スネアウルフとの戦い2
眼前には獣の口。対抗できる男は、自らの後方。
迫る死を感じながら、少女はフレイムボムの呪文を唇にのせた。
「ゆらうゆらうひよ」
周囲を漂う魔素が動き出す。フレイムボムを生み出す魔素は火の魔素だ。土、風、火、水の四大魔素の中では、最も自然界における割合が低い。
そんなものが集まり、濃度を高めれば、それはまるで空気の粘度が異なるような違和感を周りに与える。相手が空気の感知に長ける獣であるなら尚更。
そしてスネアウルフは、この空気の中で、この少女に、痛い目に遭わされていた。
「ギャウッ」
結果、スネアウルフは攻撃よりも回避を選択した。抗議するような鳴き声を上げて、少女に赤い瞳の焦点を合わせたまま、後ろへ飛び退く。
入れ替わるように男が少女の前に立った。
「今のは何だ?なぜあいつが避けた?」
「うーん、その話は後にしませんか」
戦闘中だというのに解説を求める男に、少女は苦笑しながらそう返す。
それよりも確かめなければならないことが、少女にはあった。
鉄壁のように攻撃を通さない男の後ろで、幽かな声で呪文を紡ぐ。それはウィンドウォールの詠唱。最低限の魔力でつくられた薄く小さな風の壁は、スネアウルフの眼前に現れた。
折しもスネアウルフは牙を剥いている状態で、スネアウルフの牙と風の壁が軽く触れる。当たったのは牙の先端ではなく側面。どちらにとっても何の痛手にもならないであろう接触だ。
しかし、響いたのはパリンという軽い音だった。
注視していた少女の前で、ウィンドウォールはバラバラに崩れ、魔素に戻って消えていく。
ああ、これはもしかすると、もしかするのかもしれない。
切っ掛けは小さな違和感。
スネアウルフが爪ではなく牙で攻撃してきたこと。通常のスネアウルフの攻撃は専ら爪によるものだ。爪で獲物を押さえつけ、自由を奪って初めて牙を使う。
けれども先程のスネアウルフは、頭部を前面に押し出す危険を冒してまで牙で攻撃する意思を見せた。
それも、自身の爪による攻撃が何度も防がれた後で。
そして、エディン・サンティのこと。もし彼がフレイムシールドを展開してなお、その身に攻撃を受けたなら。
フレイムシールドは、属性の違いこそあれどウィンドウォールの上位互換的な魔法だ。ウィンドウォールに遮られる攻撃が、フレイムシールドを破れるとは考えられない。無論、魔力切れなど様々な可能性は考えられる。
だが、もしもその中の最悪の可能性を考慮するならば。
あの牙には魔法防御が効かない。
そしてその可能性は、ウィンドウォールがスネアウルフの牙に触れて砕けたことで、確信に変わった。
当然男はまだそれを知らない。一度可能性を示唆したことはあるが、爪が防げたことで牙も同様だと思っているだろう。
警告を発しようと口を開いた少女の耳に、男の声が届いた。
「土魔法【バレットウォール】っ」
まるで耳鳴りのように、少女の耳から全ての音が遠ざかる。
バレットウォールは攻防一体の魔法。土の弾丸で攻撃すると同時に、琥珀でできたような半透明の壁が現れて防御を担う。
男はこの魔法でスネアウルフの攻撃を受け止めて、カウンターを叩き込む心算らしかった。
琥珀色の壁の向こうで、スネアウルフががばりと口を開けている。その牙が鈍く光る様子が、やけにはっきりと少女の目に映った。
土の弾丸は、どうやら全てかわされたらしい。
駄目だ。これでは
打算と逡巡が心臓を掠めて、それでもその思考が脳に至る時間はない。
ただ、体だけが動いていた。
身体強化の影響を受けた手で、少女は目の前の男を突き飛ばす。予想外の方向からの衝撃は、岩のように頑丈な男の身体を容易に動かした。
今まで男が居た場所に移動する形になった少女に、男は何か抗議の声を上げたようだ。その声すら遠くに聞こえた。
スネアウルフは、目の前の人間が入れ替わったからといって、攻撃を止めることはしなかった。
鋭い牙が、瞬く間に少女の肩口に吸い込まれる。
「あ、く、あぁぁァッ…!」
耐えかねるような悲鳴をあげて、少女は仰け反った。
その身は未だにスネアウルフに捕らわれている。少女の肩から腹の上部までを覆う巨大な口が、味わうようにその牙を内側へと沈めていく様子を、男は呆然と見ていた。
なぜバレットウォールが破られたのか。
なぜスネアウルフに咥えられているのが自分ではないのか。
そしてなぜ、彼女は自分を庇ったのか。
男は特殊な家で育った。
そこでは親兄弟までもが敵対者で、隙を見せれば蹴落とされる、そんな世界だ。自分の力に絶対の自信を持たなければならず、誰に助けを求めることも許されなかった男にとって、自分の失態で他人に命を救われるなどということは、初めての経験だった。
動揺し正常に働かない頭とは裏腹に、男の身体は経験に基づいて動く。
武器を槍へと変形させ、前方に一突き。
一切の思考がないだけにその動きは速い。しかし、スネアウルフはその嘲笑うかのような赤い瞳を輝かせ、槍の軌道上に顔を動かす。それはつまり、少女の体を差し出すということで。
「く、っ」
槍の軌道変更が叶わないことは、スネアウルフも男も分かっていた。二者は同時に、串刺しになる少女を幻視する。スネアウルフは愉悦に、男は後悔に顔を歪めた。
ドン、と槍に肉を突く感触が伝わる。
「ギャウゥゥゥウゥゥッンッッ!」
しかし、悲鳴を上げたのは少女ではなくスネアウルフだった。
槍が到達する直前に、人間には有り得ない動きで体をひねって躱した少女は、ようやくスネアウルフの顎から解放されて地に足をつけた。
その足取りは、意外にもしっかりしている。
顔を串刺しにされ、痛みに悶えるスネアウルフのがむしゃらな攻撃をあっさりと避けて、例の歌に似た詠唱を始める。
「風魔法【ウィンドウォール】、水魔法【エンディレイン】」
風の壁でスネアウルフの動きを制限し、中空よりの激しい雨で視界を奪う。
体内の魔力の消費と、傷口から失われた血が少女に虚脱感をもたらすが、それでも少女の頬には薄い笑みが宿っていた。
大丈夫、ここまですれば
あとは彼が
「土魔法【エッジ】」
ひどく冷静で、温度のない声が響いた。それは、土属性支援系統の魔法。
男の持つ魔剣が、規格外の魔力によって強化され、さらに鋭さと堅さを増す。蜜を含んだようにきらきらと輝く凶悪な魔剣は、一直線にスネアウルフの首元へ吸い込まれた。
「ガ、ァ……ッ!」
赤い飛沫がスネアウルフの首から噴き出した。飛沫はすぐに雨と混じり、地面の水たまりにじんわりと広がっていく。
スネアウルフが体をよじった。
その太い首の半分ほどの深さまで裂傷が及んでいる。人間ならば絶命しているであろう傷だが、魔物であるスネアウルフにはまだ意識があった。
痛みと憎しみに、スネアウルフは牙を剥く。
けれども、その牙を向ける相手は、既にスネアウルフの視線の先には存在しなかった。
スネアウルフの左後足に痛みが走る。
続いて、右後足。
急に体に踏ん張りが利かなくなり、スネアウルフは地面に体を沈めた。前足が、がりがりと地面を削る。
急速に冷えていく体温とともに、スネアウルフは、ここが死地であると理解した。
だが、もう遅い。
背の甲皮が弾ける。首の傷が抉られる。銀色の体毛は、どこもかしこも血に濡れていた。
痛い。
嫌だ。
ざり、と前足で土を掴む。
死ぬのは、嫌だ。
逃げないと。逃げなければ。
でももう体に力が入らない。
嫌だ。嫌だ。
こんなところで。なんで。だって。
まだ、
まだ、おなかが




