにを考えているのかわからない……。
有希子は自転車から降りた。ファンブルはまだ営業中だ。あのマスターは、いつ寝ているんだろう。
有希子はゆっくりと、自転車をおして歩いていく。駐車場には、「よっちゃん」の姿はない。
有希子はファンブルの前に自転車を停め、息を整えながらファンブルへ這入った。手には腕時計を握りしめている。
マスターは有希子の要領を得ない話を、困った顔で聴いていた。
「だから、これ、折角ですけれど舞香がつけるようなものではないと思うので」
「そう云っても、よっちゃん、しばらく帰らないと思うよ。住み込みの仕事が見付かったらしいんだ」
有希子はひゅっと息を吸い込み、しかしなにも云えない。
マスターは白髪頭を掻いた。店内には数組のお客が居るが、有希子達が喋っているのには興味を示さない。
「でも……こんな高価なもの」
しっかりと見て、わかったのだ。有名ブランドの刻印があった。それなりの値段のものだろう。
マスターは苦く笑い、コーヒーのドリップをはじめた。「ああ、よっちゃんが子どもに贈られたものだよ」
「え?」
「よっちゃんち、昔は隣にあったんだ。そのあとスーパーができて、潰れちゃったけど、あの駐車場まで全部よっちゃんちだったんだよ」
マスターの話す、「よっちゃん」の人生は、悲惨なものだった。
現在潰れたスーパーの建物があるところで、よっちゃんの家は昔からの味噌屋をやっていた。江戸時代から続く老舗だったらしい。
「昔はねえ、僕達はあまーい匂いで目が覚めてたんだ。駐車場だったとこは、工場だったんだよ、味噌のね。大豆を煮る甘い匂いがしてて、たまによっちゃんのお母さんが、僕と兄貴達にこっそり煮豆を食べさせてくれたな。凄くおいしくてね。それで僕は煮豆が好きになって、自分でもつくってるくらい」
そんな優しい、よっちゃんの母親は、よっちゃんが高校生の頃に居なくなってしまった。
姑との折り合いが悪く、夫が助けてもくれず、すべてに疲れたんだろう。マスターはそんなふうに語った。
失踪の理由ははっきりしないが、それからよっちゃんの人生は急降下した。味噌屋が赤字経営であり、大学に行くお金がないこと、母親を追い出したと云われている祖母が宗教に凝りはじめ、勝手に土地を売ってしまったこと、すでに自立していた兄ふたりが掛け軸や陶磁器など金目のものを勝手に持ち出して売ってしまったことなどが重なり、最終的に父親は自殺した。
よっちゃんにはぼけてしまった祖母と、借金が残った。
「それでも、よっちゃんは優秀だからさ。成績も凄くよくってね、いい大学へ行くんだろうってみんな云ってた。僕も勉強見てもらったことあってね。おかげで高校、ダブらずにすんだくらい」
マスターは懐かしそうに云い、俯いた。
「よっちゃんは親父さんの跡を継いで、なんとか味噌屋を立て直したんだ。奥さんもらって、スグルくんとユイカちゃんって子どももできてね。でもなあ、どうしてあんないいやつに悪いことばっかり起こるのか、僕は不思議でさ。だから、神さまってものを信じなくなっちゃったんだけど、奥さんが不倫して、駈け落ちしちゃってね」
「そんな……」
「しかも、相手は従業員で、そいつが横領もしてたんだよな……」
マスターは目許をさっと拭った。「よっちゃん、離婚して奥さんの籍に子どもを移したよ。借金ができちゃってたから。子どもに借金が渡らないように書類を書いてね。そこから二十年、住み込みの仕事して稼いで、体壊して……まだ借金があるみたいだけど、この時計はユイカちゃんが父の日にくれたやつだから、手放せなかったんだろうね。まーちゃんがユイカちゃんみたいに思えたのかなあ」
マスターは息を吐くと、もう一杯飲むかい、と微笑みをくれた。有希子は頷いて、あたたかいコーヒーをもう一杯飲んだ。
腕時計は、マスターに預けた。舞香は不機嫌だったけれど、有希子が言葉を選びながら、よっちゃんの生い立ちなどを話し、あれは娘さんにもらった大事なものなのだと説明した。
舞香は無表情だったが、納得はしたらしく、こっくり頷いた。
「わかった。ファンブルのおじさんなら、なくしたりしないよね。舞香、よっちゃんが戻ったら、あの腕時計きれいにラッピングして、返す」
舞香はもう一度頷いた。「ユキちゃん、舞香、明日学校行く」
「無理しなくていいよ」
「うん」
「先生には電話しておいたから」
「うん」
舞香はあおざめ、震えていたが、頷いて有希子から離れた。有希子は舞香が、しっかりとランドセルのストラップを握りしめ、校門を潜るのを見た。
舞香の担任と、保健の先生には、電話してある。舞香は学校へは行くと云ったものの、教室には行きたくないらしい。だから、保健室登校と云うことになった。
弟夫婦は喜んだが、舞香が「まだユキちゃんとこがいい」というので、しばらくは有希子の家から登校する。それでも、時間が経てば舞香は学校に慣れ、家へ戻れるだろう。
有希子は息を吐いて、踵を返す。
墓参りの代行というのは、数は多くないがかといって途切れない依頼だ。有希子は度々、ケータイを確認しながら、その仕事をやった。いつ、舞香の学校から連絡があるかわからない。舞香はいじめはないと云っているらしいが、ファンブルの前で会った女の子のことが気になる。
舞香はうまくやっているみたいで、連絡はなかった。
これでよかったんだろうか、と有希子は思う。
霊園をでてすぐの自販機で、コーヒーを買った。手のなかで缶を転がす。
有希子は胸がざわざわと落ち着かないのを感じていた。これは、教師をしていた時の感覚だ。
わたしはあの仕事がきらいだった、と、唐突にわかった。言葉にできないなにかは、「きらい」だった。
子どもの教育は大事だと有希子は考えている。自分が、中学生の頃、進路相談で心ないことを云われたのをきっかけに二ヶ月も学校に行けなかったことが、その考えの根底にある。教師は、教師という立場である以上、子どもにもっと真剣に向き合うべきだ。
有希子はそう考えている。今もその考えはかわらない。
ただ……こわくなった。なにもかもがこわくなって、教師を辞めた。
こわい、きらい、という気持ちをどう説明すればいいのだろう。有希子はこわかった。自分が、この子達の未来を左右してしまう、ということが。この子達の五年後、十年後、三十年後が、自分のたったひとつの発言でめちゃくちゃになってしまうかもしれない。それが異常にこわくなったのだ。たったひとりで、何十人もの子どもの将来に責任を持つなんて、有希子にはこわくてできなかった。
――まーちゃんがわたしの所為で無理に学校へ行ったのなら、それがあの子の将来をゆがめてしまったら。
舞香は勉強には問題がない。有希子のように在宅でできる仕事もあるのだから、仮にこれから学校へ行けないままだとしても、将来についての心配は少ない。協調性がないひとなんてどこにでも居る。舞香は自分の意に添わないことは徹底的に避けるが、他人を攻撃するような子ではない。
――まーちゃんは学校へ行く以外の道もあるかもしれないのに、わたしがそれを、無意識に潰してしまってたのかも。
――学校へ行けって云うプレッシャを感じてたのかも。
しかし、学校へ行くことそれ自体は間違いではない。それが有希子を更になやませた。結局、答えは出ない。
「お帰り」
家に戻ると、舞香が居間で寝転がっていた。
学校から帰ったままの格好らしい。本を読むでもテレビを見るでもなく、電気も点けずにじっとしている。
「まーちゃん?」
電気を点け、有希子はかばんを置いた。舞香の傍に膝をつく。
舞香は消耗しているようだった。目はカーペットを見ている。右を下にして横になり、左手でカーペットをゆっくりと撫でている。
「まーちゃん、大丈夫?」
「うん」
「つかれた?」
「うん」
「お勉強、どうだった?」
「しらない」
舞香は唸る。「舞香、教室行かなかったし、保健の先生はなんにもいわないから」
「そっか」
「でも、ドリルやった」
「偉いね」
舞香は頷き、有希子はその肩を撫でた。
「ユキちゃん」
「うん」
「ホームレスって悪いことしてるの?」
返答に詰まった。
よっちゃんは、厳密に云えば不法侵入の状態だった。あの駐車場はすでに彼の土地ではなく、スーパーのオーナーのものだ。
なにか云わなければ、と考える有希子は、ふと疑問を感じた。
「まーちゃん」
舞香の肩を揺すぶる。と、舞香は唸りながら体を起こした。割座になって、有希子を見ている。「ユキちゃん?」
「ホームレスって、誰かが云ったの?」
「サラちゃん達」
「サラちゃんって? 誰?」
「……ファンブルに来てた子」
舞香の表情が沈み、口がぎゅっと結ばれた。彼女はそれから眠るまで、一切口をきかなかった。
「ほんとに、いじめはないんですか」
「ですから、そのことについてはアンケートをとってます」
有希子は翌日、舞香の学校に居た。舞香の母親も一緒だ。彼女には、わたしが先生に対して強い態度で行くから、あなたが仲裁して、と頼んである。短い教師人生で、「だめな」教師も見てきた。そういう教師は、面倒な親をいやがる。
面倒な親になってやろう、と思ったのだ。
「アンケートを見せてください」
「それは……内容はお伝えしたでしょ」
担任の若い男性は、舞香の母親を見た。有希子は間にある机を軽く叩く。「ちょっと、訊いてるのはわたしよ」
「ですから」
「アンケートの実物を見せてって云ってるの。なにが難しいんですか」
「児童の個人情報が含まれてます」
――なんだ。
有希子は拍子抜けした。「記名アンケートなのね」
担任は口を開けたが、なにも云わなかった。
舞香の母親が泣いている。有希子は説明した。舞香が、「サラ」という女子児童を苦手にしているらしいこと。彼女が来ただけで、お気にいりの喫茶店に「もう行かない」と云いだしたこと。サラが舞香にホームレス云々と話したらしいこと。記名アンケートでは正しい情報がとれないおそれもあること。
「勿論、本当にいじめなんてなくて、単にまーちゃんとその子が喧嘩したり、折り合いがつかなかったりするだけかもしれないけど」
有希子は舞香の母親の華奢なせなかを撫でる。「まーちゃんは、結構我慢強いよ。ほんとにいやだったんだと思う。学校が」
舞香は学校へ行ったり、行かなかったりを繰り返した。有希子は今まで通りに接したし、弟夫婦もそうした。いじめがあるかどうか、学校の外に居る有希子達には、どうしてもその真相は掴めない。
舞香は学校へ行くと、とても疲れるみたいだった。三時間散歩しても大丈夫なのに、二十分もかからず行ける学校から帰るとぐったりしている。
フリースクールのことを弟が調べて、そこへも行ってみたが、舞香は二度と行きたがらなかった。一緒に行った弟によると、掃除をまともにしている様子ではない汚いところだったそうだ。個人経営のフリースクールにはそういうところもあるのだと有希子も知っていたが、実際耳にすると信じられなかった。
夏休みが来て、舞香はまた美術館通いをはじめた。有希子はその間に、墓参りや旅行の代行、草むしりなどをこなした。朝の散歩は復活していて、ファンブルにも何度も行ったが、よっちゃんはまだ戻っていないらしい。
有希子が郊外の住宅地での草むしり仕事を終え、自転車で帰っていると、あの女の子を見かけた。サラ、という子だ。男の子ふたり、女の子ひとりと一緒に、自転車をおして歩いている。楽しそうに笑いさんざめいていた。
つけようとした訳ではない。たまたま、有希子と同じ方向へ、彼女達は移動していた。有希子はそれになんとも云えない気持ちを感じた。
有希子は八百屋の前で自転車を停め、きゅうりとプチトマト、レタスを買い求めた。舞香が最近、料理に興味を持ちはじめたのだ。簡単なサラダくらいなら、包丁をそんなにつかわなくてもつくれる。今日の夕飯でためそうという話になっていた。
おまけの人参も一緒にかごにいれ、再び自転車をこぎ出そうとして、有希子は動きを停めた。
かなり遠く……ファンブルの前辺りで、あの子達が停まっている。そのなかに、こわばった表情の舞香が居た。
有希子はためらっていたが、自転車をこいでそちらへ向かった。そもそも、そちらへ移動して、自宅へ戻るつもりだった。できれば、ファンブルのマスターにサラダのドレッシングのことを訊くつもりだった。
有希子がおっかなびっくり自転車をこいでいく間に、サラ達は用事を終えたのか、不満げな顔で自転車にまたがり、来た道を戻っていった。
それとすれ違って、有希子は速度を上げる。ファンブルの前で停まった。
「まーちゃん、今の子達」
「大丈夫だよ」
舞香はふんっと鼻を鳴らす。その表情はさめきっていた。「もう大丈夫。本当に」
舞香は落ち着いているようだったが、有希子が大丈夫ではなかった。心臓がどきどきしていて、気分が悪い。舞香にごめんねと云って、ファンブルへ這入った。ファンブルにはめずらしく、お客がひとりも居なかった。
有希子の顔色は悪かったようで、マスターもウエイトレスも心配そうに案内してくれる。有希子はおおきなソファに腰掛け、おしぼりを額にあてて息を整えた。
「おじさん、紅茶ください」
舞香が云い、マスターははじめて舞香の声を聴いたことに驚いた様子だったが、すぐに紅茶を用意してくれた。「ホットミルクじゃなくていいのかな?」
「うん。きらいだから」
舞香はきりっとした顔で答え、紅茶になにもいれずにすすった。
有希子はおしぼりで顔を拭う。八百屋の袋が有希子の動きで音をたてる。
「まーちゃん?」
「ごめんね、ユキちゃん。ユキちゃんも牛乳きらいなのに、舞香がのみたがるから買ってくれてたんだよね」
「あの……」
「舞香、もう気にしない」
――気にする?
有希子の疑問がわかったのだろう。舞香は悔しそうに云った。
「舞香、もっと大きくなりたかった。チビだから。チビだって、サラちゃん達がからかうから」
――ああ。
有希子はふーっと息を吐く。舞香が、突然牛乳や、それに準じたものを食べたがるようになった。おなかを壊すのに、無理に沢山のものを食べる。舞香の母親が心配していたことだ。
舞香がそれを、母親に云わなかったのも、どうしてだかわかった。弟は背が低くない。舞香の母親は、女性のなかでも小柄で華奢だ。有希子にだって抱えられそうに。
自分がそれを云ったら母親が気に病む、と、舞香は思ったのだろう。
「サラちゃん達ね、舞香みたいに学校に行かないと、だめなひとになるよって云うの。ホームレスになるよって笑ったんだ」
「え?」
「だから舞香、よっちゃんと話したの。前、図書館にサラちゃんが居て、ファンブルのとこに居るおじさんみたいなひとがホームレスだって云ってたから」
有希子は心臓がどきどきするのをどうにもできない。「サラちゃん」の顔が頭をよぎった。別に、普通の子だ。舞香とそんなにかわりはない。それなのに、どうして舞香に、そんなにも毒のあることを云うのだろう。
舞香がよっちゃんにだけ、挨拶をしたり、話していた様子なのも、理由がわかった。彼女は彼女なりに、サラ達の云うことを調べていたのだ。
舞香は紅茶をぐいっと飲み干す。
「でもよっちゃんいいひとだった。舞香と話してると、たまにお金くれようとした。ファンブルでなにか飲みなよって。舞香断ったけど、よっちゃん自分で、ここに来ようとはしないんだ」
「……うん」
「よっちゃんがだめなひとなら、舞香、だめでいいよって、さっき云った」
「え?」
「サラちゃん達が、ここにいたおじさんはきっとタイホされたんだって云うから、違うよって云ったの。お仕事で居ないんだよって。そしたら、あんなだめなひとはお仕事なんてないって、ユキちゃんのこともちゃんとしたお仕事してないって云ってたから、舞香べつにいいよって云ったの」
舞香はティーカップをソーサーへ戻した。にやっとする。
「よっちゃんがね、ひていされたら、そうだよって云ってごらんって、教えてくれた。そのひと達はひていしたいだけだからさせてあげなよ、まんぞくするよって。そのとおりだった。舞香、ホームレスになるよ、だめなひとになるよ、よっちゃんもユキちゃんも優しいから舞香そんなふうになれたら嬉しいもん、サラちゃんはちゃんとしたお仕事のある立派なひとになってねって云ったら、サラちゃんなんにも云えなかったよ。舞香が沢山喋ったから、サラちゃん達驚いてた。もうこわくないもん」
有希子は自転車をおしている。舞香はその前を、とびはねて歩いていた。
二学期がはじまり、舞香は特別学級にうつっていた。サラ達の接触はまだあるようだ。舞香は、でも平気だよ、という。彼女は相変わらず、学校では口をきかないので、受診をすすめられ、場面緘黙症という診断がくだされていた。
舞香は今では、平日は家で過ごし、土日に有希子の家に泊まりに来るようになっていた。月曜の朝は一緒にファンブルでご飯を食べ、こうやって有希子が小学校まで一緒に行く。
「ユキちゃん、よっちゃん戻ってきたらさ、あの看板のとこまで行こうよ」
「うん?」
「よっちゃんも、マスターも、あの歯医者さんに行ってたんだって」
「そうなの?」
舞香は歯を見せて笑う。
「舞香、あの歯医者さん好き。喋らなくても怒らないし、じっとしてるだけでいいんだもん。だからね、あの歯医者さんもっと繁盛したらいいのになって思うんだよ。先生が、うちは儲かってないからねえって、よく云うんだもん」
あの看板にやけに固執する理由はそれだったのか、と、有希子はくすくす笑った。冗談だろうが、舞香は本気にとったのだ。
「わかった。一緒に行こうか。マスターも誘おう」
「うん!」
舞香は嬉しそうににっこりして、いってきます、と校庭へ駈け込んでいった。
有希子はその後ろ姿を見送り、自転車にのった。今日は仕事ではなく、霊園へ行く。彼のお墓をきれいにして、それから、できたら彼の家にも行くつもりだ。久し振りにお線香を上げさせてもらいたい。舞香の話をしたら、彼が喜んでくれるような気がした。